パリ発ショパンを廻る音楽散歩

03.ショセ・ダンタン5番地 / サロンの繁栄

2008/03/01
ショセ・ダンタン5番地 サロンの繁栄
クリックで大きい地図(別窓) ショセ・ダンタン5番地
5, rue de la Chaussee d'Antin
75009 Paris
地下鉄 :7・9号線Chaussee d'Antin La Fayette
ショセ・ダンタン・ラファイエット下車
1833 年6月から1836年9月まで

 新しいシテ・ベルジェールの隠れ家のような住まいは狭くて日当たりが悪く、夏にはその蒸し暑さに閉口していたところ、ショパンは高級住宅街、ショセ・ダンタン5番地のアパートに住むヘルマン・フランク博士というドイツ人科学者と知り合い、彼の留守中、度々このアパートを間借りすることになります。当時、ショセ・ダンタンは金融界や実業界で成功した裕福なブルジョワ階級の居住区として、地理的な意味の他にパリで最も繁栄し、さらに変貌を遂げる新しい富と権力を象徴するエリアでした。ショパンは、博士のアパート解約をきっかけに洗練された趣味の家具を入れ、ワルシャワからの古い知り合い、アレクサンダー・ホフマン医師をルームメイトとして秋に正式に移転し、洗練された趣味の家具を入れたり高価な調度品と花々で飾って、名実共に上流社会の仲間入りを果たします。

 ホフマン医師は主治医として、また保護者として、ショパンの健康管理に気を配る理想的な同居人でしたが、やがて地方に職を得てパリを離れていきました。代わりに、
ショセ・ダンタン通りのプレート
ショセ・ダンタン通りのプレート
ショセ・ダンタン通り5番地は、現在、区画が変わって番地自体が存在しない
ワルシャワ時代の同級生でパリの医科大学に就職が決まったばかりの若き医師、ヤン・マトウシンスキがショパンの新しい同居人になります。

 フランスでは七月王政下の1830年から1840年代にかけて、イギリスに追随する産業革命により繊維業が好景気を迎えてファッション産業と結び付き、在庫を抱えた流行商店が百貨店の前身としてショセ・ダンタン周辺の大通りやパッサージュのアーケードに立ち並び、華やかな流行を生み出しました。このバザールが生まれた界隈は、現在もパリの重要なショッピング・スポットとして健在です。

ギャラリー・ラファイエット
ギャラリー・ラファイエット
Galeries Lafayette
40, Boulevard Haussmann
75446 Paris Cedex 09 France
TEL +33 (0)1 42 82 38 33
FAX +33 (0)1 45 26 76 11
www.galerieslafayette.com
japandesk@galerieslafayette.com
地下鉄 :7・9号線Chaussee d'Antin La Fayette
ショセ・ダンタン ラファイエット下車
郊外線RER : A線 Auberオーベール下車
郊外線RER : E線Haussmann St.Lazareオスマン サン・ラザール下車
営業時間:9時半から19時半(木曜21時)
休:日祭日
ギャラリー・ラファイエット内部
吹き抜けになっている
ギャラリー・ラファイエット内部
ショパンが住んでいたショセ・ダンタン通り沿いにある、1893年創業のパリで最大規模を誇る品揃え豊富な百貨店。
本館、紳士・グルメ館、インテリア館の3つに分かれ、それぞれの目的に応じてショッピングが出来る。

プランタン
プランタン
Printemps
64, Boulevard Haussmann
75009 Paris
TEL +33 (0)1 42 82 58 65
www.printemps.com
japandesk@galerieslafayette.com
メトロ地下鉄 :3・9号線Havre Caumartinアーヴル・コーマルタン下車
郊外線RER : A線 Auberオーベール下車
郊外線RER : E線Haussmann St.Lazareオスマン サン・ラザール下車
営業時間:9時35分から19時(木曜22時)
休:日祭日
オスマン大通りに面した1865年創業の老舗百貨店。
レディス専門のモード館、インテリアを扱うメゾン館、メンズ専用のブルンベルの3館に分かれ、おしゃれなカフェやブラッスリーなどの飲食施設も充実している。
プランタン内部
プランタン内部
プランタンの開店ポスター
プランタンの開店ポスター


サロンの繁栄

 ショパンの時代、パリの社交界の中心となったのは、産業界で成功して富を得た、新興ブルジョワといわれる中産階級によるサロンでした。

オルレアン公邸の夜会(1842)E.ラミによるリトグラフ
オルレアン公邸の夜会(1842)E.ラミによるリトグラフ

 サロンとは17世紀頃から発達した、宮廷や貴族の夫人の邸宅で互いの交流を深めるために開かれた社交の場です。
 女主人サロニエールたちは「芸術の庇護者メセナ」としての役割を担うべく、文学や美術、音楽界のエリートたちを常連客として社交界のトップにたち、新しい思想や文化はこの女性たちの開くサロンによって生み出され、わかりやすい会話や議論のなかで伝えられていきました。女主人サロニエールに選ばれたメンバーたちは、サロンに集って政治談議に花を咲かせ、芸術論を戦わせながらそれぞれの作風やパフォーマンスを確立していきます。
 七月王政下では大革命で亡命し、王政が復活した際に帰国して再開された王侯貴族によるサロンに、七月革命をきっかけに権力を増した裕福なブルジョワ階級によるサロンが加わり、パリ全体を席捲せっけんします。 当時のアーチストにとって、上流階級の夫人が主催するサロンに受け入れられることがパリでの成功の近道となり、サロンはロマン主義時代の文化現象のひとつとなりました。
 特に、ショパンのパリでの活躍の場となった音楽サロンは、フランス大革命後に不適切な一言でギロチン台に送られてしまうような深刻な政権に移行した際、談話を中心としたサロンが危険視され、言葉による影響を受けない演奏を中心としたサロンが好まれるようになった時期をきっかけに発展しましたが、七月革命の余波の残る七月王政下のパリのサロンにおいても、さまざまな思惑や駆け引きが横行して不穏な空気が流れていたことから、音楽はその場の緊張を和らげる必要不可欠な存在となり、ピアノはサロンの必需品として、演奏家はそれを担う貴重な人材として歓迎され、音楽サロンは楽器を演奏するための広い空間と音楽家への報酬を必要とする最も経費のかかるサロンとして、女主人サロニエールたちの財力を誇示するステイタスとなって急速に広がり、19世紀ヨーロッパの音楽界を左右するに至ります。

ショセ・ダンタンのサロン
ショセ・ダンタンのサロン

 ショパンをはじめ、当時のコンポーザー=ピアニストはこの音楽サロンを拠点とし、批評家や出版者と交流して情報を得ながら政財界のトップと親交を深め、支持者や後援者を増やしたり弟子を獲得してそれぞれの活動の基盤を固めていきます。サロンは音楽家にとって自分の腕前を披露するだけでなく、あらゆるチャンスと出会う特別な場所でした。

 それまでの音楽家はたいてい宮廷か政府か教会関係のいずれかに属し、契約には必ず老齢年金と遺族年金が含まれていましたが、雇用者としての貴族の宮廷が衰退し、度重なる革命で市民階級が台頭し始めると、市民生活における演奏団や合唱団が増加し、多くの音楽家が専門教育に必要とされて、市民の管轄化に組み込まれるようになります。さらに、ロマン派の時代になると芸術至上主義の風潮から音楽家の職業価値は高くなり、音楽家の需要は増え続ける一方でその保障制度はなかなか確立せず、19世紀半ばから音楽家を擁護する組合や団体が誕生するものの、本格的には浸透していませんでした。
 こうした状況の中、音楽サロンは貴族が音楽家を庇護した時代と音楽家の協同組合が整う時代の空白を生める福利厚生の機能をも果たします。サロンの女主人たちは才能ある音楽家を育て、地元の音楽活動を支援するばかりでなく、慢性的に資金に困窮していた音楽家達を個人的に保護したり病気の場合には看護したり、演奏旅行中の名演奏家に対しては宿や食事を無償で提供しました。

音楽サロン
『音楽サロン』
アシル・ドヴェリア作Aschille Deveria(1840)
 作曲の才のみならず、サロンの女主人サロニエールの心を掴む術をも心得ていたショパンはまたた瞬く間にパリの社交界を征服し、自分が姿を見せさえすれば熱狂されるサロンを常時20から30抱えて一晩に何軒もの屋敷を訪問することもあれば、ひとつのサロンを選んで明け方まで過ごすこともあり、サロンでの一回のステージに30フラン前後を受け取って生活の糧としていました。勿論、自己宣伝が必要な時や新たな人脈を開拓したい時、例外的な友情によって依頼された場合には無償でも演奏します。さらに、彼はサロンでの演奏を通じて、多くの上流階級の子女を弟子としていました。
ショパンがワルシャワ時代からの庇護者のひとり、ラジヴィウ公の紹介で、ユダヤの大富豪、ロスチャイルド男爵家のサロンで演奏した際、男爵夫人からレッスンを依頼されてパリでピアノ教師として活動するきっかけとなったことは有名なエピソードになっていますが、永遠のライヴァル、リストと出会ったのはポトツカ伯爵夫人のサロン、長年の恋人となる6歳年上の女流作家、ジョルジュ・サンドと出会ったのは、当時リストの恋人であったマリー・ダグー伯爵夫人が主催していた音楽サロンでした。1836年にリストとスイスへの愛の逃避行からパリへ戻って来たマリー・ダグー伯爵夫人はラフィット通り23番地(現在のラファイエット通りとの交差点)にあったフランス館に居を構え、ほどなく同じ館内に移転してきたジュルジュ・サンドと共同でサロンを開いていたのです。ここにはリストやショパンの他に、作曲家のベルリオーズやドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネ、ショパンがバラードを
ヨーゼフ・ダンハウザー(1840)『ピアノに向かうリスト』
 ヨーゼフ・ダンハウザー(1840)『ピアノに向かうリスト』ベートーヴェンの胸像を据えたピアノに向かっているのがリスト、傍らに座っているのがマリー・ダグー伯爵夫人、椅子に座っているが男装のジョルジュ・サンド、その左に座るのがアレクサンドル・デュマ、その後ろに立つのがヴィクトル・ユゴー、中央に立つ二人組みがパガニーニ(向かって左)とロッシー二(向かって右)その後ろはバイロンの肖像画。
作曲する際にインスピレーションを得た詩の作者として名高いポーランドの亡命詩人、ミツキエヴィチやその頃リストが傾倒していた思想家ラムネーらが常連として訪れ、お互いの創作意欲を刺激し得る画期的な空間として際立った存在でした。

 ジョルジュ・サンドの回想に依ると、ショパンの存在と才能は、人数の多い格式ばった社交界より、少人数のサロンにおいて最も光輝いていたようです。ショパンの珠玉の名作のほとんどは、サロンという親密な空間で演奏されることを想定して作曲されました。作品の中に投影されている知的で洗練されたショパン固有の美意識は、サロンに招待されるに相応しい教養ある聴き手にこそ理解され、受け入れられたのでしょう。こうして、社交界の寵児と謳われたショパンのパリでの生活は名実共にサロンを舞台に展開していきました・・・


中野真帆子
なかのまほこ◎4歳よりピアノを始め、10歳の時、NHK教育TV「ピアノのおけいこ」にレギュラー出演。ウィーン国立音楽芸術大学を経て、パリ・エコールノルマル音楽院コンサーティストを審査員全員一致で修了後、カナダ・バンフセンターにて研鑽を積む。ロヴェーレ・ドーロ国際音楽コンクール優勝をはじめ、アルベール・ルーセルピアノ国際音楽コンクール第4位、及びルーセル賞、マスタープレイヤーズ国際音楽コンクールピアノ部門第1位など、ヨーロッパ各地のコンクール入賞を機に、ソリスト・室内楽奏者としてアジア・カナダ・ヨーロッパの音楽祭に参加。帰国後はフェリス女学院大学音楽学部で後進の指導にあたる傍ら、国内外での演奏、各種コンクールの審査員、TV・ラジオへのメディア出演、音楽雑誌への執筆・翻訳など、多方面で活躍し、2016年秋に国連帰属の世界公益同盟より日本人として初めてのメダル受章。著書に『ショパンを廻るパリ散歩』(2009)、翻訳書に『パリのヴィルトゥオーゾたち』(2004)、『ショパンについての覚え書き』(2006)、録音にキングインターナショナルより『LIVE』(2015)、『ロマンチック・タイム』(2016)。◆ Webサイト
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