音楽における九星

第一部<第18回>洞察力 I

2018/04/02
◆ 第一部
<第18回>洞察力 I

前回、最後に触れました「洞察力」は、演奏家にとって、作曲家や作品を理解・把握する上で不可欠な能力です。「九星」自体が、それを養い、補足するためのツールともいえるでしょう。どれだけ達者に指が回り、間違えずに弾けたところで、表現対象が掴めていなければ、言語を知らない外国人が、発音記号だけで文学作品を朗読するようなもので、上手くやればやる程、空しい感じになります。

いつだったか、ある若手ピアニストのリサイタル終了後、面会に行くと「大きなミスタッチをしてしまった」と落ち込んでいます。私は「ミスタッチが無かったとしても、印象はそれ程変わりませんよ」と言ったように思いますが、要するにどのみち退屈だった訳です。

余りにもミスタッチを苦にしているので、逆にこの人はミスタッチさえしなければ、作品が表現できていると思っているのか、と内心驚きました。

表現を「感情」と取り違えている人がたくさんいます。これは結局、洞察力の欠如によるものです。

例えば、私の長年にわたる"発掘活動"は、まさに洞察力によって支えられています。知らない曲の発掘が目的なのではなく、歴史の空白地帯を探り、その全体像を明らかにしたいという欲求が私を突き動かしてきました。それは世界地図を作る作業に似ています。

従来のクラシック音楽界の歴史認識は、せいぜいパリとロンドンとウィーンの位置を示しただけの真白な図を「地図」と称し、ヨーロッパを知るにはこれだけで十分であり、これらの町だけが一流で、他は知る必要がない、と言ってきたようなものです。

内外のコンクールも、音大入試も、ごく一部の有名曲を中心として成り立っており、それらが、権威・王道とされていますが、ネット社会の今日、一般の音楽愛好家たちは、はるかに多くの情報に通じていて、「音楽のプロ」との差は開く一方です。

ブランド化した有名曲しか弾かせない業界関係者、新しい演目をどんどん勉強しない教師や演奏家は、商業的にも教育的にも、もはや聴き手に対応できない時代を迎えています。

ところで、私はヨーロッパの古書店や図書館において、大量の楽譜を次々に物色して名曲を発見している訳ではありません。「何か"虎の巻"でもあるのか」と聞く人もいますが、そんな物があるなら、とっくに誰かが調べているでしょう。

結論から言えば、私は作曲家名や作品のタイトル名から、その本質・内容を瞬時に察することができるからです。それは各出版社のカタログなどの、文字情報だけで判断するのですが、どれが必要な物か、手に取るようにわかります。実際に楽譜を拡げて見るのは「最終確認」だけで、その時点でがっかりすることはまずありません。洞察力とはそうしたもので、「直覚力」と言ってもいいでしょう。(2018.3.23)


◆この連載について
作曲家でピアニストの金澤攝氏は数千人におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究対象としています。氏はその膨大な作業に取り組むにあたって、「十二支」や、この連載で主にご紹介する「九星」を道しるべとしてきました。対人関係を読み解く助けとなる九星は、作曲家や、その人格を色濃く反映する音楽と関わるに際して、新たな視点を提供してくれるはずです。「次に何を弾こうか」と迷っている方、あるいは「なぜあの曲は弾きにくいのだろうか」と思っておられる方は、この連載をご参考にされてみてください。豊かな音楽生活へとつながる道筋を、見出せるかもしれません。 (ピティナ読み物・連載 編集長)
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