会員・会友レポート

吉田秀和さんのお別れ会

2012/09/18
吉田秀和さんのお別れ会

林 苑子

7月9日(月)サントリー大ホールで、5月22日、99才で逝去された吉田秀和先生のお別れ会に出席した。発起人は、小澤征爾氏以下水戸芸術館に関わる錚々たるメンバーと代表的なメディア各社。

1分間の黙祷の後、発起人代表、丸谷才一氏の追悼の辞が始まる。

「貴方の趣味は?と問われて、作家が"読書"と答えるのは変かもしれないが、吉田さんの文章を読むことが私の趣味でした。貴方は音楽を言葉にし、門外漢にも理解できるやさしい文章で、音楽の素晴らしさ、演奏への共感を書き、半世紀に渉って日本の聴衆を育てました。

一方で、"子供のための音楽教室"から桐朋学園の設立へ、"二十世紀音楽研究所"による現代音楽への支持活動、そして、水戸芸術館の設立と、音楽家の育成、作曲、演奏現場の展開に、大きな実行力を発揮されました。(要約)」

5年前のNHKのビデオが上映され、生い立ち、新進音楽評論家として注目された「主題と変奏」、外遊、その後の記憶に残る数々の活動や、受賞歴の紹介、そして90代の日常も垣間見られて、あのやや甲高い飾らないソフトな語り口や笑顔に、心が和む。

そして、水戸室内楽団の献奏。J.S.Bach(マーラー編曲)のG線上のアリアに、25名の弦楽器奏者と共に静かに登場したのは、小澤征爾氏。サイトウ・キネンも休んで目下治療中の氏の登場に、当日の拍手禁止令が恨めしい。2階LB席からよく見える彼の指揮を目に焼きつけながら、Bachに浸る。ホール正面のオルガンの左手に掲げられた吉田秀和氏のカラーの映像に向かって、奏者一堂は礼をして静かに引っ込む。その後、若手指揮者により、管楽器を加えてワーグナーのジークフリートの牧歌が演奏され、司会者により閉会が告げられると、2階RB席の皇后陛下が退席され、一同退場となる。

拍手の無い静かなサントリーホール。100回は通ったと思われるこのホールの、思いも寄らない空間から外に出て、ふと周囲を見廻し、私は気がついた。一般参加者の殆どが音楽家ではないことに。往復ハガキを出して、吉田秀和氏にお別れをしに来た人達の殆どが、ひとり。これはどういうことなのだろうか。

75年、「吉田秀和全集」10巻で大佛次郎賞を受賞された時、私は初版をすべて買い求めた。中でも第一巻「主題と変奏」では、シューマンのファンタジーOp.17を、楽譜入りで、それ迄の音楽批評には見られなかった全く新しい切り口で分析されており、以前からこの曲に取り組んでいた私は、それこそ目からうろこが落ち、以降、謝肉祭、クライスレリアーナ等を夢中で勉強することに繋がっていった。自叙伝では、小林秀雄、中原中也他、哲学界・文学界の人々との交流が書かれ、元文学少女の私にはたまらない世界が展開した。また、美術好き、セザンヌ好きの私には、「セザンヌ物語」他の美術論も刺激的で、当時好評だったセザンヌ展には3回も足を運んでしまう。

美しいもの、人々の感性と心に訴え、埋もれていた感動を呼び醒ます芸術とは何か。言葉、絵画、音、それぞれ表現の手段は違っても、テーマがあり、ハーモニーがあり、リズムがあり、色があり、明暗があり、部分と全体のバランスがあり、余韻があり・・・無限の拡がりを目指す。そこに正解はなく、永遠に向かって梯子を一段一段登っていくような、途方もない道。その一部を取り上げて、吉田先生はわかりやすい語り口で、核心を突く文章を展開された。

96年朝日新聞の「音楽展望」では、サリン事件の悲惨に触れてから、ハイドンのピアノ・ソナタHob.XVI/23ヘ長調の第2楽章を取り上げ、アダージョにくり返し現れる6つの音から成るモチーフ「ラミミレドシ」について、マチスの絵と同じく洗練の極みであり、悲しみを慰め生きる心を励ますために、先方から近寄ってくる芸術、と語っている。アナリーゼが音楽で楽曲を分析するものなら、これは広い視野を持つ人の、心の言葉による分析であり、ヒントではないか。

逝去の後、私はFMの既に録音されていた番組で、ラフマニノフを紹介される声を聞いた。亡くなった筈の吉田先生とラフマニノフを一緒に聴く、不思議な体験だった。私のように不勉強なピアノ好きにさえ、長年に渉って数々のヒントをくださった先生を、世の音楽好き、読書好きの知識人達が放っておく訳はない。大戦後の経済復興と共に、飢えた魂があらゆる芸術に貪欲に向かっていった時、吉田秀和先生こそが立派な案内人だったのではないだろうか。

音楽好きは、ひとり心の中に自分だけの感動を温めて、それを代弁してくれる先生に、絶大な信頼を捧げてきた。そして今日、その死を悼み、ここに集った。サントリーホールを満たしていたあの静寂は、ひとりひとりと、にこやかな遺影との対話だった。そして彼等は、これからも吉田秀和先生から提示された宿題を抱えて、良き聴衆として、今度は拍手をしに集って来るにちがいない。 合掌

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ピティナ編集部
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