ピアノの19世紀

05 都市のピアノ音楽風土記  ベルリン  その3

2008/04/10

 ベルリンが音楽の発信地として影響力を持つようになる一つの要素に、オペラの振興がありました。1820年に、イタリア人の作曲家スポンティーニがプロイセン国王の招きを受けて、宮廷楽団楽長および音楽監督となってオペラの分野では充実した活動を見せるようになります。ベルリンが生んだもう大作曲家にマイヤーベーアがおり、彼の壮大なオペラはヴァーグナーに影響を与えたことで知られます。彼はスポンティーニのあとを継ぐ形で1832年、プロイセン宮廷楽長に就任し、42年には音楽監督となりました。しかし、マイヤーベーアの本領を発揮するのはピアノ作品ではなく、グランド・オペラでした。
 19世紀前期のベルリンのピアノ音楽史で最初の重要な作曲家は、ルートヴィヒ・ベルガー(1777-1839)でしょ う。ベルリンに生まれて、ベルリンに没したこのベルガーの名前は、音楽史ではあまり登場しませんが、独創性のある真のピアノ音楽の作曲家と言えるでしょう。何よりも彼はベルリンのピアノ音楽の振興に足跡を残しました。作品にはピアノ協奏曲や7曲のピアノ・ソナタ、「12の練習曲」に代表される練習曲があります。彼は教育者としても優れており、彼の弟子にはメンデルスゾーンの姉弟、タウベルト、そしてヴィルトゥオーソで知られたヘンゼルトらがおり、ベルガーの系譜という点でも注目されます。
 ベルガーに師事したメンデルスゾーンの作品を見ますと、ベルガーからの影響を強く感じさせる作品が多くみられます。上記の「12の練習曲」なども間違いなくメンデルスゾーンに影響を及ぼしていると思われます。
 ベルガーに師事した弟子の一人カール・ゴットフリート・ヴィルヘルム・タウベルト(1811-1891)は、19世紀中頃の代表的な作曲家で、ピアニストです。彼もベルリンが産んだピアノ音楽の作曲家です。1840年代からベルリンで指揮者としても活躍し、1845年には宮廷楽長に就任しています。オペラや交響曲、室内楽作品とともに、数多くのピアノ作品を残しています。今日、タウベルトの名前は音楽史の書物でも目にする機会は少ないですが、19世紀後半のドイツでもっとも名前が知れたピアノ音楽の作曲家の一人でした。シューマンは彼の作品を数多く批評しています。彼のピアノ作品でもっとも重要なのは「ミンネリート」(作品16)で、シューマンは「メンデルスゾーンの《無言歌》よりもずっと深いものがある」と絶賛しています。「ピアノ協奏曲変ホ長調」(作品18)について「もっともすばらしい協奏曲の一つ」と賞賛し、「12の練習曲」(作品40)について「大変に興味深い練習曲」で、「現代の傾向に習熟している」とこれも評価しています。そのほか「6つの性格的即興曲集」も、「小さな叙情的な詩であり、心を打ち・・・すぐれてドイツ的である」と絶賛しています。
ベルガーの弟子でもっとも才能ある作曲家のメンデルスゾーンが1833年、ベルリン・ジングアカデミーでの指揮者の選に漏れたことからベルリンを去り、ピアノ音楽はやや精細を欠くようになります。その後、1843年にメンデルスゾーンがプロイセン芸術院創設を手がけるためにベルリンに戻り、この時期からふたたびベルリンでの音楽活動やピアノ音楽も高まりを見せていくようになります。
 ベルリンが強い影響力をもつようになるのは、一つには音楽教育や音楽批評の分野においてです。アドルフ・ベルンハルト・マルクス(1795-1866)とルートヴィヒ・レルシュタープ(1799-1860)いう二人の音楽評論家が、19世紀のベルリンの音楽活動において大きな役割を担いました。レルシュタープは、ピアノをベルガーに師事した人物で、音楽批評家として鋭い批評を行いました。彼は、シューマンの作品を酷評したことでも知られます。もう一人のマルクスは1824年、「ベルリン総合音楽新聞」を創刊して、ベルリンの音楽批評界に影響力を発揮するようになります。さらに1830年にはベルリン大学の教授に就任し、音楽批評のみならず、音楽理論などの面でもベルリンの音楽界をリードするようになります。彼の名前を今日まで残すことになったのは、ベートーヴェンの伝記研究と、楽式論の研究です。とくに彼が、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを土台にしてまとめたソナタ形式の理論は、今日に至るまでソナタ形式の理論の典型とされています。
 マルクスはベルリン大学教授をつとめるとともに、シュテルン、クッラクとともにベルリン音楽学校を創設します。この音楽学校はシュテルン音楽院と改称し、さらにベルリン市立音楽院へと受け継がれて、ベルリンのもっとも重要な音楽学校へと発展することになります。
 ベルリンはマルクスとシュテルンの創設した音楽院のほかに、クッラクが独立して創設した新音楽アカデミーを創設します。この音楽院に学んだのがベートーヴェンです。彼の弟クサファー・シャルヴェンカは、1881年、シャルヴェンカ音楽院を創設します。フィリップはこのシャルヴェンカ音楽院の教授に就任します。この兄弟は作曲家としても、ピアノのヴィルトゥオーソとしても非常に卓越した才能を発揮した人物で、19世紀後半のドイツの音楽史を語る場合に忘れてはならない音楽家です。
 このようにベルリンは、とくにピアノ教育の機関としてほかの都市にはない特別な役割を担うことになります。次回扱いますライプツィヒも音楽教育で特別な役割を担いますが、ピアノ教育にかけてはベルリンがリードすることになります。それは上記の音楽院が大きな役割を担いました。

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西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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