ピアノの19世紀

03 都市のピアノ音楽風土記  パリ その1

2007/12/14
03 都市のピアノ音楽風土記  パリ その1

19世紀前半のフランスのピアノ音楽という場合、何を思い浮かべるでしょうか。大著『フランス音楽史』を著したデュフルクでは、1760年から1860年までの時代、つまりラモー以降、サン=サーンスまでのフランス音楽史を「つなぎの時代」と呼び、いわば低迷期として扱っています。事実、音楽史の本を見ますと、この100年間のフランスのピアノ音楽は、歴史からまったく消え去ってしまっているといっても過言ではありません。

フランスの音楽文化はパリ一極集中の傾向がありますが、この「つなぎの時代」においでもパリのピアノ音楽事情はどのようになっていたのでしょうか。フランスでは1789年に始まるフランス革命の影響が非常に大きかったのは言うまでもありません。この革命の時期のフランスにおける最大の音楽行事は革命式典の音楽です。途方もなく巨大な編成のブラスバンドと合唱の編成の音楽がフランス全土で鳴り響きました。この時期は、貴族やブルジョワ階級はかつての特権を奪われ、音楽の庇護者であった多くの貴族はフランスを逃れます。革命の混乱期に多くのチェンバロも破壊されたと言われています。そして、その後、ナポレオンの登場によってかつては廃止された宮廷楽団がふたたび結成されて、雅な音楽が営まれるようになるとしても、音楽を取り巻く環境は大きく変化してしまっていました。この時代においてピアノ音楽はどのように営まれていたのでしょうか。

モーツァルトは1778年に二回目のパリ訪問を行います。このパリ滞在時に有名なイ短調のピアノソナタを作曲していますが、この時に彼が用いたピアノは分かっていません。この時期のパリはピアノ製造の面では立ち遅れていました。ウィーン・アクションのピアノもパリに流入していたと思われますし、ロンドンから輸入されたピアノも流布していました。しかし、18世紀末になりますと大きな変化が見られるようになります。革命期にロンドンのブロードウッドで修行をつんでいたジャン・バティスト・エラールが帰国して、イギリス・アクションのピアノの製造販売を始めます。その後、ベートーヴェンやリスト、ドビュッシーに創造意欲を与え、音楽界に長い影響力をもったエラールのピアノの誕生です。エラールは1803年、自身のピアノをウィーンのベートーヴェンに寄贈します。ベートーヴェンがこのピアノを用いて「ヴァルトシュタイン」と「熱情」の傑作を作曲したことはよく知られています。

そして1810年にピアニストのイグナス・プレイエルがピアノ製造を開始します。ショパンの愛好したプレイエル・ピアノの誕生です。イグナスはオーストリアの作曲家で、ドイツ語の発音はイグナツ・プライエルで、協奏交響曲や交響曲、室内楽などの広いジャンルで高い評価を得ました。彼はパリに移り住み、ピアノ製造業で名を成します。その息子カミュはショパンと親しい関係にありました。フランスはエラールとプレイエルの二つの大メーカーを中心にヨーロッパに君臨するピアノ製造が行われるのです。少なくとも1870年頃まではパリのピアノ製造台数は、ロンドンに継ぐ規模を誇っていました。1850年ではイギリスでのピアノ製造台数は2万3000台、フランスは1万台、アメリカが1万台でした。ドイツ・オーストリアは1万台に達していませんでした。1870年は、ロンドン2万5000台、フランス2万1000台、ドイツ・オーストリアが1万5000台強でした。

少なくとも19世紀前半ではピアノが国際貿易品の対象とは確立されておらず、ピアノは自国での販売が主でしたので、エラールやプレイエルらの製造したピアノはパリを中心にフランスの音楽愛好家や演奏家によって用いられたと考えられます。つまり、パリは、ヨーロッパでロンドンと並んでもっともピアノ音楽が盛んな都市だったのです。パリがピアノ音楽文化の中心地であることをよく示すのが、この都市への音楽家の集中度です。ドイツのタールベルクやリスト、ドライショックらのヴィルトィオーソはこの都市で名声を築きました。パリにおけるこれらのヴィルトゥオーソの華やかな演奏活動については、音楽批評家としてパリで活躍していた詩人のハイネが紹介しています。そして、ポーランドから渡ってきたショパンを受け入れ、育んだのもパリでした。

パリの上層階級の女性はこぞってサロンを開き、文化人や音楽家を招き、芸術談義に花を咲かせました。そして自宅でピアノを演奏するアマチュア階層も広く形成されていたことは当時の音楽雑誌の充実した紙面から明らかです。この時代についてデュフルクは「つなぎの時代」と呼びましたが、ピアノ音楽を含めて音楽活動そのものはとても活発であったと見られます。

ところで、19世紀のパリではどのような作品が演奏されていたのでしょうか。19世紀前期においてはベルリオーズやゴセックを別とすると、器楽作曲家としてどのような名前が思い浮かぶでしょうか。ましてピアノ音楽の作曲家はどのような人がいたのでしょうか。フランス革命勃発時から7月革命が起こった1830年までの間に、フランスで刊行された音楽雑誌は実に43誌に及びました。この雑誌の点数はウィーンやロンドンなどの諸都市を抜いてヨーロッパでもっとも多く、それだけ多様な音楽が求められていたことを示唆しています。それはピアノ音楽雑誌についても同様です。しかもフランスの場合は、ピアノ雑誌の刊行地はパリに一極集中していました。次にどのような音楽雑誌が刊行され、どのような作品が親しまれていたのかを見てみましょう。

その2》へ続く

西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

【GoogleAdsense】
ホーム > ピアノの19世紀 > > 03 都市のピアノ音...