ショパン時代のピアノ教育

第22回 19世紀前半、パリ音楽院のコンクール ―フルート奏者がピアニストを審査する!?

2008/11/28
ショパンの同時代人 第22回
1822-42の20年間に亘り
音楽院院長を務めたケルビーニ
Luigi Cherubini(1760-1842)

今回は、前回に引き続き、19世紀前半におけるパリ音楽院のコンクールが話題である。すでに述べたように、フランスにおける対位法の大家、ケルビーニが1822年に音楽院院長に就任してから、ヅィメルマン・クラスの受賞者数は飛躍的に増加した。それは、音楽院の規定によって受賞者人数の制限が明示されなくなったからであった。しかし、前回示したデータは、単にすぐれた生徒が増えたことを意味していたのだろうか?この問題に取り組むには、まずケルビーニ在任期間 (1822-42)中のコンクールでは、誰が、どのような評価基準で審査を行っていたのかを考えなければならない。しかし当時の音楽院では、審査員の編成は口頭で伝えられていた。記録は残っておらず(1)、誰がコンクールの審査をしたのかは知り難い。審査員の選出方法や賞の決定方法は、1841年にようやく明文化された。そういうわけで、誰が、どのような基準で審査をしていたかを詳細に検討することは断念しなければならない。
しかし、断片的ではあるが、雑誌『ル・ピアニスト』Le Pianisteに掲載された1834年のコンクールの結果を報じた記事(2)は、1830年代の審査員の編成及び審査基準を知る手掛かりを与えてくれる。前回の「図1」を見ていただければ分かるが、この34年という年は、27年、38年に並んで、最も多くの受賞者が出た年である。
このコンクールを傍聴した同紙の記者は、まず、審査員に関する問題点を挙げたうえで、審査員の顔ぶれを我々に伝えている。以下に引用するのは、「誰がコンクールで審査を行うべきか?」と題されたセクションの一節である。

コンクールの規則は、いくらかの変更が行われたにせよ、全体的に作り直すべきであると思われる。というのも、現在、ピアノの審査団には音楽院外のピアニストが認められているものの、院長が、36年以来変わっていない古い規則の痛いところを断ち切ろうとしない以上は、この規律はそれでもなお不条理であることに変わりはない。
          ピアノ奏者を審査するフルート奏者
          ホルン奏者を審査するピアノ奏者
          ヴァイオリンを審査するオーボエ奏者
我々は、専門性が欠如した国にいると言ってもいいだろう。
このような異論は新しいものではなく、この種の問題に関して公正で判断力のある人々によって我々以前にもなされてきたのである。音楽院側は、彼らに対して、、と答えてきた[・・・]。(3)

この記述から、当時のコンクールの規則では、審査団には音楽院のピアノ教授は含まれていなかったことがわかる。ピアノの審査団には、音楽院以外のピアニストが一人含まれているにすぎないのである。さらに、審査員入場の模様が以下のように描写されている。

[・・・]聴衆は、尊敬の沈黙で審査員を迎えた。姿を見せた最初の三人の人物は誰だったか!ヨーロッパで最も音楽に通じた作曲家、そしてその右にはフランスの作曲家のネストル、左にはアルプスの向こう[イタリア]の第一人者が席を占めた。
          《二日間》[の作曲者、ケルビーニ]
          《モンタノ》[の作曲者、ベルトン]
          《アグネス》[の作曲者、パエール] (4)
その後に6名の審査員が続いた。その中にはフランスの優美な作曲家、パンスロン、そして最後に密書によって招かれたピアノ審査団で、ベルティーニの姿が認められた(5)

 ベルトンは1818年から音楽院作曲科教授、パエールは1831年に学士院会員となり、この34年から音楽教育監察官という地位にあった人物である。以上の記述から、ケルビーニ時代の審査団は、院長のケルビーニを長として、音楽院作曲家教授を含む著名な作曲家及びフルート奏者、その他関係者を含め、計9名によって構成されていたことが分かる。このように、音楽院のピアノ科教授を審査団から外すことによって、ある特定のクラスだけがピアノ教授によって贔屓にされるという事態は避けられていたのだ。
 さて、このような審査員たちは、審査の結果、コンクールに挑んだ全6名中、なんと全員に賞を与えたわけだが、この結果は、音楽院の部外者であるこの記者の目には、どのように映ったのだろうか?この記者は、同記事の中で、コンクール参加者に対する独自の演奏評を掲載している。以下にコンクール参加者全6名の演奏評を引用する。なお、この年のコンクールで演奏された課題曲はヴェーバーの作品であるが、作品名は明示されていない。コンクールでは、生徒に課題曲演奏と初見演奏が課された。6名の参加者の顔ぶれは以下の通り。アルカン(6)Maxime Alkan、ルフェビュル=ウェリーLefébure-Wely、パドルーJule Pasdeloup、ゴリアAlexandre Goria、プティAnatole Petit、ラヴィーナHenri Ravina。このときには男子クラスはヅィメルマンのクラスしかなかったので、皆、彼の生徒である。

1. アルカン三男  [16歳]
彼は見事にオクターヴを演奏するが、指はそれぞれ弱く、カデンツァはまったくできていない。初見演奏:可passable
2. ルフェブル=ウェリー  [16歳]
急速でむらがあり、ぎくしゃくしていて不均等な演奏。同じように演奏された幾つかのフレーズはしかし、この若者に音楽的感性が備わっていることを示している。彼は間違った道を進んでいると言わねばならない。彼の指は弱く、絶えず腕とペダルに力を求めている。初見演奏:秀excellent
3. パドルー [14歳]
この少年は非常に興味深いが、かなり編曲されてしまっているこのコンクール課題曲とは釣り合わない。多大な音楽的才能を示しているこの子供は、彼に適した道とは反対の道に進んでいる。この点には要注意である。というのも、彼はピアニストとしてティンパニを演奏したなら、彼はいつかティンパニ奏者としてピアノを上手に演奏するだろう。初見演奏:普通médiocre
4. ゴリア [11歳]
良い指、良い打鍵、美しいカデンツァ―このすべては、この興味深い子供が、よく準備教育を受けたことを示している。いくつもの旋律は、同様に、表情豊かな美しい様式を示している。総合的に判断して、彼は大きな期待を示している。
我々の期待に反して、初見のできは悪かった。
5. プティ [16歳]
手首と腕は強いが、指は弱い。このような場合に良くある、むらのある演奏。リストのような演奏法だが、おそらく、極めて偉大な才能とは殆どこうした誤りを許さないということをわすれている。極端なペダルPédales monstreuses。初見演奏:極めて悪いでき
6. ラヴィーナ [16歳]
六名の競争者に共通した誇張を通して、この若者には、完全に克服された、つまり生徒以上のメカニスムが認められる。それは、調整される必要のない才能である。カルクブレンナー、ショパン、ベルティーニを聴いて利益を得ること、以上が彼のいましなければならない唯一の課題である。初見演奏:秀

このコンクールの結果は以下の通りとなった。
          一等賞:アルカン三男、パドルー、ラヴィーナ
          二等賞:ルフェビュル=ウェリー、ゴリア、プティ

 この結果と記者の講評を対応させると、一等賞の受賞者の演奏が、一様に秀逸ではなかったことが分かる。一等賞の中で最も高い評価を受けているのはラヴィーナであり、技術的な完成度及び初見能力の高さが一等賞の受賞の根拠となっていることは明らかである。パドルーは、音楽的才能を認められているが、演奏の粗雑さが批判されている。ティンパニ奏者との類比は、乱暴な打鍵に対する批判であろう。一等賞受賞者3名の中で、最も低い評価を受けているのはマキシム・アルカンである。彼は、オクターヴの演奏以外に美点が認められていないにもかかわらず、一等賞を得ている。

若き日のルフェビュル=ウェリー
若き日のルフェビュル=ウェリー
Louis-James-Alfred Lefébure-Wely
(1817-1869)

 二等賞受賞者のうち、最も評価が高いのは11歳のゴリアであり、将来性が高く評価されているが、初見演奏の評価は低い。一方、ルフェビュル=ウェリー(7)は逆に、初見演奏に秀でていたが、演奏にむらがあるという高くない評価を受けている。二等賞受賞者で、ピアノ演奏、初見演奏ともに芳しくない評価を受けているのはプティである。
このように、一等賞、二等賞の中でも、かなり生徒の音楽的能力には差があったことが分かる。記事の著者審査基準の甘さが音楽院の権威を貶めるとして、この結果を次のように判断した。

我々の判断では、一つの一等賞 [ラヴィーナ]と一つの二等賞 [ゴリア] は適切に授与された。それ以上の賞は公正ではない。[...] 幼いゴリアは、確かにになることを約束する才能を持っている。[・・・]審査団はここで、弁解の余地がないような、前例のない浪費癖を見せている。我々は、この浪費癖を非難せざるを得ない。というのも、それは本当に賞に値する競争者たちに支障をもたらし、音楽院の組織の道徳的権威を弱めるからである。

 受賞者の増加に対する批判を掲載した雑誌は、『ル・ピアニスト』ばかりではなかった。ジュルナル・デ・デバ紙は、この年の音楽院コンクールの結果を報じる記事で、ピアノ科の受賞者について次のように報じている。

王の遊興費[音楽院の財源]の老管理者は、これらの若者たち[音楽院の生徒]をわが子のように愛し、彼らの成功をまるで父のように分かち合う善き人物だが、その彼は、全員が賞を取ったのを見て、このニュースを伝えることに大喜びし、コンクールの結果を待っていた競争者の場所に飛んでいき、大慌てでドアを開けて目に涙を浮かべてこう叫んだ。「みんな来たまえ、みんなだ!」実際、彼らは皆、賞を受けた。[・・・]

ゴリア
コンクールで高い評価を受けたゴリア
Alexandre Goria(1823-1860)

数いる[コンクール参加者の]なかでも、実際、ラヴィーナ氏が他の参加者と区別されるべきだった。彼はグランジュ嬢と同じくらい一等賞に相応しく、大変な大ピアニストである。また、まだほぼ子どものもう一人の生徒、小さなゴリアも[他の参加者とは]区別された。このことは、ラヴィーナが一等賞をアルカン三男、パドルー各氏と分け合うことの妨げにはならなかったし、また、小さなゴリアが二等賞をアナトール、ルフェビュル各氏と分け合う妨げにはならなかった。こうして、ヅィメルマン氏が紹介した6名の生徒に関して、6名が賞を受けたのである。いまこそ、さっきの老管理人huissierと共に叫ぶ時である。「みんな来たまえ!みんなだ!」。

ショパンの同時代人 第22回
記者が最も高く評価したラヴィーナ
Jean-Henri Ravina(1818-1906)

「みんな来たまえ!」けれども、あなたはこのように賞を全員に与えると、誰にも賞を与えないことになると思わないのだろうか?「みんな来たまえ!」― とはいうものの、全員の額に冠を乗せると、才能があるのにいつも自信が持てないでいる生徒の意欲をくじいてしまい、同時に常にうぬぼれた平凡な生徒を元気付けてしまうことになるとは思われないのだろうか?「みんな来たまえ!」― とはいうものの、この言葉は芸術の領域においてはフランスのものではない。芸術、それはある人々の領域、すなわち僅かな人しか招かれない、そしてごく僅かな人しか選ばれることのない、上陸しがたい土地なのだ。[・・・](8)

 『デバ』紙の記者も、『ル・ピアニスト』の記者と同様に、ラヴィーナとゴリアが他の参加者と比べて秀でていたにもかかわらず、コンクール参加者全員に賞が与えられるという審査基準の甘さを批判している。実際、ケルビーニ時代のヅィメルマン・クラスは受賞者数が増加しただけではなく、受賞する確率も高くなっていた。以下に示すのは、ケルビーニ時代における、ピアノ男子クラスのコンクール参加者に対する受賞者の割合である。このグラフから、ケルビーニが院長を務めた1822年から42年の間、この割合が50%を切ったのは、わずか三度しかなかったことが分かる(9)

ショパンの同時代人 第22回

 ケルビーニ自身、このような実情に対して巻き起こる批判を肌で感じていた。ケルビーニに対して、コンクールの公正さに疑念を抱く音楽院関係者から匿名の手紙が届いていたのである(10)。これは必ずしもピアノ科が問題にしているわけではないが、1839年に届いた手紙に対して、ケルビーニは「この手紙の意見は考察の対象とならない[・・・]音楽院のコンクールは極めて規則正しく、できる限り公正に行われている故である」とコメントしておりあくまで審査の公平性を強調した。
 このように、音楽院のコンクールは、気前よく賞を出しすぎる傾向にあったようである。ヅィメルマンは、作曲に関してケルビーニの愛弟子であり、この院長がヅィメルマンを贔屓にして彼の生徒たちに多く賞を与えたという可能性もある。
 ケルビーニ時代の音楽院コンクールが、いくらか公正を欠くものであったにせよ、優れたピアニスト=作曲家がヅィメルマン・クラスから輩出されたのは、まさにケルビーニ時代においてであった。今回名前の挙がったラヴィーナ、ゴリア、ルフェビュル=ウェリーをはじめ、長男アルカン、M.マルモンテル、E.プリュダン、L.ラコンブ、A.ビレなどは、この時期に音楽院で教育を受けた才人たちである。彼らはいずれも19世紀フランスのピアノ音楽史の中で独特な地位を占めうるピアニスト(/オルガニスト)=コンポーザーであり、いずれ作品とともに、彼らを紹介していく積りである。


1:Frédéric de La Grandville, "Le Conservatoire de musique de Paris et le piano depuis la création de cet établissement jusqu'au milieu de XIXe siècle, Université de Paris-Sorbonne, 1979, p. 237.
2:"Concours du Conservatoire de musique" in Le Pianiste, ( Meudon: Imprimerie de J. Delacour), 1834, no.11, n.d. pp.161-169. ここではミンコフのリプリント版(Genève : Minkoff, 1872) を参照した。記事の著者は不明。
3:Ibid., p.163.
4:これらはいずれも有名な当時有名なオペラのタイトルである。
5:Op. cit., p.164
6:PTNAのHPの連載で森下唯さんが扱っている最も著名なアルカンCharles Valentin Alkan (1813-1888)ではないことに注意されたい。マキシム・アルカン (1818-1891) はヴァランタン・アルカンの弟である。アルカン家の子供たちには、長女セルスト(1812-1897)、長男ヴァランタン、次男エルンスト (1816-1876)、三男マキシム、四男ナポレオン (1826-1906)、五男ギュスターヴ (1827-1882) がおり、全員がパリ音楽院に在籍していた。
7:彼はオルガン・クラスにも在籍しており、この年にオルガンの二等賞を獲得している。批判されている「指の弱さ」はオルガン練習に由来すると考えられる。彼は当時、既にサン=ロシュ教会Saint-Rochのオルガニストを勤めていた。
8:R.[?], "Concour du Conservatoire" in Journal des débat politiques et litteraires, 11 August 1854, p.2.
9:42年のコンクールの時には、ケルビーニはすでに亡くなっていたので、数には入れていない。
10:F. de La Grandville, op. cit,, pp.238, 239.



上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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