【インタビュー】第30回 秋山徹也先生「アナリーゼして教えよう - 音楽の形を理解させ、自力で表現させよう - 」

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2007/12/21

teacher_akiyama_tetsuya.jpg昨年大好評だった「ピティナ・ピアノコンペティション課題曲 アナリーゼ楽譜集」を手がけ、また自身の"文京アナリーゼステーション"では、曲の分析が演奏に反映させられたかどうかを体験・確認できるステップ「アナリーゼ・ステップ」の開催をされている秋山徹也先生。様々な生徒を対象に、ソルフェージュ・ピアノ・音楽史など音楽全般の指導に携わってこられた先生より、音楽のかたちを理解させ、自力で表現させるための指導法についてお話をいただきました。

●講座タイトルが「アナリーゼして教えよう - 音楽の形を理解させ、自力で表現させよう - 」となっておりますが、実際の講座の内容はどのようなものになりますか?
―もともと私がいつも実践していることはまず、音楽の形や構造を理解させ、それに応じた表現とはなにか?という常識的な解釈を理解してもらうことです。そして常識的な表現をどのように組み合わせて、実際の演奏にどう生かしていくか、ということを理解してもらいます。特に"実際の演奏にどう生かしていくか"という部分が重要ですね。理論的・常識的解釈というのは、音楽的・個性的な表現とは相容れないことのように思われますが、そうではありません。常識的な解釈の仕方を理解した上で、それらを応用することが、結果的に音楽的で個性的な演奏になるわけです。だから、まず常識をたくさん知ってもらうことが大切なのです。和音の進行や音楽の形式を知ると同時に、常識的な表現つまり"こういう形式になっているからこういう風に弾く""こういう和音が来たら、こういう色で弾く"といったことをたくさん知っていれば、楽譜を読むことによって「あれ?これは普通と違うように指示がかいてある。何か特別なんだ。」「普通はここはこうするかもしれないけど、自分はやっぱりこう弾きたいなぁ」といったことも見えてきます。常識的なことをわかってしまえば、逆にどこをどのように崩せるかが見えてくる。それこそが音楽的で個性的な演奏に繋がるわけです。講座では、これらの方法について触れるつもりです。

●コンペティションの課題曲も取り上げられるそうですが、実際に導入期の小さなお子さんの"アナリーゼ"ってどういったものになるのでしょうか。
―どんな曲であってもかならず何らかの形がありますよね。例えば、単純にメロディーがあって伴奏がついている曲、メロディーがずれて出てくる対位法的な曲、とても簡単でもA―B―Aの形式になっている曲などのように。だから形に応じた演奏の仕方は、どんなに導入期の小さい子達向けの曲にだってあるはずです。この時「ここのメロディーとここのメロディーは似てる?似てない?」とか考えてもらえば、それはもう立派なアナリーゼです。そして「似てるから同じように弾いてみよう」「違っているから違うように弾いてみよう」ということになれば良いと思っています。このように最初は、「同じものは同じように弾こう」「メロディーは出してみよう」「音が上行していくときはクレッシェンドになっていることが多いかな?」くらいのことから始めてみれば良いのです。どんなに小さい子だってアナリーゼはできます。小さいときから、「どうしてこうなのか?」ということを意識して考える癖をつけていくことが、一番重要だと思います。意識的にそう考えていくのと、そうでないのとでは、年齢が進むにつれて明らかに解釈力・表現力に違いがでてきますから。

●どのように違いがでてきますか?
―本人が何も考えないで、何も分からないでただ先生に言われたように"フォルテで弾いて""ピアノで弾いて"いても、それはその子の音楽ではなくて"教えている先生の"音楽でしかないんですね。これだと、習っていた先生を離れた時に、何をしたらいいのか分からなくなっちゃう。少なくとも誰かに聞かないと表現できない、そんな人になってしまう。たとえ頑張って、楽譜に書いてある表面的な楽語を拾ってその通りに弾いたとしても、全体を通した統一感がなかったり、どこに重きを置いて、どこを大切にして伝えたいのかなどが全然分からない演奏になってしまうんですね。だから「なんでフォルテって書いてあるのか?」「なんでピアノって書いてあるのか?」といったことをやっぱり考えなきゃいけない。書かれているフレージングや楽語類は大抵、和音進行や転調のあり方とか、曲の構成などから書かれているのが普通なので、それが分かっていれば、フォルテとかピアノとか書かれていなくてもそう弾けるはずなのです。バッハなんかほとんど何も書いてないですよね?。この種の曲に出会った時に、「なぜ - 」を考えてこなかった人は、どうしたらよいのかわからなくなっちゃうのです。また個性の表現方法も違ってきます。例えば、どういう音楽の表現方針でのぞみどういう風に音楽を表現しようとしたのかが一貫していて、全体から見渡したときに、わざと数ヵ所だけ同じようにはずして分かるように表現した場合、それは個性的表現になるかもしれません。だけど、なんか全体がまとまっていなくて、そこここ好き勝手に表現していたら、それは単なるデタラメですよね。

●指導者にとってはどのような違いが表れますか?
―指導者からすると、常識的な表現をたくさん知っていることによって、音楽指導の可能性が大きくなるという面もあります。例えば生徒さんが、自分とは全く異なる解釈で弾いてきた場合、それをきちんと評価することができますか?。自分が習ってきたこと・自分が演奏してきた表現しか正しいと思えない、という状況だと困ります。常識的な表現をたくさん知っていたら、「こういう表現だってできる」「それともこういうのもアリ」「これとこれを組み合わせるのも可能だろう」「だけどこれとこれを組み合わせるのはちょっとつまらない...」なんていくらでもアイディアが出てきますよね。その組み合わせや表現の選び方は本人の自由で、無限の数があるわけです。それを受け入れられるピアノ教師でありたいですよね。ところが常識を知らなかったら、自分の知っている一つの解釈しか受け入れられなくて、可能性がどんどん狭くなっていく。実際現場に出てみたら、自分の持っている音楽表現とは違う表現をしてくる人はたくさんいますね。生徒さんにしてもそう。だから「常識的にはこうするよ」っていう持ち駒がたくさんないと、良い演奏かどうかは判断はできないし、音楽の可能性がどんどん狭くなっていってしまうんです。恐ろしいことですよ。

●アナリーゼに対する意識が変わりますね。
―分析っていうのは、「どこがどうなっているからどう弾いてみよう」という具合に、構造の理解と、それをどのように実際の音にして演奏に結びつけるか、という両方が重要です。和音記号を書いたりすることだけが分析ではないのです。けれども分析と言うとどうしてもそう思われがちで、これまで、頭でっかちのカチコチの理屈っぽいことだとどこかで思われていたように感じます。最近は、分析の重要性は理解してもらえますが、もしかしたら「本当に役だっているんだろうか」って思われているのかもしれない。その証拠に"コンクールのピアノの練習をする"とかになると、理論を考えるより、指の練習をしたりレガートの練習のほうをやっぱり一生懸命やってしまいますしね(笑)。これは理論側の責任でもあるんです。分析して図面に描いたものを、それが演奏にどういう風に反映されるか十分説明しきれていないのが事実だし、具体的に音で十分示していない。だから、演奏する側からすると「所詮理論でしかない」という風になってしまい、理論側と演奏側で壁を感じてしまうんですね。それを結びつけていくことがこれからとても重要なんじゃないかな、と思っています。どこがどのように結びつくのかを示していくこと。実際音にして説明していくこと。それが我々の役目じゃないかな、と思っていますし、そのような壁を取り払って橋渡しの役に立ちたいと私自身は思っていますよ。

●貴重なお話をありがとうございました。
2008年5月26日神戸にて講座開催!詳しくはこちらから


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