海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

伝説となるか、異才の登場―エリーザベト王妃国際コンクール決勝5日目(9)

2010/05/29

異才の登場に、会場大興奮

ファイナル5日目。昨日ボザールは開演前から、静かな興奮の渦が巻き起こっていました。登場したのは5名の韓国人ファイナリストの一人、キューヨン・キムと、予選から何かと話題をさらっているブルガリアのエフゲニー・ボザノフ。

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セミ・ファイナルより© Bruno Vessié

前半は韓国のキューヨン・キム。実はジュニアの頃、2002年ピティナ・ピアノフェスティバルにも出演したことがある彼女。すっかり大人のムードが漂う年齢になりました。セミファイナルでは明るくユーモアあるハイドンのソナタHob.XVI:48と渾身のシューマン(クライスレリアーナ)を聴かせてくれました。音質が多彩で和声感もあるので、どちらかというと小品ごとに特徴を描きわける方が得意か。一方、昨日のベートーヴェン・ソナタ31番はフレーズの描き方が単調になる時があり、音楽全体の方向性が見えなくなる時がありました。また新曲はリズムが合わない箇所があり、もう少し熟考する時間があれば良かったかもという印象。プロコフィエフ協奏曲2番は、一音一音に彼女の強い思い入れが伝わってきました。一方で、もう少し音楽全体を見据えた客観性があればと感じました。

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セミ・ファイナルより© Bruno Vessié

そしていよいよ登場したエフゲニー・ボザノフ(ブルガリア)。セミファイナルでは、完全に会場を別世界に誘いました。ショパンのノクターン17番、ソナタ3番は、長くゆったりした呼吸の中で静かに音楽が進行していくのですが、その美しさの中に魔性を含み、えもいわれぬ独特の空気感に会場は完全に息を呑み、誰一人咳払いすらしませんでした。予選では、「バッハを聴いた瞬間に泣きました」という聴衆まで。
その感動をもう一度!と、昨日のボザールは興奮に包まれました。まずベートーヴェン18番は比較的軽やかな音色は決してベートーヴェン向きではありませんが、やはり独特の歌いまわしで彼の世界観に。特に2楽章は音色に対する耳の良さが発揮され、また各楽章の性質の違いも軽やかに表現します。ラフマニノフ協奏曲2番は深い音ではないものの、やはりふとした瞬間に見せる美しさのエキスが詰まったフレージングは健在。官能や優美というより、誇り高い美に近いでしょうか。そして何より度肝を抜かれたのは新曲「Target」。やはり耳の良さが際立っており、どの楽器の音がいつ入り、ピアノとどの配分で合わせたらよいのかを全て分かっているかのよう。冒頭の一音は強靭な指のバネでパン!とトライアングルと同じ音質で始まり、中間部も木管や金管の響きに合わせたような音色。独特のエネルギーでオーケストラをリードし、オケの音にも緊張感が漲ります。そしてカデンツァ冒頭の和音は戦慄すら漂わせて一瞬空気をとめ、蓄積したエネルギーが最後また爆発するといった展開で、この曲を締めくくりました。やはり異才です。

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さて、本日はいよいよ最終日。クレア・ファンチ(米)と、トリを飾る注目株デニス・コジュキン(ロシア)。二人ともプロコフィエフ協奏曲2番を演奏します。そして午前0時(日本時間30日午前7時頃)から、いよいよ結果発表です!

右写真は演奏後のボザノフ、国際コンクール評論家グスタフ・アリンク&明美さんご夫妻、そして2003年度優勝者セヴェリン・フォン・エッカードシュタイン。7年前凄みあるプロコフィエフ協奏曲2番で優勝をさらい、トレンドの火付け役に。(今年は6名がプロコフィエフの協奏曲、うち3名が2番を選択)

世界的ピアニストはどう見る?エリソ・ヴィルサラーゼ先生に聞く

世界的ピアニストでもあり、現在モスクワ音楽院およびミュンヘン音楽大学で後進の指導にもあたるエリソ・ヴィルサラーゼ先生。このコンクールは、2007年度に続き二度目の審査になります。ファイナルまでのおおよその印象を語って頂きました。

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―まず2007年度に比べて、今年の水準はいかがでしょうか?

2007年度よりレベルが高いですね。今回初めて聴くピアニストの中にも、面白い才能が沢山います。

―今年はセミファイナルに大きな変更点(リサイタル・プログラムを2つ用意)がありましたが、3年前と比較してどう思いますか?

リサイタル・プログラムを2つ用意するというのは、とてもいいと思いますね。ただ年齢制限が27歳ではなく30歳にしてもいいと思います。以前は32歳まででしたから。

―要求されるレベル、年齢制限ともにハードルが上がっていますが、それでも多くの才能が集まっていますね。

ええ!何人かは大変優れた才能です。

―このコンクールでは多くの曲を準備しなくてはなりませんが、レパートリーの幅広さは審査対象になりますか?

一次予選では63人中、何人か変わった曲を選んでいて審査するのが難しかったです。(セミファイナルでの)レパートリーの幅広さは、場合によりますね。例えば小品を集めただけの選曲では審査が難しい場合もありますが、やはり何と言っても演奏のクオリティでしょう。どう弾いたかが重要です。レパートリーに限らず良い演奏をすることもありますし、大曲を弾いてもあまり何も伝わらないこともありますし。ただプログラムからは、参加者のテイストを知ることができます。何を選ぶのか、どうプログラムを築くのか、そこから多くのものが見えてきますね。

―セミファイナルの新曲課題(『Back to the Sound』)はどう思われますか?

この曲はとても好きですね!2、3人はとても興味深く弾きましたよ。

―ファイナルの新曲課題(『Target』)はいかがでしょう?

とても興味深い曲だと思いますね。自分では弾きませんが、若いピアニストにとってはコンピュータと同じで親しみある言語なのでしょう。大部分のファイナリストはほどほどの演奏でしたが、幾人かは興味深い演奏をしてくれました。

―セミファイナルでのモーツァルト協奏曲は2001年度から採用されていますが、どのように評価されましたか?

モーツァルト協奏曲・・これはなかなか難しいですね。本当によく弾けた人は僅かで、だいたいは良い生徒のレベルで、アーティストのレベルではありませんでした。2007年度の例を挙げますと、私は河村尚子さんの演奏が良かったと思いますよ。

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審査員席© Bruno Vessié
―セミファイナルとファイナルでは印象は変わりましたか?

それほど変わりません。基本的に、どのような演奏をするかほぼ予測しています。小ホールと大ホールの違いはありますけれども、セミファイナルで大体分かっていますので。

―最近の若いピアニストの感性は変わってきていると思いますか?

いえ、良い才能はいつでも良い才能で、時代を経ても変わりません。もちろん社会状況や生活環境の変化によって人間は変わりますが、本来の感覚は変わらないと思います。例えば誰かが良いショパンを弾いたとしたら、それは良いもの。勿論以前の時代とは違うけど、良いものです。
技術的な面と芸術的な面は、両方大事ですね。ただコンクールでは技術的に優れていなくてはなりませんので、20世紀前半のピアニストには今のセミファイナルも通らないでしょう。今のピアニスト達は、速くクリーンに、技術的にも完璧に弾けますから。
ただ、あまり若くして色々弾けるとマスコミや聴衆がセンセーショナルに取り上げ、ショー化してしまいます。若いピアニストはキャリア形成を急いでしまい、深い音楽理解やレパートリーを広げる勉強など、彼らが本当に必要とする成長の機会を失ってしまいます。このプロセスが、芸術的才能を摘んでしまうのではないかと危惧しています。

―若いピアニストを見守るもう一つの眼、コンクールの聴衆をどう思われますか?

このコンクールの聴衆は全てのアーティストを応援して、温かい心を感じますね。参加者は誰もが相当な時間をかけて準備をし、その成果を発表しているわけですから、それを聴衆の皆さんが理解されていると思います。

―様々な国際コンクールを審査されている立場から、このコンクールに多くの才能が集まり、レベルが高い理由は何だと思われますか?

長い伝統があり世界的によく知られていますし、また優勝者・入賞者などが大変活躍しています。それが良いピアニストを呼び寄せる磁力になっているのでしょうね。そして年々水準が下がることなく、上がり続けています。

―ところでこのコンクールに来る前、リスト国際ジュニアアカデミー(蘭・ユトレヒト)を見学したのですが、グルジア始め東欧の子供達の豊かな音楽性に魅力を感じました。以前ルーマニアでも同じような印象を抱いたのですが、グルジアでもやはり生活の中に音楽があるのでしょうか?

特にグルジアの民俗音楽は、世界随一の豊かさだと思います。例えばお店でテーブルにゲストが来ると、お互い知らなくても、皆で歌を歌いだすんですよ。全く違う声質なので、自然とポリフォニックになるのです。ピアニストだけでなく、現在世界的に活躍しているヴァイオリニスト、声楽家もいますね。社会環境はよくありませんが、皆ベストを尽くそうとしていて、私は自分の国に誇りを持っています。首都トビリシにはトビリシ国際ピアノコンクールがあり(3年毎・次回は2012年度)、このエリザベト王妃国際コンクールのように、聴衆が常に満席で温かい。とても良いコンクールです。

―いつか必ず訪れてみたいと思います。ありがとうございました。

審査員席で、時折身を乗り出すように熱心に聴いているヴィルサラーゼ先生。「この人はどういうアーティストなのか?」―先生の芸術的な感性は、常に優れた才能をキャッチしています。現在16歳の男の子や12歳の韓国人の女の子など、才能あるジュニア指導にもあたるヴィルサラーゼ先生。"I teach him"ではなく、"I work with him"といった表現にも、国籍年齢に関係なく、優れた音楽的才能に敬意を払っている姿勢が伝わってきました。大福が好き、という大の日本通でもあります。


菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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