ピアノの19世紀

序論 19世紀という暗黒大陸 (2)19世紀社会とピアノ

2007/09/27
序論 19世紀という暗黒大陸 | 1 | 2 |

(2)19世紀社会とピアノ

1 いつ、チェンバロからピアノへと移り変わったのか?

ピアノという楽器はたとえばヴァイオリンやチェロ、トランペットやフルートとどう違うのでしょうか。19世紀はピアノの時代であるといわれます。18世紀までは公の場の音楽は宮廷楽団やギルド組織の「都市の音楽家(シュタットプファイファー)」や教会の音楽家などの専門職が担当していました。そこではチェンバロや、もちろんオルガンも音楽愛好家のたしなむ楽器ではありえませんでした。

チェンバロと初期のピアノは、音を発する機構こそ異なりますが、全体的な形状はあまり変わりません。しかし、二つの楽器のもつ社会的な意味はまったく異なりました。どうしてチェンバロとピアノが音楽文化において担った意味と役割は異なったのでしょうか。

そもそもチェンバロがピアノに取って代わられたのはいつ頃なのでしょうか。ドイツでジルバーマンがフォルテピアノ(以下、ピアノと表記します)の試作を行って、彼がザクセン選帝侯に献上したのは1732年です。その後、ジルバーマンはバッハに楽器に関する批評を求め、バッハはこの楽器に関して高音部の音質やタッチなどについて指摘を行っています。その後1747年、バッハは招かれた訪れたベルリンの宮廷でジルバーマン制作の改良されたフォルテピアノを再び演奏して、楽器に対する満足を表明したといわれています。

18世紀中ごろから18世紀末にかけて音楽家は、主にどちらの楽器を用いていたのでしょうか。私たちは漠然と、バロック時代はチェンバロ、古典派はピアノと思っておりますが、そもそも、18世紀後半においてピアノはどの程度、普及していたのでしょうか。実際、1760?70年代は、ピアノの製造台数はとても限られていましたし、技術的な面でも数多くの未解決の問題を抱えていました。その意味ではチェンバロはまだまだ安定した地位を保持していたように思われます。もちろんだからといって、ピアノがないがしろにされていたということではありません。ベルリンのフリードリヒ大王はいち早くピアノの未来を直感していたようで、宮廷に数多くのピアノを導入させています。ですからバッハはベルリンの宮廷でピアノを演奏することになったのです。また、ドメニコ・スカルラッティが仕えたマリア・バルバラは、チェンバロとピアノの二つの楽器を所有しており、そのためにスカルラッティの作曲したソナタには少なからずピアノ的な表現が現れております。

ウィーンやベルリンなどの大きな都市はともかく、中小都市ではピアノの製作者は数少なく、ピアノの普及はかなり遅れたと見られます。ベートーヴェンのいたボンもその例の一つで、彼が本格的にピアノに触れたのは1792年にウィーンに出てからです。面白いのはハイドンです。彼が自宅にピアノを購入したのはなんと1788年になってからです。彼は新しく登場したピアノにはすぐには飛びつきませんでした。ソナタの作品の出版において「チェンバロもしくはピアノ」と書き入れるのは1780年に出版された第35番のソナタの頃からで、これはピアノが世間に普及しだしたことと関係があるでしょう。ハイドンの自宅には非常に立派なチェンバロがありましたが、この楽器で彼はピアノソナタを作曲していたのです。

ハイドンの初期から中期にかけてのソナタはチェンバロで作曲されていたということは、作品様式や作品の演奏にも影響するに違いありません。しかし、ハイドンがチェンバロを長らく用いていたということは、彼のソナタはチェンバロ的に演奏するのがふさわしいということになるのでしょうか。また、バッハはピアノに触れていたということから、ピアノ的な表現方法で「前奏曲とフーガ」などを演奏してもよいということになるのでしょうか。この答えは決して一つではないように思います。つまり両方ありえるからです。バッハの作品をピアノで演奏する場合に、クレッシェンドやアクセントの有無が問題になることがあります。彼が日常使っていたチェンバロの制約から言えば、クレッシェンドなどをつけるのは適切ではないということになるのでしょうが、クレッシェンドの概念はありましたし、彼はベルリンで、強弱の変化を自在に出せるピアノを演奏して満足を表明したことはどのように理解すべきなのでしょうか。


西原 稔(にしはらみのる)

山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「聖なるイメージの音楽」(以上、音楽之友社)、「ピアノの誕生」(講談社)、「楽聖ベートーヴェンの誕生」(平凡社)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」(講談社)、「音楽史ほんとうの話」、「ブラームス」(音楽の友社)などの著書のほかに、共著・共編で「ベートーヴェン事典」(東京書籍)、翻訳で「魔笛とウィーン」(平凡社)、監訳・共訳で「ルル」、「金色のソナタ」(以上、音楽の友社)「オペラ事典」、「ベートーヴェン事典」(以上、平凡社)などがある。

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