ショパン時代のピアノ教育

第09回 カルクブレンナーのピアノ・メソッド 1―アダンの伝統

2008/02/21

今回は、先立つ一連のカルクブレンナーの紹介を受けて、1831年に彼が出版した《手導器を用いたピアノ・フォルテ学習のためのメソッドMéthode pour apprendre le piano forte à l'aide du guide-mains》(以下、《メソッド》)を紐解き、彼のピアノ奏法の奥義を探る。

L. アダンによって体系化された初期のピアノ奏法は、着実にその弟子に受け継がれた。彼は1798年から1801年にかけて、パリ楽院で、アダンにピアノを師事した。アダンの《音楽院メソッド》が1805年に出版されたことを考えると、そこにはカルクブレンナーに伝授された教えが反映されているといえるだろう。では、カルクブレンナーが受け継いだアダンの教義とは何だったのか。ここで、アダンのメソッドにあった次の一節を思い出そう(「第四回:アダン《音楽院ピアノ・メソッド》3~身体性について」参照)

フォルティシモやフォルテで演奏するには力いっぱい鍵盤をたたけばいいというものではない。[...]この悪い奏法をすこし観察しさえすれば、彼らが調和した純粋な音の代わりに、ハンマーと鍵盤のカタカタという不快な騒音ばかりが聞こえてくることに気付くだろう。
 美しい音を出すようになるには、如才ない方法による以外にないのであって、ピアノのときと同じようにフォルテのときに音を響かせるためには指の力だけを用いるよう慣れなければならない。

カルクブレンナーがその師、アダンから引き継いだのは、まさにこの点であった。つまり、腕の力を利用しない打鍵法である。カルクブレンナーは、手首の力を度外視して指の力だけで演奏すべきだ、とまでは言っていないにせよ、前腕の力を抑制することを目指していた。彼は、前腕を用いず、手首と指の機能性を最大限に生かした奏法を理想としたのである。

アダンが腕の力を利用した打鍵を忌避したのは、必要以上の力の付加よって、当時のピアノの機構から「カタカタ」という雑音が発せられるためであった。しかし、これは機能上の問題であるから、この楽器の欠点が解消されれば、彼の主張の正当性は失われる。

カルクブレンナーが1831年に《メソッド》を出版したとき、この問題はそれほど重視されなくなっていた。彼の《メソッド》には、もはやそのような楽器の欠点が言及されていないのである。アダンが1805年までに見ていたピアノは、30年のうちにかなりの改良が施されたのである。アダンが紹介しているピアノは、音域が5オクターヴしかなかったが、カルクブレンナーは6オクターヴ半のピアノに言及していることからも、いかにピアノの進化が急速であったかが理解される。だとすると、カルクブレンナーは、アダンのように、もっぱら楽器の機能上の理由で腕の使用を避けたのではなかった。

しかし、両者は、身体の大げさな身振りを避けている点で共通している。アダンは、ピアノ演奏の基本姿勢について《メソッド》でこのように語っている。

頭と身体の無意味な動きは避けるべきであり、殊に、しばしば難しい曲を弾くときにやりがちな大げさな身振りは控えるべきである。さもなければ、ピアノの演奏中に保たれるべき優雅な姿勢が崩れ、演奏の容易さを損なう癖がついてしまう。

カルクブレンナーもまた、自身の《メソッド》で演奏する身体の「静動性」を強調している。彼は、大げさなパフォーマンスで聴衆を魅了するのではなく、手首と指の力を生かして身体の動きを最小限にとどめ、エレガントな演奏姿勢を保とうとしたのであった。

では、彼は具体的に、いかなる手段によって理想的な演奏に到達できると考えたのであろうか。カルクブレンナーが主張するピアノ演奏法の主眼は、まさに「指の独立」にあった。これは、10本の指が鍵盤上で、バランス良く、均等に動くことを意味する。それぞれの指が完全に独立することによって、あらゆる音型の演奏が可能になるというのが彼の持論であり、そして彼はそれを実践していたのである。

彼がこのように指の独立を獲得するためのメソッドを書いたきっかけは、アダンの教育にあったようである。カルクブレンナーは、自身の《メソッド》の序文で、指の独立を考えるようになった経緯を次にように説明している。

初心者を阻むもの、それは、演奏するときに必ず見られる、極度の手のこわばりである[...]。往々にして、レッスンが始まって3ヶ月のうちについた悪癖は、一生かけても修正できないものである。
 私は、この障害を避けることがまったくできなかった。私がパリ音楽院で一等賞を獲得した後でさえ、私の師であるアダン氏は、私がカデンツァ を演奏すると、決まって私を叱っていた。なぜなら、私の小さな指は、自身の手が不自由なのではないか、と思われるほどにこわばっていたからである。

こうして音楽院在籍以後数年間、彼の当面の問題は、何とかして手の緊張をときほぐし、指が完全に独立するような練習法を編み出すこととなったのである。そして、彼はついに、手導器の発明を着想するに至るのだが、続きは次回に持ち越すことにしよう。


上田 泰史(うえだやすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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