19世紀ピアニスト列伝

アンリ・ベルティーニ 第3回:練習曲の光と影

2013/01/22
練習曲の光と影

 今日ご紹介するのはマルモンテル『著名なピアニストたち』の第二章、「アンリ・ベルティーニ」から、彼の作品を紹介する部分です。ベルティーニの作品はその質の高さ、堅固な構成力、静けさを湛えた旋律の魅力にもかかわらず、滅多に録音も演奏もされないので殆ど知られていません。しかし、マルモンテルの文章を読むとぜひ聴いてみたいという気持ちにさせられます。PTNAを通してこの翻訳企画に関連した録音・演奏会なども実現していきたいと考えています。
 ところで、練習曲で有名になりすぎた作曲家は、他のジャンルの作品が忘れられがちです。大変価値のあるソナタや交響曲、弦楽四重奏などを残したチェルニーのことを思い出せば、これは一種の法則だといえるかもしれません。以下の文章にもあるように、ベルティーニもまた交響曲、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・トリオ、カルテットをはじめ多くのジャンルで豊かな作品を残しました。チェルニー同様、練習曲でも大変見事な作品を書いてはおりますが、それでもやはりベルティーニは「練習曲に埋もれた作曲家」の一人なのです。

ベルティーニの絶大な人気は、とりわけ練習曲とカプリースという特別なジャンルに結びついている。まさにこのジャンルにおいて彼は特別な地位を獲得し、若い作曲家たちが大急ぎで彼の後に従うこととなる偉大な道を拓いたのだ。彼があらゆる難易度を含む数多の練習曲集の中で集中的に取り組んだのは、平易な曲、難しい曲、短い曲、ないし展開された曲の各々に、非常に明確な模範的旋律を与えることだった。克服すべき難技巧は、歌唱的な形式の下に提示されている。練習曲が、敏捷さという非常に個別的なジャンルを扱っている時でさえ、絶えざる走句は常に音楽的な輪郭をとっている。その上、きわめて明快なリズムと念の入った和声をも備えたあれらの小品があまねく成功を収めた主要かつ特筆すべき要因は、まさにここにあるのだ。
ベルティーニは20以上の練習曲集、前奏曲、特別な訓練課題集を書いたが、そこには基礎から超絶的なものまで、あらゆる難易度が含まれている。性格的練習曲[作品66]、奇想練習曲集[作品94]、芸術的練習曲[作品125]は最もすぐれた美点をもつ作品だ。平易な練習曲および中程度の練習曲はピアノ教育に専念する人なら知らぬ者はない。これらの練習曲は、生徒たちの興味を引き付けながらも、彼らに教えを授けてくれるものだ。筆者は4手用の練習曲を高く評価している。出版社ルモワーヌ1が出した二つの曲集はうっとりするような魅力を備えている。

ベルティーニはショーネンベルジェ2用に、あらゆる難易度の練習曲集を再び世に送り出した。ベルティーニを巡る[出版者間の]競争は、二重の意味でデリケートな企てだったが3ベルティーニの成功はただ募りゆくばかりだった。
この著名な作曲家は、さらに非常に多くの4手用連弾曲を残した。それらはいずれも巧みな配置法、協奏的な扱い方の点でいずれも真の価値を有するものだ。数多くのサロン小品、ロンド、ノクターン、変奏曲、ディヴェルティスマン、カプリース、ファンタジー等の中でもとりわけ卓越した作品として、以下の作品が挙げられる。音楽院のために特別に書かれた二つのコンクール用ソロ[作品109, 121]、大ポロネーズ(作品93)、演奏会用変奏曲(作品69[68 ?])、演奏会用ロンド(作品105)、劇的ファンタジー(作品118)、華麗な行進曲(作品161)等々。ベルティーニによるサロンや演奏会用の作品の成功を考えれば残念なことだが、彼の練習曲人気のおかげで、凝り固まった大衆の頭のなかには輝かしくも危うい特殊なベルティーニ像が出来上がった。このジャンルの作品を崇拝する人々は、もっと大きな価値を持つ諸作品を評価することに対して、耳目を閉ざしてしまったのだ。
三重奏曲[作品20, 48, 70]、四重奏曲[作品25, 31, 39, 76,]4、六重奏曲[作品85、114、124]、九重奏曲といったベルティーニの協奏的作品を見れば、彼が単に彼が正しい書法に関して確か熟練した腕をもつ作曲家であるばかりか、まさしく文字通りの意味で格調高い様式を備えた大家であり旋律作家であることがわかる。その理由は、もう一度述ベておかねばならないのだが、創造力と学識ある音楽家ベルティーニは、不可能を追い求めることに夢中にならなかったからである。彼は、著しく見事に着想を選んだ作品、見事に展開が導かれ、完璧に均衡と健全で厳格な和声を備えた作品を書くことで満足したのだ。臆することなく断言するが、彼の室内楽作品は、大家たちの室内楽に劣らない雄々しきものだ。


図1アンリ・ベルティーニの肖像
(BnF, Gallicaより転載)
【脚注】
  1. ルモワーヌ:1796年創立の出版社。19世紀前半はアンリ・ルモワーヌ(1786~1854)、アシル・ルモワーヌ(1713~1895)の下で発展。昨今の著しい吸収・合併の傾向のなかを生き抜き現在も存続するフランスの大手出版社。
  2. ショーネンベルジェ:1830年ころジョルジュ・ショーネンベルジェ(1807~1858)が設立。ベルリオーズの有名な『管弦楽法』、ドニゼッティ、ヴェルディのオペラ、数々のピアノ曲など幅広く出版。1875年、アシル・ルモワーヌが35万4千フランで買収。
  3. 一方では出版社同士の関係、た方では作曲者・出版社間の関係において緊張が生じるということ。
  4. ピアノ四重奏は「セレナード」というタイトルの下で出版された。
図2《25の芸術的大練習曲》作品125(ルモワーヌ、1838)の表紙
図2《25の芸術的大練習曲》作品125
(ルモワーヌ、1838)の表紙
図3 第19番「アンダンテ」より。
図3 第19番「アンダンテ」より。ショパンやリストら若い1810年世代は1830年代に数々の練習曲を書いたが、その傍らでベルティーニは華々しさよりも内向的で伸びやかな旋律を追究した。上の譜例は歌唱的な主題につづくシンフォニックな展開部分。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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