驚異の小曲集 エスキス

第40回「待ってても行かないよ」

2010/03/04

最近は機械による翻訳技術も発展してきて、とあるブラウザなど他言語のサイトを訪れると親切にも「これは◯◯語のページです。翻訳しますか?」なんていう提案を出してくれる。たとえばアルファベットの読み方からして見当がつかないような謎のページも「これはブルガリア語のページです」とあれば、ふむふむブルガリア語か、とわかったりします。

それだけでも十分にありがたいことなのですが、肝心の翻訳に関しても、特に印欧諸語間の相互翻訳は、既にある程度は実用的なレベルに達しているという印象。私はブルガリア語のページなんてもちろん単語のひとつも読めませんが、英語に翻訳させてみればおおまかな内容くらいは把握できてしまう。感動的です。

残念ながら他言語から日本語への訳はまだまだ意味不明なたわごとレベルで、実際に使う気にはとてもなれません。それでも、筆者のような勉強ギライは「もう少ししたら外国語は勉強しなくて済むようになるんじゃないか」などという期待を抱いてしまうのです。そうすれば語学の苦手なクラシックの演奏者だって、原語の論文がスラスラ読めるようになって色々と研究しやすいだろうに......。

とまあ夢も広がる日進月歩の世の中なわけですが、言語ごとにある特有の慣用表現や地口などは、いくら機械翻訳が進歩してもなかなか対応しづらい部分でしょう。単語の連なりの裏に、本来とは違う意味合いが隠されているわけで、それを拾い出すのがまず難しい。そこをクリアしても、翻訳のときにどう置き換えるかがこれまた難しい。単語ごとの意味を律儀に訳すのでは内容が伝わらないし、内容だけを伝えるのではわざわざ慣用表現を使った機微が失われてしまう。もっとも、これは人間が翻訳する場合でも同じく難しい部分ではありましょうが。

今回の曲の題名『待ってても行かないよ』というのはまさにそういうもので、元のフランス語を逐語訳すると『楡の木の下で待ってて』というような意味になる。これが皮肉な慣用句となったのにはいろいろと複雑な理由や由来があったようです。

ちょっと調べてみたところ、もともとは中世の裁判に関する表現から来た言い回しらしい。当時、田舎には裁判所というものがなく、領主の館のような場所で裁判が行われるのが普通だったのですが、そういった邸宅の周りにはたいてい楡の木が植わっていた。そんなところから、17世紀頃には「楡の木の下で待つ」という表現は「裁判に勝つ自信がある」というような意味合いで使われていました。

が、やがて、そこに「楡の木の下の裁判官=田舎の小物裁判官」とか、「楡の木の下で待っている=依頼人もおらず暇な弁護士」みたいなイメージが被さってきたためか、「楡の木の下で待つ」の持つ意味はやがて変化し、かいもなく長時間待ち続ける行為を表すようになってしまった。

そして1694年には、ジャン=フランソワ・ルニャールという有名な喜劇作家が『楡の木の下で待ってて』というそのものズバリなタイトルの作品を書いている。この劇のおかげもあって「楡の木の下で待ってて(=待ってても行かないよ)」のセリフは広く世間で用いられるようになった、ということのようです。

このフランス語表現に含まれた裏腹な皮肉を知るだけでも、アルカンの曲のユーモラスな響きが聴き取りやすくなるのではないかな、と思うのですが、ここでもう一点、喜劇を通して広まった、という事実にも注目しておくべきかもしれません。

アルカンはどうやら喜劇というものがかなり好きだった様子。彼がギリシャ時代に強い興味を抱いていたことは度々述べてきましたが、そのギリシャ時代の演劇にしても、彼は悲劇より喜劇を一段上に見ていた節がある。あるいは、年齢とともに喜劇を上に見るようになった、と考えるのがより正解に近いかもしれない。

アルカンの『大ソナタ 作品33』(1847)の譜面には、アイスキュロス作の悲劇『縛られたプロメテウス』からの引用が置かれており、若き日の彼がギリシャ悲劇に親しんでいたことがうかがえます。しかし、だいぶ後に出版された『エスキス 作品63』(1861)の第5曲では、アリストパネスの『蛙』が引用されている。これは、アイスキュロスを含め、3大悲劇詩人と言われた作家たちを面白おかしく批判した内容の喜劇なのです。

『エスキス』をこれまで見てきた皆さんには、アルカンが常にユーモアを大事にしていたことがおわかりでしょうし、そんな彼が喜劇を重視しただろうことも当然に思えるかもしれません。けれど、「楡の木の下で待ってて」という言い回しが喜劇のタイトルでもあった、というのは、彼の趣味を知るための手がかりのひとつになるのではないでしょうか。

演奏の際は、4小節のフレーズの前半と後半で音楽の動き方が変わるような意識を持つと良いでしょう。後半2小節の方で多めに動いて見せることで、はぐらかすような雰囲気を作りやすくなると思います。最後に出てくる両手の16分音符は指先をよく意識してコントロールしましょう。

それではまた今度。次の曲は「異名同音」です。

第40回「待ってても行かないよ」
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森下 唯(もりしたゆい)

ピアノを竹尾聆子、辛島輝治、東誠三の各氏に、リート伴奏をコンラート・リヒター氏に師事。

ホームページ:http://www.morishitayui.jp/

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