たたかえカンガルー

第02回 オーストラリアざっくり音楽史(2)

2008/03/22
前回にひきつづき、連載第2回ではオーストラリアの音楽史をざっくりご紹介いたします。いよいよ20世紀の到来です。
◆国として独立!

オーストラリアが国家として誕生したのは1901年。イギリスの植民地ではなくなって、連邦制に基づく独立した国となります。それから約20年の間に、裁判所、銀行、電話、紙幣、そして空港など、国として必要なあらゆるインフラが急速に整えられていきます。

◆音楽インフラ整備

音楽についてはどうかというと、20世紀半ばまでには、メルボルン、アデレード、シドニーをはじめとする主要な都市に次々とコンセルヴァトワールが誕生しました。有名なシドニー音楽院は1914年に設立されます。また、オーストラリアでピアノを習っていれば必ず耳にすることになるのが、「グレード」という制度ですが、この制度を整える団体、Australian Music Educations Board 通称AMEBが誕生したのが1918年です*。一方、国内のオーケストラの誕生には、国営放送ABCが非常に大きな役割を果たしました。19世紀末から20世紀始めまでには、オーケストラはシドニーやメルボルンでちらほら誕生していましたが、あくまでアマチュアとプロの混合団体で、演奏の質は今ひとつでした。そんな中、1936年からABCが壮大なプロジェクトを開始しました。各州に一つずつプロオケを設置し、常勤演奏家を抱え、公開演奏会を主催し、その演奏のラジオ放送を行ったのです。世界にも例を見ないほどの一大オケネットワークの誕生です。これにより聴衆が育ち、著名な指揮者や演奏家がオーストラリアに来るようになりました**。

* AMEBはここオーストラリアのピアノ教育を考える上で欠かすことのできない存在ですので、これについては個別に取り上げようと思います。
** ABCについても、あらためて個別記事で取り上げます。
◆ときの音楽スター

20世紀前半、当時のオーストラリアの音楽家として名高い人物と言えば、パーシー・グレインジャー(1882~1961)やユージン・グーセンス(1893?1962)があげられるでしょう。

グレインジャーは作曲家かつピアニスト、発明されたばかりの蝋管で行ったヨーロッパの民謡収集や、またグリーグとの交流から彼のピアノ協奏曲を広めたことでも有名です。一方、北方人種主義や菜食主義、さらには母親との近すぎる関係が指摘されるなど、何かとユニークな人物像で知られています。昨今では日本でもCDや楽譜で彼の音楽が紹介されるようになりました。人気のあるピアノ作品《カントリー・ガーデン》はまさに田舎風の楽しく温かみのある作品です。彼は生まれこそメルボルンですが、13歳でオーストラリアを離れ渡欧、1918年には米国に帰化しています。なので、厳密には彼は「オーストラリアの作曲家」と呼べないのかもしれません。しかしオーストラリアとしては、グレインジャーは国の音楽史上手放したくない存在。オーストラリアの音楽辞典をひもとけば、彼が何年にオーストラリアに「帰郷」して親戚に会い、演奏活動をしたのか、どんな作品がオーストラリアへの「郷愁」が込められているか(具体的にはじんわりと歌い上げる作品《コロニアル・ソング》など)が声高に(?)指摘されているのが面白い点です。

グーセンスの名は指揮者としてご存知の方もいるでしょう。彼もまたイギリスで生まれ活躍していた音楽家なので、「オーストラリア人」ではありませんが、1946年に来豪後、シドニー音楽院での教育や、真白い貝殻のようなシドニー・オペラハウスの設立に尽力し、シドニー交響楽団主席指揮者としての立場からも、どっぷりとこの国の音楽文化向上に努めたその人です。作曲家としてはピアノ作品も数多く、こちらもCDの全集で聴くことができます。作風はロマン的ですが、《自然詩》のように同時代のラヴェルやドビュッシーからの影響が伺える作品もあります。

◆異様なまでの保守的な流れ

20世紀前半は、国づくりと共に音楽的なインフラも急速に整う一方で、オーストラリアの全体的な音楽的潮流は、極端なまでに保守的な傾向にありました。これはコンセルヴァトワールで教鞭をとっていた先生たちがイギリスからやってきたオルガニスト=コンポーザーであったパターンが多く、伝統的なイギリス音楽の強い影響下にあったからです。その保守的な流れは単なる趣向に留まらず、教授陣の糾弾にまで発展します。メディアが特定の先生を取り上げて、神秘主義的であるとか非正統的な教授法だとスキャンダラスに書き立てることもありました。実際に、なんと上述のグーセンスはその煽りで1956年にオーストラリアにいられなくなってしまいます!原因は、あるオカルト芸術家の女性との交流。ヨーロッパからの旅行帰り、彼はオーストラリアの空港で待ち受けていた警察により勾留されてしまいます。なんでも彼のカバンの中には怪しい写真や道具があったとか・・・。結果、グーセンスはシドニー音楽院やシドニー響の職を失い、イギリスに戻ることになります。しかしオーストラリアよ、それはないだろう?グーセンスはこちらの音楽文化を底上げしてくれた恩人なのに・・・。今日では、このグーセンスの事件について疑問視(でっちあげ?等)の声があがり、また当時の風潮を、「滑稽なまでに保守的な時代」として振り返られるに至っています。

次回は20世紀の後半に光をあてましょう。「なぜか」知られざるオーストラリア人作曲家たちがぞくぞく登場します。


♪CDのご紹介
グレインジャー作品⇒こちら~Amazonへリンク。試聴可能!
グーセンス作品⇒こちら~ABC(オーストラリア国営放送)のウェブサイトへ。

飯田 有抄(いいだありさ)

音楽ライター、翻訳家。1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒、同大学院音楽研究科修士課程修了。マッコーリー大学院翻訳通訳修了。ピティナ「みんなのブルグミュラー」連載中。

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