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    <title>ピアノの19世紀</title>
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    <title>あとがき</title>
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    <published>2009-11-06T07:34:55Z</published>
    <updated>2009-11-06T07:39:49Z</updated>

    <summary>連載最終回　ピアノの歴史は単に楽器の歴史というにとどまらず。。</summary>
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        <name>admin</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>　「ピアノ音楽風土記」と題して、長い連載を続けてまいりました。ピアノが登場していたら、ピアノとピアノ音楽がどのように形成されていったのかということを、歴史的な事柄だけではなく、地理的な側面も含めて概観してきました。そこから浮かび上がってくることは、ピアノ音楽史は、ピアノという楽器の音楽史ではないという点です。ピアノ音楽史は、ヴァイオリンなどの弦楽器音楽史や、トランペットなどの管楽器音楽史とは異なる意味を持っています。それはこの楽器がなぜ17世紀末に登場したのか、そしてどのように発展していったのかという歴史的な要因が大きく関わっています。<br />
　ピアノ音楽史は近代の音楽史そのものといっても過言ではありません。この楽器とともに近代が形成されていきました。その形成過程において、市民社会の興隆や、近代産業社会の成立、国家主義などの政治的な動向、女性の役割、そして社会な美的な嗜好の変遷などが複雑に関与していきました。これらのさまざまな要因が、ピアノ作品の創作や作曲家の活動のあり方を規定していきました。市民社会の興隆によって、富める市民を対象としてピアノ産業が興り、またピアノ音楽の作曲が促進されました。<br />
　初心者から中級、上級向けの「練習曲」の作曲が行われるのは19世紀であった点は重要です。<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/clementi/006258.html">クレメンティ作曲の「グラドゥス・アド・パルナッスム」</a>がピアノ音楽史上において果たした意味の大きさは注目すべきです。この練習曲は、ピアノ教育が広く社会に広まったことを示しており、ピアノと社会の関係を非常に明確で象徴的に規定したからです。<br />
　「勤勉な練習」、これは勤労者の美徳であり、近代資本主義を促進していった動因でもありました。社会学者のマックス・ウェーバーの名著に「禁欲的プロテスタンティズムと資本主義の興隆」がありますが、この「禁欲的」な精神と、労働、すなわち「練習」こそが、ピアノという楽器を支えた精神的な基盤といえます。<br />
　そして次に考えなければならないのは近代的な「家族」の成立です。「家族」という思想は登場し、確立したのは18世紀末から19世紀前期にかけての時代です。「家族」は、一家すべてが等しく労働者となって家計を支えるという環境とは異なり、一家の家計を司るのは、家長である父親で、父親を頂点とする家族のヒエラルヒーが形成されていきます。そのなかで、息子や娘のあり方の理想が追求されていきました。そのなかで、女子教育とピアノが強い結びつきをもつようになります。ジェンダー社会の中で、ピアノ教育は、上流階級においては推奨されるべき女子教育の一科となったのです。<br />
　ピアノは、新しい楽器です。そればかりではなく、ピアノは万国博覧会や産業博覧会での主要な出品品目となりました。それはなぜでしょうか。それは、ピアノは当時の最先端科学の粋を尽くした産業品であったからです。当時、ステンレスのワイヤーや、鋳鉄のフレーム、高圧フェルトの成型、木製のアクションの機構、象牙の加工技術など、そのどれをとっても最先端の技術でした。今日のコンピュータや自動車を考えれば推測はつくと思います。この新型ピアノは、当時の科学技術の結晶でした。このピアノの性能を確かめるべく、万博では世界中からバイヤーが終結しました。そして、ピアノは世界中でよく売れました。ドイツは産業技術の発展の面では後進国でしたが、19世紀後半にベヒシュタインやブリュートナーなどのメーカーの創立によってドイツのピアノ製造業は大きく躍進します。そして、ドイツではピアノは南米やオセアニア地域に向けて最大の輸出品のひとつとなりました。<br />
　近代輸出産業となったピアノは、音楽文化にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。ピアノこそが、西洋グローバリゼーションのもっとも象徴的な姿といえるのではないでしょうか。ピアノは、同時に社会の近代化と文明化、富める社会、新しい家庭環境や生活など、未来の幸福を一身に担ってきたといっても過言ではありません。西洋に続いて、アメリカ、そして日本、韓国や中国へと、ピアノ文化は拡散していきましたが、それは近代産業文化の伝播と発展と同じ軌跡をたどっています。<br />
経済の不況の影響だけではなく、これまでのクラシックの価値観の変質及び解体が進み、それぞれの国の自国の本来の文化に目が向けられるようになると、西洋グローバリゼーションも変質を余儀なくされてきています。そのなかでピアノ文化はこれからどのように新しい姿を見出していくのでしょうか。<br />
そもそも西洋においてクラシック文化が成立したのは19世紀においてです。それまでは、音楽会での演奏曲目は、最新の作品によって占められていました。しかし、19世紀を境にその価値観が急速に変容していきました。とくに1814 ─ 15年に開催されたナポレオン戦争の戦後処理のためのウィーン会議において、旧体制の秩序回復が根本命題となりました。それに連動して、社会は歴史主義の影響のもとに、伝統への回帰が大きな思潮となっていきました。普遍で不動の古典的価値に対する志向から、伝統が再発見され、また古典的な価値観を遵守することが、社会の上層階級の倫理観であり価値観となっていきました。クラシックという古典的価値が絶対視されたのはこのような歴史的なパラダイムの転換が影響していました。<br />
このクラシックの不動の価値観は、音楽だけではなく、社会秩序や倫理観、宗教観においても連動していました。国家主義や国家主義的な家庭像、チェチーリア協会に見られるような宗教的規律の強化が、同時に進行していました。<br />
ピアノという楽器は近代のこうした枠組みの中で成立し、ピアノ音楽が作曲され、享受されました。しかし、こうした構造そのものが、二度の世界大戦によって解体され、「西洋の没落」が現実のものとなるに伴い、「クラシック」の絶対性の土台も揺らぎ、クラシック文化の屋台骨を支えたピアノ文化も変質を余儀なくされてきました。</p>

<p>　ピアノとピアノ音楽を通して近代から現代にかけての多くの事柄が透視されてくるようです。それではピアノを通して、未来のピアノ文化を透視することは出来るのでしょうか。クラシック文化は、前衛を排除するところで成立したところがあります。18世紀から1930年代位までのレパートリーを繰り返し演奏し、また享受する循環構造のなかに、クラシック文化は自足しています。<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>の時代は最先端の音楽を作曲し、また評価することを第一に考えていました。しかし、クラシック文化は、前衛には背を向け、古典的音楽の享受に閉塞してしまいました。つまり、伝統的なクラシック文化において、20世紀そして21世紀の新しく生み出されてきた音楽をレパートリーに含むことはとても稀です。19世紀に培われた「反前衛」という精神構造は同時に、「名曲」と「有名作曲家」への固執という現象とも連動しています。つまり、特定の時代の特定の作曲家の特定の作品のみを繰り返し聞き続ける、という現象です。<br />
　今、この循環構造がほころんできています。最初に指摘したいのは、レパートリーの拡大です。とくにナクソスというレーベルでは、歴史の闇に隠されてしまったさまざまな作曲家の珍しい作品を次々と発掘し、大きな驚きを私たちに与えてくれています。これらの音楽は、ひところ、「マイナー作曲家」や「レア物」という名で、一部の骨董趣味の収集家のたしなみと見られていましたが、近年、人々の意識は変化してきていて、歴史をもっと立体的に見たいという志向性が高まってきています。これはピアノ文化にとって大きな活性化となっています。この問題意識は、20世紀音楽史にも及んできております。<br />
　第二点は、クラシックという概念そのものの限界の認識です。ポピュラーとクラシックは二分法で扱われますが、いつから二分されるようになったのでしょうか。戦後のアメリカ社会では、反ベトナム戦争の機運の中から、ロックやヒッピーという文化が生まれました。この文化は、上からの権威への徹底的な抵抗を特徴としていました。この文化は、クラシックへの抵抗でもありました。私たちはもっと幅広く音楽を知り、生きた演奏の舞台に、時代の新鮮な息吹を送り込む必要があるのでしょう。かつて、名ピアニストの<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/gulda/index.html">フリードリヒ・グルダ</a>が、<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>とクラシック文化に対して強烈なアンチテーゼを表明して話題になりました。彼は制度としての<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>やクラシック文化を否定し、音楽を行うことの原点に立ち返ろうとしたのです。今、現代に生きる音楽とは何か、という視点から音楽を見直さなければならない時期に来ています。<br />
　第三に、今生み出されている音楽に対して、ピアニストや聴衆はもっと反応すべきなのでしょう。<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/schoenberg/index.html">シェーンベルク</a>や<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/berg/index.html">ベルク</a>、<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/hindemith/index.html">ヒンデミット</a>や<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/busoni/index.html">ブゾーニ</a>など20世紀前期の作曲家のピアノ作品でさえ、レパートリーに含まれる機会は稀です。まして20世紀後半のピアノ音楽となるとさらに稀になっています。作曲家とピアニストと聴衆がいっしょに時代を作り上げていく思潮が求められていると思います。</p>]]>
        
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    <title>１８　ピアノ音楽風土記　ピアニストの社会的地位　その３</title>
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    <published>2009-10-23T08:06:15Z</published>
    <updated>2010-06-08T06:09:05Z</updated>

    <summary>ピアノ教師になるのに資格が要る？19世紀の状況と現在と。</summary>
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        <name>admin</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/">
        <![CDATA[<p>　ピアニストでもスター演奏家として喝采を浴び、大聴衆をうならせる音楽家は、しっかりとした社会的なステイタスを確立していたと言ってよいでしょう。社会的な地位という点で問題になるのは、指導者の資質です。現在でもそうですが、その指導者がどの程度の音楽家としての能力を備えているのかを、客観的に判断する基準はありません。生徒を沢山集めている教師は有名なのかもしれませんが、かといってその人物が優れた指導者とは限りません。それでは優れた教師であることはどのようにして判断すべきなのでしょうか。<br />
　この問題は、19世紀においてもすでに問題となっていました。音楽院を卒業した若者がピアノ指導者を自己PRするために、指の技巧を誇示して生徒確保に努めている様子を、<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>創刊の「音楽新報」はこう記しています。「彼らが追求するのは、跳躍パッセージをすさまじいスピードで弾き、しかもできるだけ短い時間で複雑なパッセージを演奏できるように教えることだけだ」と。<br />
　しっかりとした音楽教養や演奏技術をもたずに、ピアノの指導者となっている事例も目に付くようになったのでしょうか、1840年代になるとピアノの指導者の国家試験を求める声も高まってきました。教会のオルガン奏者となる場合は、非常に難しい試験が課されていますが、ピアノ教師となるには無試験であることへの危惧の念が表明されるようになってきました。ベルリン大学教授で、シュテルンとともにベルリン音楽学校（のちのシュテルン音楽院）を創設したマルクスは、「ベルリン音楽新聞」にこのような記事を寄稿します。「教師として活動している者、あるいはそれを考えている個人教師は、その者が音楽院や大学、ゼミナールで開講されている、教師となるための講義を受けたことをしっかりと申告すべきである。」マルクスは、ピアノ教師となるためには、しかるべき試験が課され、その合格者は新聞で公表されるべきである、と主張しました。この主張は同調者を見出し、ドイツでは、ピアノ教師においても「資格」が問われるようになっていきました。現在のわが国においても、ピアノ教育者向けの試験制度が存在していますが、ピアノ教師の資格認定制度は、同時にピアニストの社会的な地位を認めるという積極的な意味もありました。<br />
　ピアニストの社会的な地位という点で、女性は様々意味で低く見られていました。音楽学校に学んだとしても、女性が学ぶ科目や音楽教養は制約されており、ピアノと声楽の実技のみでした。しかも、専攻実技の指導時間も男性と女性とでは格差が設けられていました。しかし、そうした状況の中でも、優れた資質を持つ女性もやがて社会に進出するようになっていきます。女性には専門職業に就くことは事実上、閉ざされていた19世紀において、ピアノ教師は数少ない専門職業でした。職業に就いたといっても、ピアノ教師だけではなく、そもそも女性の社会的地位が定まっていないために、受け取る報酬も不安定であり、身分も保証されていませんでした。<br />
　19世紀のこうした状況は今日解決されているのでしょうか。社会の近代と教育の普及にともなって、19世紀以降多くの音楽学校が設立され、社会の音楽文化の発展と浸透に貢献しました。ピアノ教師となるに当たっても「資格」が必要であるとしても、資格は、国家の基本的な方針があって初めて活用できるものです。たしかに、音楽家となるための資格は、医者や弁護士、会計士などの資格とはおのずと意味を異にします。しかし、｢資格｣によってピアニストが社会的に認知され、社会で幅広く活動できる土台となるのなら、それはもっと幅広く、国家レヴェルで行われてしかるべきなのでしょう。ただし、国家レヴェルは、時として諸刃の刃になってしまうことも歴史的にはありました。芸術への国家の介入は、本来、好ましいことではないからです。また、特定の尺度で弁別されることによって、自由な芸術活動が抑制されてしまう危険性も潜んでいます。</p>

<p>　音楽文化は今、大きな曲がり角に差し掛かっているような気がします。ヨーロッパでもかつての伝統的な音楽文化に少し翳りが見え出し、音楽学校の統廃合の声も聞かれています。音楽の市場にアジア人が大勢進出する中で、ヨーロッパ文化としての音楽と、その担い手としての音楽家のあり方が変質し始めています。<br />
音楽家の社会的な地位、という問題を考えるとき、様々な意味で音楽世界の流動化が進んでいます。もはやポピュラーとクラシックという二分法は成り立たなくなっています。ピアノを演奏し、ヴァイオリンを演奏する、ポピュラーのスターも登場してきています。そのように考えると、ピアニストとは何か、という根本的な課題に突き当たります。一時代前は、クラシックのピアニストは<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>弾きであったと言っても過言ではありません。<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>弾きであることによって、ピアニストとしての社会的な尊敬と地位を確立したところがありました。現在はどうでしょうか。<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>だけではない、という空気がどこかに流れているのではないでしょうか。それは近代のクラシックを支えていた根本的な何か、ピアニストとしての「資格」基準とされていた価値観が変わったことを意味しているように思えます。しかし、時代は動いています。これからピアニストの新たな「資格」は何かは私たちが決めていくことなのでしょう。</p>
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    <title>１８　ピアノ音楽風土記　ピアニストの社会的地位　その２</title>
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    <published>2009-10-16T06:05:14Z</published>
    <updated>2009-10-16T05:55:22Z</updated>

    <summary>ピアニストの地位はどうやって決まる？先生と生徒で結ぶ契約とは</summary>
    <author>
        <name>admin</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/">
        <![CDATA[<p>　ピアニストの社会的な地位は、とくに18世紀末からイギリスで廉価なスクウェア・ピアノの大量生産が始まり、ピアノが不特定多数の人々に浸透するようになってくると、ピアニストという職業が社会のどこに位置づけられるのか、という問題が少しずつ顕在化してきます。それでも、高価なピアノを購入してこれを学ぶ階層は社会の上層の一握りの人々であり、とくに女性の場合はこれを敢えて職業とするという意識は、最初はありませんでした。良家の女性のたしなみとして、ピアノ教育は推奨されていましたが、19世紀のいわゆる「ジェンダー社会」のなかで、女性がピアノを職業とすることは必ずしも歓迎はされていません。それでも、<a href="/enc/dictionary/composer/schumann_c/">クララ・シューマン</a>のような女性のスター演奏会は脚光を浴び、男性の演奏家以上のステージ出演回数を誇りましたが、彼女は例外です。家庭のよき母であり妻であることを美徳とする当時の社会のなかで、ピアニストを職業とする女性の門戸はとても狭いものでした。<br />
　それでも、ピアノ人口が増加するにつれて、ピアノを教える仕事の需要も増していきます。そうしますと、1820年代頃から女性でもピアノ指導を職業とする人々が登場してきます。女子の教育機関として音楽学校は次第に人気を高め、とくに1840年代から各地に数多くの音楽学校が設立されるようになり、女性に入学が認められていたピアノ科と声楽科に女性が数多く学ぶようになり、多くのピアノ科卒業の女性が輩出されるようになります。女性がもっとも社会に出やすい領域がこのピアノ教師でした。しかし、女性のピアノ教師は男性よりも低く見られる傾向が強く、しかも指導料金も男性よりも格安でした。<br />
　そもそも、男性でもピアニストという職業は社会の中で特定の位置を占めていません。交響楽団や軍楽隊のように組織の一員として雇用されているわけではありませんので、仕事は演奏家としての出演とピアノの指導が主たる仕事になります。ピアノ教師の報酬を決める基準は、演奏家や指導者としての社会的名声や、パトロンの存在です。有力なパトロンを持っている場合は、パトロンを通して生徒が集められる場合もあります。たとえば<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>はその例です。ロスチャイルド男爵家に見出された<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>は、同男爵家の紹介で生徒の層を広げていきました。同時に、指導報酬もこうした、生徒の家の身分や環境によって変わります。富裕で高い身分家柄の生徒を多く抱える教師の指導料金は高額になりますが、庶民の場合は低額に抑えられたことでしょう。つまり、ピアノ指導者のレッスン料金の相場は、その教師の名声の度合いと彼を取り巻く社交関係や社会階層によって変化しました。ウィーンの名指導者の<a href="/enc/dictionary/composer/czerny/">チェルニー</a>やアントン・ハルムなどのレッスン料は当時の最高ランクに属しました。<br />
　フリードリヒ・シュレーターというピアノ教師は、レッスン料の出納簿を残しています。彼が記載した1832年から1839年までのレッスン料は年平均で1000ターラー前後です。この時代のドイツの通貨はきわめて複雑で、地域によって換算が非常に複雑に変化します。大きく見てプロイセン関税同盟やブレーメン、ハンブルクなどではターラー（名称は微妙に異なり、関税同盟ではフェラインターラーという用語が用いられました）、バイエルを中心とする南ドイツ関税同盟ではグルデンを使用していました。このシュレーターがどの地域に住んでいたのか分からないのですが、ターラーを貨幣を用いていることから北方地域でしょう。参考までに<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>が1834年に創刊した「音楽新報」の年鑑購読料が4ターラーで、この音楽新聞編集者としての報酬として、<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>は年150ターラーとする旨を兄宛の手紙に記しています。1838年の<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>のクララ宛の手紙では、結婚生活を送るための経費として、食費が一日２ターラー、年額712ターラー、4部屋ある家の家賃が250ターラー、総経費は年額1582ターラーかかる旨を記しています。シュレーターは、ピアノの指導のほかに演奏会の出演なども仕事にも従事したでしょうから、そう考えるとシュレーターのレッスン料年1000ターラーという額は、なかなかの収入と言えるでしょう。<br />
　ピアノのレッスンを行う場合、教師と生徒との間で契約書を結ぶ場合が多かったようです。レッスン料だけではなく、楽譜の貸借や、その他の経費などについて文書で確認した上で指導が行われていました。教師の都合で休む場合は補講を行うが、生徒の都合で休む場合は、レッスン料は払うものとするとか、14日間のレッスン料滞納は契約解除と見なす、などを記された契約書もありました。</p>]]>
        
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    <title>１８　ピアノ音楽風土記　ピアニストの社会的地位　その１</title>
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    <published>2009-10-09T04:03:51Z</published>
    <updated>2009-10-09T07:47:38Z</updated>

    <summary>音楽家の社会的地位その１。そもそも「ピアニスト」って？</summary>
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        <name>admin</name>
        
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        <![CDATA[<h3>１　鍵盤楽器奏者の身分と地位</h3>
<p>　音楽家の中でピアニストはどのような地位にあるのでしょうか。オペラ劇場の歌手や協会の合唱団員、オーケストラの団員とは明らかにそのあり方は異なります。そもそも、ピアニストという職業はどのように生まれたのでしょうか。<br />
　音楽鍵盤楽器でも、オルガン奏者とピアノ奏者の意味も異なります。バロック時代ではオルガン奏者は早くから専門職として認められ、その職位は高い尊敬をもって見られていました。オルガン奏者は、オルガン演奏だけではなく、フーガを含む即興演奏やコラール前奏曲などの演奏など、作曲の高度な技能や、教会における教義やコラール（賛美歌）に関する教養などについても精通していることが求められています。さらに教会のカントールともなると、これは教会音楽で活動する音楽家であれば、目指す最高のポストで、そこでは比類なく高いオルガン演奏の才能が求められました。<br />
　それでは同じ鍵盤楽器でもチェンバロはどうでしょうか。通奏低音楽器として合奏やオペラでは重要な役割を担う楽器ですが、オルガン奏者のもつステイタスとは性格は異なります。もちろん、教会音楽ではオルガン奏者は通奏低音奏者として加わりますが、チェンバロ奏者が合奏などで通奏低音奏者として果たす役割とは性格を異にしています。たしかにアンサンブルでは、チェンバロ奏者は、指揮者的な役割を果たし、低音を担当することからアンサンブルの和声を保証する任務を担っています。しかし、チェンバロ奏者には独立のパートは与えられていません。チェロなど低音楽器のパートを左手で奏し、右手は臨機応変に和声を支えていきます。<br />
　チェンバロは、たしかに組曲集などで独立した作品が作曲されていますが、独奏楽器の花というべき協奏曲の作曲は非常に遅れます。<a href="/enc/dictionary/composer/bach_j_s/">バッハ</a>の《ブランデンブルク協奏曲》第5番が実質的に最初のチェンバロ協奏曲と呼ばれるほどに、協奏曲を担当する独奏楽器という認識が確立するのは遅れました。</p>

<p>　古典派に入り、通奏低音楽器という役割から開放されて、フォルテピアノが独立の楽器としてその歴史を刻むようになると、この楽器の性格はさらに変化していきました。宮廷楽団に所属していた間は、宮廷楽団員としての公的な身分が与えられ、定まった給与のほかに年金も支給されていました。しかし、まったく個人で活動する楽器奏者となりますと、この集団の恩恵を受けることは出来なくなります。教会や宮廷、さらに交響楽団という組織から離れた個人営業の音楽家がピアニストです。教会や宮廷、交響楽団では、入団試験や入団後の教育などの体制が整っていましたが、個人の場合は、個々の指導者と生徒の関係となり、一方では自由な音楽活動が展開されますが、専門音楽家としての資格も基準もなくなります。それは、19世紀市民社会の自由な空気の反映でもありますし、同時に、音楽家が「プロレタリアート」となったことの証でもあります。ピアニストは、組織によって身分と給与が保証されることのない、無産者労働者の象徴のようにも見えます。</p>

<p>　音楽の歴史のなかでいくつか大きな転換点があります。その一つは1730年代です。<a href="/enc/dictionary/composer/bach_j_s/">バッハ</a>が13曲ものチェンバロ協奏曲を作曲したことの意味は大でした。1曲を除いて編曲であったとはいえ、これらの作品によってチェンバロ奏者が表舞台に立つことができたからです。<a href="/enc/dictionary/composer/bach_j_s/">バッハ</a>がフォルテピアノを最初に試奏したのもこの時期です。そしてその次の転換点は1770年頃です。この時期からウィーンやロンドンなどの諸地域で、フォルテピアノの技術革新が急速に進むようになります。新型ピアノが新しい表現を開拓するものとして脚光を浴び、注文製造が増加するようになります。1768年に<a href="/enc/dictionary/composer/bach_j_c/">クリスチャン・バッハ</a>がフォルテピアノによる独奏の演奏会を開催しますが、これはピアノの独奏演奏会の最初と見られています。この演奏会は、ピアニストという職種が確立されてきたことを象徴しています。すでにこの演奏会以前に、<a href="/enc/dictionary/composer/bach_c/">エマヌエル・バッハ</a>の「正しいピアノ奏法」が刊行されていますが、ピアノの演奏法に関する書物の刊行も、ピアノ演奏の科学が求められてきたことの証です。</p>]]>
        
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    <title>１９　ピアノ音楽風土記　ピアノと鉄の文化　その３</title>
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    <published>2009-09-25T02:59:04Z</published>
    <updated>2009-09-25T03:55:24Z</updated>

    <summary>ピアノと鉄の文化その３　鉄の品質による音の違いとは？</summary>
    <author>
        <name>admin</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/">
        <![CDATA[<p>　昔の鉄のフレームは鉄がもろいためにひび割れが出来やすく、数多くの不良品がでました。今日は鉄の純度が高まり、こうした不良品は少なくなってきました。しかし、ここで新たな問題が指摘されてきました。それはピアノの音質の問題です。ハンブルクのスタインウェー社の場合を例に取ると、伝統工法のこのメーカーの鉄のフレームからなぜ温かみのあるふくよかな音が生み出されるのか、という疑問です。冶金学の研究の結果、伝統工法の昔の鉄のフレームにはリンやマンガン、カリウム、マグネシウムという雑多な成分がたくさん含まれており、しかも、その鉄は、表面は非常に硬質であるものの、鉄の内部はとても柔らかいことも分かりました。これらは、鉄がもろくなって、ひび割れる原因となりますが、その反面、すぐれた音質をうみだしています。
これらの不純物のなかでとくに注目されているのは、「リン」という成分で、これが音質に大きな影響を及ぼしていると考えられています。どうして昔のピアノはリンなどの不純物が多く含まれているのでしょうか。それは、鉄のフレームの原材料が多くは屑鉄であったからです。上記のスタインウェー社のピアノのフレームに含まれた不純物の量と種類の多さを考えると、この鉄は屑鉄を原料とした鋳鉄であったように思われます。それに対して、現代の製鉄技術では、むしろこれらの不純物を除去して純粋な鉄を作り出し、それを土台に合金技術を開発させていきました。その過程で、リンなどの成分は除去されました。<br />
　もう一つ注目しなければならないのは鉄の硬度です。ピアノのフレームで用いられる鉄は鋳鉄、いわゆる鋳物で、「だるまストーブ」と同じ鉄です。以前は、地面に砂で鋳型をつくり、そこに溶けた鉄を手作業で流し込んでフレームを製造していました。そのために、鉄が均等に鋳型の細部まで行き渡らず、不良品が出来やすくなってしまいました。しかし、この手作業でゆっくりと溶けた鉄を柄杓で鋳型に流し込み、地面にゆっくりと熱を放出して作り出されるフレームこそが、すばらしい音の生みの親でした。表面は非常に硬く、内部は柔らかいこの鉄はこの手作業が生み出したのです。このように考えると、近代産業技術が生み出した鉄のフレームは、近代化の問題を同時に指摘しているようにも見えます。<br />
　フレームで最後に取り上げたいのは、リブ、つまりフレームに張り渡された肋骨です。この肋骨はピアノの音質にどのような影響を及ぼしているのでしょうか。前にも述べましたが、メーカーによってその形状は微妙に異なります。<br />
　ピアノの音質において問題なのは、音域によって音質が異なることです。19世紀初期のブロードウッドやエラールのピアノの音を聞いたことがある方は経験したことがあると思いますが、高音域と注音域と低音域で、音質だけではなく、音の重量感も音の性格もまったく異なります。おそらく<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>はこの相違を意識して創作に反映させているのかもしれません。この相違は<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>の用いたプレイエルのピアノにも感じられます。高音域でも、ダンパーがある部分と、最高音域のダンパーがない部分でも音質が異なります。<br />
　この音質や音の性格などの相違を解決することに貢献した一つがリブです。低音域の振動を高音域に伝え、また高音域の薄い音質に深みを与える上でリブは少なからぬ効果を与えています。リブの全部の鍵盤に近いところに横に張られている鉄の支柱も、音の均質化に貢献しています。この横の支柱の形状もメーカーによって微妙に異なっています。段差を設けているメーカーや一体にしているメーカーなどがありますが、それはそれぞれに音の振動に関する研究が背景になっていると思われます。<br />
　このリブの構造だけではなく、フレームの開口部の形状や大きさなど、現在でもさまざまな試行が行われ、各メーカーは新しいピアノの音質を追求しています。鉄のフレームはいまだ究めつくされない課題を私たちに与え続けています。</p>]]>
        
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    <title>１９　ピアノ音楽風土記　ピアノと鉄の文化　その２</title>
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    <published>2009-09-18T06:58:45Z</published>
    <updated>2009-09-18T08:09:49Z</updated>

    <summary>鉄骨フレームの採用はピアノメーカーにとっての「踏み絵」だったのか？</summary>
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        <![CDATA[<p>　ヨーロッパの伝統的なピアノメーカーと言えば、<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>が<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/004119.html">「熱情」</a>を作曲し、<a href="/enc/dictionary/composer/liszt/">リスト</a>が<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/liszt/001420.html">「超絶技巧練習曲」</a>を作曲したエラール、そして<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>が「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を作曲したブロードウッドです。これらのメーカーは、鉄のフレームの採用だけではなく、交差張弦の採用に強く反発しました。早い音の減衰と、自然な倍音の美しさは、<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/schubert/">シューベルト</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>の音楽を生み出したピアノの賜物です。これらの作曲家のピアノ作品のフレージングやペダリング、音域ごとの表現、そして音質は、当時の木製のピアノを範としていました。<br />
　この伝統の音の美学に強くこだわったエラールやブロードウッドは、かたくなに木製のピアノにこだわります。19世紀後半のヨーロッパのメーカーにおいて、鉄のフレームと交差張弦は、いわば「踏み絵」でした。とくにブロードウッドは最後までこの二点を拒否して、伝統的なピアノを守ろうとしました。そしてその結果、栄光に包まれた会社の歴史を閉じることになりました。そのなかで、伝統的なメーカーも鉄のフレームを採用するようになっていきます。とくにウィーンのメーカーでは、もう一つの「踏み絵」がありました。それは、<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>が愛した、ウィーン・アクションの放棄です。19世紀後半になると。<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>の愛好したシュトライヒャーのピアノもイギリス・アクションを採用するようになります。<br />
　その点、19世紀後半に登場したブリュートナーやベヒシュタインといったドイツのメーカーは、アメリカで生まれた鉄のフレームを積極的に導入していきました。アメリカのチッカリンクやスタインウェー、ドイツの上記の二社が19世紀後半から20世紀のピアノ製作をリードしていくことになります。これらのメーカーにおいて、ピアノ製作は楽器製作であると同時に、当時の最新式の科学技術を応用した近代産業でもありました。音響学的なデータに基づいて鋳鉄フレームを製作したスタインウェーは、鉄の共鳴と木の共鳴との関係や、鉄のフレームの形状や、リブの構造、フレームに空ける穴、そして穴の形状などについてこれまでとはまったく異なった製造方法を確立します。スタインウェーのこのピアノ製造の態度は、ピアノは近代産業技術を背景にして作り出されることをはっきりと物語っています。<br />
　小さなことかもしれませんが、鉄のフレームに空いた丸い穴の大きさや、あたかも火山の噴火口のような形状にも、音響学的な試行錯誤が反映されています。19世紀後半の人々が求めていたのは、19世紀前半におけるような、木製のフレームのピアノの奏でる淡く詩情豊かな音ではなく、大ホールいっぱいに広がる、輝くような音であり、豊かな残響でした。鉄のフレームの登場は、演奏者の表現だけではなく、聞き手の美感をもおおきく変えていきました。今日、私たちは明快で、くっきりとした音質と、輝かしいばかりの色彩感、そして力強い大音量を求めますが、これはまさに鉄のフレームのもたらした変革でした。<br />
　鉄のフレームは、初期のバブコックの時代に始まり、その後の発展の中で、その形状やリブの渡し方などは大きく変化しました。その過程で単に構造を支えるだけではなく、低音域の共鳴を、リブを通して高音域に伝えるという発想も生まれてきます。ピアノのメーカーによってこのリブの形が少しずつ異なっておりますが、それぞれにピアノの響きを作る工夫が込められています。フレームの形も19世紀後半から20世紀にかけてさまざまでした。ベーゼンドルファーでは、鉄のフレームの形状を鋸状にした形も取り入れています。<br />
　もろい鋳鉄を均一の厚さで製造するだけではなく、弦をとめるねじ穴やリブの一体製造する技術は19世紀においては最新技術であったに違いありません。この技術を支えたのが、近代の製鉄技術です。皮肉なことに、ピアノという人々に平安とくつろぎと芸術を提供する楽器を生み出す技術を提供したのは、鉄道のレールと大砲と軍艦を製造する鉄の科学でした。一言で言うと、軍需産業の先進国が鉄のフレームのピアノを先導していったのです。<br />
　鉄は近代文化のバロメーターと言われます。同じように、ピアノの製造技術も近代産業のバロメーターでした。万国博覧会にこぞって各国が新型ピアノを出品し、鉄のフレームを競いました。アメリカで生み出された鉄のフレームを次に発展させたのはドイツのメーカーです。ドイツに次いで、鉄のフレームのピアノで躍進したのは日本です。日本は、オートバイや自動車の生産ラインの方式をピアノ製造に取り入れるだけではなく、エンジンで用いる鋳鉄の技術をピアノ製造の技術に応用して、より強い張りのあるフレームを開発しました。鉄に関する最新の技術が今日のなおピアノの製造を支えています。</p>]]>
        
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    <title>１９　ピアノ音楽風土記　ピアノと鉄の文化　その１</title>
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    <published>2009-09-11T03:57:56Z</published>
    <updated>2009-09-11T06:38:22Z</updated>

    <summary>近代ならでは。楽器に鉄を組み込むという発想</summary>
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        <![CDATA[
<p>　ピアノの中に鉄を組み込むという発想は、18世紀のチェンバロにおいては考えもつかないことであったでしょう。<a href="/enc/dictionary/composer/haydn/">ハイドン</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>の時代のフォルテピアノにおいては、楽器の音域は５オクターヴで、構造的にもそれほど複雑ではなく、弦の張力が楽器に負荷する力もそれほどではありませんでした。しかし、作曲家の表現欲求の高まりや演奏家の要求、さらに、連弾作品という需要に応じて、18世紀末からフォルテピアノの音域の拡大が進んでいきます。ここで生じた問題が、楽器の強度です。かつては一鍵盤に二弦であったものが、三弦を張るようになり、音域の拡大の欲求が高まると、ピアノの強度を保つことが重要になっていきます。<br />
　ヨーロッパのメーカーで音域の拡大の要求に最初に反応したのはイギリスです。<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>が寄贈を受けたエラールのピアノは５オクターヴ半の音域を持っていますが、フランス人のエラールはイギリスのブロードウッドで修行したピアノ製作者です。<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>の<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/001138.html">「ハンマークラヴィーア・ソナタ」</a>は、下一点ヘ音から４点ヘ音の音域の６オクターヴの音域のシュトライヒャーのピアノ（第１楽章から第３楽章）と下一点ハ音から４点ハ音の６オクターヴの音域のブロードウッドのピアノ（第４楽章）の二種類のピアノを用いて作曲した作品です。つまり６オクターヴ半のピアノを想定して作曲した作品です。<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>は６オクターヴ半のピアノの登場を予見していたのでしょう。実際、1825年に、<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>はグラーフ製作の6オクターヴ半のピアノの寄贈を受けます。<br />
　このようにピアノの音域の拡大とアクション機構の複雑化、そして、特に低弦域の拡大はピアノに力学的な意味での強い負荷をかけることになります。実際、1822年製造のエラールのピアノは、9本の金属の支柱を用いて、木枠の構造を支えることを行っています。<br />
このピアノ構造上の問題をいち早く予見して鉄のフレームを試作したのは、アメリカのボストンのバブコックです。彼は1825年、鋳鉄による一体フレームを試作します。そして1829年からこの工法によるピアノの製造に乗り出します。バブコックがこの工法を考案したのは、<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>が6オクターヴ半のピアノの寄贈を受けた年です。そして1830年頃になるとイギリスのバーミンガムのウェブスターがスティール・ワイヤーを発明します。ピアノが、製鉄技術と不可分な関係をもつようになるのはこのころです。<br />
　アメリカのメーカーはいち早く鋳鉄のフレームを採用していったのに対して、ヨーロッパ大陸の伝統的な各メーカーは、木製のフレームに固執し続けます。ピアノの表現要求から、重い低音の響きと、協奏曲においてオーケストラを背景に燦然と輝く音質、そして強い音が強く求められるようになってきます。低弦の拡大は高音域以上に楽器に対して大きな負荷をかけることになります。そして重量感のある音への要求から、1835年に低弦では弦にさらに銅線を巻く、巻弦の製造が行われるようになります。こうした楽器のフレームへの構造的負荷のために、19世紀中ごろのピアノでは、木製のフレームが割れる事態も起こってきました。1808年頃、つまり<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>が<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/001135.html">ピアノソナタ「告別」</a>を作曲している頃のピアノでは、弦の張力の総量は4.5トンでしたが、1850年頃、つまり<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/mendelssohn/">メンデルスゾーン</a>が亡くなって程なく、<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>が晩年の創作を進めている時期のピアノでは12トンに達していました。<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>が愛好したプレイエルのピアノでも、<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>が愛奏したグラーフのピアノでも、鉄の支柱を渡して構造を支える方式を用いています。<br />
　ヨーロッパが震撼した出来事がありました。それは万国博覧会です。1851年にロンドンで第1回が開催されましたが、そこに各国から最新鋭のピアノが出品されました。イギリス38社、フランス21社、ドイツ18社に混じって、アメリカのメーカーも6社が出品しました。そのアメリカのチッカリンク社が出品したのは鉄のフレームを組み込んだピアノでした。チッカリンクはこの出品に先立って1840年に、バブコックのフレームをさらに改良した、張力計算に基づいているだけではなく、チューニングピンも一体製造した製品でした。この堅固なフレームを土台に、チッカリンクは1845年により長く、しかも強く弦を張るために、交差張弦という今日の方法を採用しました。この張弦法は、これまでの伝統的な並行張弦法ではなく、中音域から低音域の弦は交差する形で張られています。この方法によって、スティールの強力な弦を用いることで輝かしい音質を獲得しました。<br />
　第1回万博のころは、チッカリンクの鉄のフレームを組み込んだ、交差張弦のピアノはヨーロッパの音楽関係者にはそれほど受け入れられませんでした。しかし1862年のロンドン万博に出品した初参加のスタインウェーの鋳鉄フレームを組み込んだピアノは受賞し、高い評価を得ることが出来ました。木製フレームにこだわったヨーロッパの伝統的なメーカーがこの年を境に、次第に姿を消すことになります。</p>]]>
        
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    <title>１３　都市のピアノ音楽風土記　　アメリカ 　その３</title>
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    <published>2009-08-31T03:34:11Z</published>
    <updated>2009-09-04T07:31:51Z</updated>

    <summary>１　マクダウェル　　ヨーロッパ伝統の継承とアメリカ音楽のはざまで ニューヨーク出...</summary>
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        <name>admin</name>
        
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        <![CDATA[<h3>１　<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">マクダウェル</a>　　ヨーロッパ伝統の継承とアメリカ音楽のはざまで</h3>
<p>ニューヨーク出身の<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">マクダウェル</a>は、その名前からも示唆されているようにイングランドの出身ではなく、父親はスコットランド系で、母親はアイルランド系です。彼は、ヨーロッパでの留学と演奏活動を通して、ヨーロッパの伝統をしっかりと継承しつつ、このアメリカの現実を作品に描き出しています。ピアノ作品の代表作、<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/008642.html">「森のスケッチ」（作品51）</a>は、アメリカの東部地区の森の情景を描いた作品です。このタイトルにも示されているように、まさに<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">マクダウェル</a>版の<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>の「<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/004844.html">森の情景</a>」です。「<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/008642.html">森のスケッチ</a>」の第5曲は「インディアンの小屋から」と題された作品ですが、インディアンを題材にした作品としては、「組曲第2番　インディアン」（作品48）もあります。<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>との結びつきは、<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/008660.html">組曲「暖炉のお話」（作品61）</a>にも見られます。<br />
　彼は<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/mendelssohn/">メンデルスゾーン</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/liszt/">リスト</a>などドイツロマン派及び、<a href="/enc/dictionary/composer/grieg/">グリーク</a>を理想としていました。<a href="/enc/dictionary/composer/grieg/">グリーク</a>に対する賛美は非常に強く、それは彼の<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/008617.html">ピアノ協奏曲第1番</a>に反映しています。ドイツロマン派への共感は、<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/008624.html">「ハイネの６つの詩」（作品31）</a>にもっとも明瞭に示されています。彼はハイネの詩から6編を選んでピアノ小品集を作曲しました。初版では彼は原詩にちなんでドイツ語の題を掲載していました。今日の英語の題に改定したのは1901年の出版においてです。<br />
　彼は、ニューヨーク出身ですが、東部地区のニュー・イングランドに対する強い親近性をもっていたと思われます。それは<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/008666.html">「ニュー・イングランドの牧歌」（作品62）</a>と題された10曲の曲集に表現されています。古きヨーロッパの香りを伝えるこの地域は、長くヨーロッパに過ごした彼にとっては一種郷愁を覚えさせるものであったのでしょう。<br />
この古きヨーロッパの伝統と香りはその後も継承されていきます。日本でも人気のある女性作曲家の<a href="/enc/dictionary/composer/beach/">エイミー・マーシー・チェニー・ビーチ</a>（1867-1944）は、わずか4歳にして「作品1」を作曲するほどの神童です。ピアニストとしても比類ない才能を発揮しました。彼女はアメリカの古き良き倫理観を代表し、結婚後は演奏活動で報酬を得ることを断念を余儀なくされるが、作曲活動は続けている。彼女が音楽界でふたたび活動するのは、寡婦となってからである。<a href="/enc/dictionary/composer/beach/">ビーチ</a>は後期ドイツロマン派の表現を受け継ぎ、それは「<a href="/enc/dictionary/composer/beach/002831.html">ピアノ協奏曲</a>」にも反映しています。<a href="/enc/dictionary/composer/beach/">ビーチ</a>の作曲したピアノ作品には、伝統的な19世紀ヨーロッパの表現を色濃く映し出しています。<a href="/enc/dictionary/composer/beach/">ビーチ</a>においては、アメリカ音楽という意識はあまりなかったと思います。アメリカ社会の上流階級はヨーロッパ以上にかたくなにヨーロッパの古い伝統を継承しようという意識が強く働いていました。それを支えたのは、地域性、出身国、経済格差、そして宗教でした。アメリカではカトリックは少数派です。ニュー・イングランドの地域性と、イギリス及びドイツの出身国、富裕階層、そしてプロテスタントが、アメリカの上流階層を形成し、そこでは20世紀に入っても19世紀ロマン主義音楽が脈々と営まれました。<br />
その点、ユダヤ系ロシア人の移民で、貧困層が集まるニューヨークのハーレムに生まれ、大衆的な雑踏に育ったジョージ・ガーシュイン（1898-1937）は、ビーチ夫人とはまったく異なる社会環境にありました。ニューヨークの文化は、伝統的な古きイギリスの生活を継承しようとするニュー・イングランドとは別種です。<a href="/enc/dictionary/composer/gershwin/">ガーシュイン</a>の音楽は、ジャズを基調とし、20世紀前期のアメリカの大衆音楽の要素を融合した音楽で、豪華なシャンデリアのまたたく上流階級向けの演奏会場よりも、日々の聴衆の反応に最大の関心が払われました。彼の作品ではピアノ協奏曲である「<a href="/enc/dictionary/composer/gershwin/000072.html">ラプソディー・イン・ブルー</a>」が有名ですが、ピアノ独奏曲も残しており、ピアノロールに録音した彼の演奏は目のさめるほどの躍動感にあふれた名演です。<a href="/enc/dictionary/composer/gershwin/">ガーシュイン</a>はアメリカの20世紀音楽の扉を開いた音楽家としてもっとも大きな存在です。</p>
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    <title>１３　都市のピアノ音楽風土記　　アメリカ 　その２</title>
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    <published>2009-08-28T03:33:58Z</published>
    <updated>2009-08-28T09:40:41Z</updated>

    <summary>１９世紀後半アメリカ。ヨーロッパとの繋がりを思いつつ新天地を故郷と認める人々</summary>
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        <name>admin</name>
        
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        <![CDATA[<h3> １　19世紀後半のアメリカのピアノ音楽</h3>
<p>
　19世紀前期のアメリカのピアノ音楽は、やはりニュー・イングランド地域がリードしていきます。この地域での音楽ではドイツ音楽が好まれ、それはピアノ音楽に限らず、管弦楽作品についても同様でした。しかし、そうした中で19世紀後半に入るとアメリカの国民音楽への意識も芽生えだしていきます。リチャード・ホフマン（1831-1909）は、マサチューセッツ州出身ですが、その名前からもドイツ系と分かります。彼は125曲以上の作品を作曲し、ピアノ曲では「ディキシアーナ」が注目されます。このタイトルからも分かるように、ディキシーランド・ジャズを取り入れた作品で、<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ゴッチョーク</a>の影響を受けています。そのほか、メーン州ポートランド出身の<a href="/enc/dictionary/composer/paine/">J.K.ペイン</a>（1839-1906）や、コネチカット州出身のD.バック(1839-1909)、ニューヨーク州出身のH.N.バートレット（1846-1920）といった作曲家が続きます。<br />
　19世紀後半は、同世紀前半とはアメリカの音楽事情も変化を見せてきます。というのは、社会の近代化とともに音楽も前衛化するのではなく、アメリカ独特の社会の階層化の影響を受けるようになって行ったからである。それは移民と宗教と経済状況が大きく影響しました。そのなかでニュー・イングランドは伝統的なヨーロッパの音楽文化を保持しようとする傾向が強く見られるようになります。その代表的な作曲家がアーサー・フット（1853-1937）です。彼の「前奏曲とフーガ　ニ短調」などは、このタイトルには示されていますが、19世紀後半の作品とは思えないほどに古典的です。この古典主義は19世紀アメリカでは一つの傾向を代表したと思われます。このフットはオラトリオ｢最後の審判｣の作曲で知られるホレイショ・パーカー（1863-1919）とともに、19世紀後半から20世紀にかけてのニュー・イングランド地方のもっとも重要な存在でした。<br />
後述のマクダウェルとともに19世紀後半のアメリカの音楽をリードする役割を担ったのが、ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック（1854-1931）です。マサチューセッツ州出身で、ボストンに没したチャドウィックは、典型的な東部地区の音楽家です。彼もまたドイツに渡り、ライプツィヒ音楽院で<a href="/enc/dictionary/composer/reinecke/">ライネッケ</a>に、ミュンヘン音楽院で<a href="/enc/dictionary/composer/rheinberger/index.html">ラインベルガー</a>に師事し、後期ロマン派のドイツ音楽の正統な様式を継承します。帰国後、ニュー・イングランド音楽院院長をつとめています。彼は3曲の交響曲など大編成の作品が知られていますが、「６つの性格的小品」（作品７）のような愛すべきピアノ曲も残しています。この作品は、ドイツロマン派の響きの中に、アメリカの民謡を自然に融合させています。</p><br />

<h3>２　　ニューヨーク出身マクダウェルの登場</h3>
<p>　フットやチャドウィックに続いてアメリカが輩出したのが、19世紀アメリカの最大の作曲家<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">エドワード・マクダウェル</a>(1861-1908)で、彼もまたフットと同じ土壌にあるといえます。つまり西洋音楽文化の伝統の正当な継承者という顔をもっとも強く示したのが<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">マクダウェル</a>です。彼はニューヨークの出身で、早くから音楽の才能を示します。彼はパリ音楽院に入りますが、その後フランクフルトのホーホ音楽院に移り、同音楽院でリストの交響詩のオーケストレーションを手がけたことでも知られる<a href="/enc/dictionary/composer/raff/">ヨアヒム・ラフ</a>に師事します。そして彼は同音楽院を訪れたリストに見出されます。<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">マクダウェル</a>の作品は、ヨーロッパを元来の祖国としつつ、アメリカに新たな故郷を見出そうとする19世紀後半のメンタリティを見る思いがします。<br />
　この頃からアメリカはさらにいっそう、移民による階級化と、宗派による差別化、地域による個別性が進行していきます。イギリス人やドイツ人移民が上位に位置し、その下にアイルランド系、そしてフランス系、イタリア系、ロシア系、東欧系、ユダヤ系等々とまさに階層を形成していきました。プロテスタントが多数派を占め、カトリックは少数派に属します。また、ヨーロッパを追われた多くの宗派の人々がアメリカの様々な地域に、自己の宗教を堅く守って点在し、独自の文化を形成しました。そして彼らは、その宗教と信仰のかたくなさのために、一種の原理主義的な様相すら持っています。<br />
イギリス系が多数を占めたニュー・イングランドは、その名前からも分かるようにイギリスの文化の伝統を堅持しようと努め、その中心地ボストンはまさにアメリカのなかのヨーロッパとも言うべき象徴的な都市です。その点、<a href="/enc/dictionary/composer/macdowell/">マクダウェル</a>の生まれたニューヨークは、よりコスモポリタン的です。<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ゴッチョーク</a>の生まれ育った南部のニュー・オリンズともなりますとフランス系と黒人やクレオールの文化が融合しています。</p>]]>
        
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    <title>１３　都市のピアノ音楽風土記　　アメリカ 　その１</title>
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    <published>2009-08-17T03:33:27Z</published>
    <updated>2009-08-17T04:57:39Z</updated>

    <summary>ピアノ音楽風土記の最後は『新大陸』アメリカ の事情</summary>
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        <![CDATA[<p>　移民国家アメリカにおいて、いわゆるクラシック音楽がどのように浸透し、発展していったのかという問題は非常に複雑です。ボストンを中心としたニュー・イングランド地方が音楽文化の最初の発展の場所で、楽器工場も楽譜印刷工場もまずボストンから始まります。しかし、それぞれの移民の人種の傾向や都市や州による多様性を反映して、同じ東部地区でもニューヨークやその他の都市で非常に個性的な音楽が発展しました。たとえば、「<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/007735.html">バンジョー</a>」や「<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/007733.html">バナナ</a>」などの作品を作曲した<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ルイ・モロー・ゴッチョーク</a>（1829-1869）は南部のニュー・オリンズの出身です。彼の母親はクレオールで、父親はユダヤ系イギリス人です。<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ゴッチョーク</a>の名前からも分かるように、フランス文化圏との関連を示唆しています。この項目では、まずヨーロッパからの音楽が最初に渡来したとくにニュー・イングランド地域及び東部地区を中心に取り上げたいと思います。</p><br />

<h3>１　ニュー・イングランド地方とヨーロッパ音楽の伝統</h3>
<p>　ボストンを中心としたニュー・イングランド地方は、最初からアメリカの音楽をリードしていたわけではありません。オランダ人が入植したニュー・アムステルダム（現在のニューヨーク）や、フランス人が入植した南部のルイジアナは、商業的には早くから開けていました。しかし、その後のアメリカのクラシック音楽の発展において主導権を握るのはこのニュー・イングランド地方です。その重要な要因は、楽器産業でした。ピアノ製造だけではなく、多様な楽器産業がこの地域に興り、ここで生産された楽器がアメリカのクラシック文化の担い手となったのです。ピアノ産業についてみますと、初めてピアノに鉄骨を組み入れたことで知られるバブコック、20世紀前期までは世界最高のピアノ製造台数を誇ったチッカリングのほかに、ブラウン＆ハレット、クリアー、レミュエル・ギルバートといったメーカーが19世紀前期に創立しています。これらのメーカーのなかで注目されるのはバブコックとチッカリンクでしょう。前者は、鋳鉄の鉄骨で強度を増したピアノ製造に端緒を切り開いたことで、後者は、スタインウェーやベヒシュタインなど近代ピアノへの道を開いたことで重要です。チッカリンクは晩年の<a href="/enc/dictionary/composer/liszt/">リスト</a>も使用したピアノでした。<br />
　こうした環境からボストンを中心にアメリカのピアノ文化が形成されていきました。初期の音楽家では、イギリス出身のベンジャミン・カー（1768-1831）やボヘミア出身のドイツ人、アントニー・フィリップ・ハインリヒ（1781-1861）、ドイツのヴァイマール出身のチャールズ・グローブ（1817-?）がおります。グローブは多作家で知られ、2000曲を作曲したと言われています。これらの作曲家を見ますと、イギリス出身とドイツ出身の人々によって占められているのがわかります。実際、この地域はイギリス人が自国の伝統をもっとも保持することを目指した地域で、音楽文化について言えばドイツ音楽が主流を占めていました。この傾向は20世紀前期まで続き、アメリカにおける特殊な文化を形成しました。<br />
　これらの音楽家に続いて、1829年にアメリカのピアノ音楽の歴史において重要な役割を担う二人の作曲家が誕生します。一人がボストン出身のウィリアム・メイスン（1829-1908）で、もう一人がニュー・オリンズ出身の<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ルイ・モロー・ゴッチョーク</a>（1829-1869）です。メーソン家がボストンの初期の音楽史において非常に大きな功績を残しました。ウィリアムの父ローエル（1792-1872）は教会音楽の分野に足跡を残し、「ハイドン・モーツァルト協会教会音楽集」を編纂し、1838年にはボストンの公立学校の教育に音楽を導入することを実現しました。息子のウィリアムは早くから音楽教育を受け、1846年からピアニストとしての活動を開始します。1849年から54年の間、ヨーロッパで<a href="/enc/dictionary/composer/moscheles/">モシェレス</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/liszt/">リスト</a>に師事しています。彼がヴァイマールで<a href="/enc/dictionary/composer/liszt/">リスト</a>を訪問した時期に<a href="/enc/dictionary/composer/brahms/">ブラームス</a>も<a href="/enc/dictionary/composer/liszt/">リスト</a>を訪問し、面識を持ち、彼は、帰国後に企画・主宰した「メーソン・トーマス室内楽の夕べ」で、<a href="/enc/dictionary/composer/brahms/">ブラームス</a>の｢<a href="/enc/dictionary/composer/brahms/003338.html">ピアノ三重奏曲第1番</a>｣のアメリカ初演を手がけています。作曲家としても重要で、彼は約50曲のピアノ作品を残しています。たとえば「銀の森」（作品6）はヴィルトゥオーソとしての彼の姿をよく示している作品で、華麗な技巧が駆使されています。「ノベレッテ」（作品31-２）は、<a href="/enc/dictionary/composer/schumann/">シューマン</a>の影響が感じられ、またこの標題もドイツロマン派との結びつきを示しています。</p><br />
<h3>２　<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ゴッチョーク</a>とアメリカ民俗音楽への覚醒</h3>
<p>　メーソンがドイツロマン派の継承者であるとすると、クレオールの血を引く<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ゴッチョーク</a>は、同じくヨーロッパに学び、ヴィルトゥオーソとして名声をしつつ、メーソンとはまったく異なります。前にも述べましたが、南部はニュー・イングランドとは異なり、フランス文化の影響が強く、また劇場などの建設は北部に先んじています。<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/">ゴッチョーク</a>の留学先はパリで、<a href="/enc/dictionary/composer/berlioz/">ベルリオーズ</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>と交流を持ち、<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>の賞賛を得ています。彼は1853年、メーソンと同じ頃に帰国します。しかし、彼の特に作曲面の関心はいわばアメリカ民俗主義へと向かっていきました。「<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/007730.html">クレオールのバラード」（作品37）</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/007731.html">「ガリーナ」（作品53）</a>はキューバ舞曲で、上記の<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/007733.html">「バナナ」（作品5）</a>は黒人の歌を取り入れています。その響きはドイツロマン派の響きとは異なり、土俗的で、しかし新鮮で活力に満ちています。<a href="/enc/dictionary/composer/gottschalk/007735.html">「バンジョー」（作品15）</a>などは、その後の<a href="/enc/dictionary/composer/gershwin/">ガーシュイン</a>の登場を予見している作品と言っても過言ではありません。</p><br />
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    <title>１２　ピアノ音楽風土記　スペイン　その３</title>
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    <published>2009-07-29T01:45:16Z</published>
    <updated>2009-07-29T03:57:04Z</updated>

    <summary>その後のスペイン・ピアノ音楽と、南米大陸への波及</summary>
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        <name>admin</name>
        
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        <![CDATA[<p>　２０世紀スペインにおけるピアノ音楽で注目されるのは、ギター音楽で有名な、<a href="/enc/dictionary/composer/rodrigo/">ホアキン・ロドリーゴ</a>（1901-1999）です。彼はバレンシア地方のバレンシアの北方の町サグントの出身で、盲目の作曲家で知られ、ギター協奏曲「アランフエスの協奏曲」が有名です。アランフエスはマドリッドの南方の地名で、スペイン王室の宮廷がある場所です。この作品だけが有名すぎて<a href="/enc/dictionary/composer/rodrigo/">ロドリーゴ</a>のその他の側面が隠れてしまったところもあります。とくにピアノ作品がそうです。ピアノ作品として最初に注目したいのが、この｢<a href="/enc/dictionary/composer/rodrigo/012314.html">４つの小品</a>」です。<br />
　この｢<a href="/enc/dictionary/composer/rodrigo/012314.html">４つの小品</a>」は以下の作品から構成されています。１　カレセーラス（チェチカ賛）、２　食堂のファンダンゴ、３　カスティーリャ王女の祈り、４　バレンシアの踊り<br />
これらの作品の中で第1曲の標題に用いられている「チェチカ」は19世紀のサルスエラ作曲家です。ファンダンゴはスペインの民族舞曲で、カスティーリャやバレンシアはスペインの地方名です。そのほか、<a href="/enc/dictionary/composer/rodrigo/">ロドリーゴ</a>のピアノ作品には、「カスティーリャのソナタ集」や「アンダルシアの４つの絵画」があります。<a href="/enc/dictionary/composer/rodrigo/">ロドリーゴ</a>はピアノ音楽の作曲者としては知られていませんが、ギター音楽以外にももっと注目されてしかるべき作曲家です。<br />
　スペインは南米に植民地を求めました。隣国ポルトガルも同様です。その関連で、中南米諸国は、スペインとポルトガルの音楽文化の影響を受けて生きます。しかし、それぞれの民族音楽をそのまま生かすよりも、とくにフランス音楽の影響を経由して自国の音楽にまなざしを向ける傾向が見られます。<br />
　メキシコの作曲家<a href="/enc/dictionary/composer/ponce/">マヌエル･マリア･ポンセ</a>（1882-1948）は、フランスでデュカスに師事し、近代フランス音楽からの強い影響を示しています。「マルグレ・トゥ」などの彼のピアノ作品にはメキシコ色はまったく感じられません。しかし、彼は「メキシコ狂詩曲」などの作品ではメキシコ文化を題材にして、国民文化への接近を示しています。<br />
　ポルトガルを旧宗主国とするブラジルではまず、エルネスト・ナザレ（1863-1934）が注目されます。ナザレはブラジルで最初の音楽教育を受けます。彼が最初に心酔したのは<a href="/enc/dictionary/composer/chopin/">ショパン</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/beethoven/">ベートーヴェン</a>の音楽でした。しかしその後、タンゴを中心に南米色を出した作品に関心を示し、「オデオン」や「サランベッキ」などの作品はタンゴを土台としています。ナザレは、その後、<a href="/enc/dictionary/composer/villa_lobos/">ヴィラ・ロボス</a>や、ブラジルに滞在した<a href="/enc/dictionary/composer/milhaud/">ダリウス・ミヨー</a>に強い影響を与えました。彼は生涯に220曲ほどの作品を作曲していますが、そのうち91曲が、「ショーロ」というスタイルのブラジル風タンゴ（「タンゴ・ブラジレイロ」）です。<br />
　ナザレの強い影響を受けた、<a href="/enc/dictionary/composer/villa_lobos/">エイトル・ヴィラ＝ロボス</a>（1887-1959）においても、ヨーロッパ音楽の伝統とブラジルの民俗音楽の二つの要素が創作の原点になっています。<a href="/enc/dictionary/composer/villa_lobos/">ヴィラ＝ロボス</a>の作品では、「バキアナス・ブラジレイラス」、つまり「ブラジル風バッハ」が有名ですが、ヨーロッパの伝統を強く意識したこの作品の反面、彼はブラジルの民俗文化を共感を込めて作曲しています。14曲の「ショーロス」は、ナザレの「ショーロ」、つまりブラジル風タンゴです。ピアノ作品では、「赤ちゃんの一族」が有名です。この作品は、白人から黒人、東洋系までさまざまな人種が住むブラジルの現実を映し出しています。<a href="/enc/dictionary/composer/villa_lobos/005453.html">第1組曲</a>は、ブラジルに住むさまざまな肌の色の人を扱い、「小さな動物たち」と題された<a href="/enc/dictionary/composer/villa_lobos/005461.html">第2組曲</a>ではブラジルの自然を扱い、「遊戯」と題された第3組曲は文字通り、さまざまな踊りを表現しています。そのほか、「ブラジル民俗舞曲小品集」などの作品はブラジルの日常を描き出しています。彼の5曲のピアノ協奏曲はどれも難曲ぞろいで、ヨーロッパの伝統と彼の個性とブラジルの伝統の総合とみることができます。</p>
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    <title>１２　ピアノ音楽風土記　スペイン　その２</title>
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    <published>2009-07-24T06:45:02Z</published>
    <updated>2009-07-24T06:55:40Z</updated>

    <summary>アルベニス、グラナドスによって花開くスペインピアノ音楽</summary>
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        <name>admin</name>
        
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        <![CDATA[<p>　<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>のこのような作風は、スペインのその他の作曲家にも大きな影響を与えました。<a href="/enc/dictionary/composer/granados/">エンリケ･グラナドス</a>（1867-1916）は、スペイン情緒をより親しめる形で表現しました。彼の代表作はゴヤの絵に題材をとった<a href="/enc/dictionary/composer/granados/000086.html">「ゴイェスカス」</a>です。おそらく欧米の人々がスペイン情緒をもっとも感覚的に理解するのにもっとも貢献した作品といえるでしょう。この作品は最初はピアノのための組曲にまとめられ、その後同名のオペラに改作されました。</p>

<p>　「ゴイェスカス　恋するマホたち」　２部構成<br />
　　第1部　愛の言葉、窓辺の語らい、ともしびのファンダンゴ、嘆きあるいはマハと夜鳴きうぐいす<br />
　　第2部　愛と死、エピローグ、追加　わら人形　</p>

<p>　<a href="/enc/dictionary/composer/granados/000083.html">「スペイン舞曲集」</a>　１　メヌエット、２　オリエンタル、３　サラバンド、４　ビリャネスカ、５　アンダルーサ　祈り、６　ロンデーリャ・アラゴネーサ、７　アストゥリアーナ、８　バレンシアーナ、９マヅルカ、10　悲しい踊り、11　サンブラ、12　アラベスカ<br />
　この「スペイン舞曲集」はピアノ音楽としてももっとも親しまれているスペイン音楽に数えられます。スペインの大衆化した側面も示しており、第2曲「オリエンタル」は、この曲集でももっとも親しまれている作品ですが、「スペイン」は感傷的にオリエンタルと同化されています。第9曲「マヅルカ」はスペイン舞曲ではありません。それでも、スペイン各地の民俗表現を表現した曲集となっています。</p>

<p><a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>と<a href="/enc/dictionary/composer/granados/">グラナドス</a>のあとに登場したのが、<a href="/enc/dictionary/composer/falla/">マヌエル・デ・ファリャ</a>(1876-1946)です。<a href="/enc/dictionary/composer/falla/">ファリャ</a>はアンダルシア地方のカディスの出身で、カディスはフェニキア人の植民都市で知られています。彼はサルスエラの作曲を手がけ、オペラ「はかない人生」で認められました。<a href="/enc/dictionary/composer/falla/">ファリャ</a>は、バレエ音楽｢三角帽子｣や、オペラ｢ペドレル親方｣の作曲家として知られていますが、同時にスペインの音楽学者としての功績も残しています。彼は1939年、スペイン内戦の終結、すなわちフランコ政権の樹立を嫌ってアルゼンチンに移住しました。作品としては交響的印象「スペインの庭の夜」が有名です。彼もまたパリで<a href="/enc/dictionary/composer/debussy/">ドビュッシー</a>らの音楽家と交友を結び、<a href="/enc/dictionary/composer/debussy/">ドビュッシー</a>の死を悼んで「クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための賛歌」というギター作品を作曲しています。<br />
スペイン・ナショナリズムを明確に表明した作品は歌曲集「スペイン民謡集」で、１ムーア人の衣装、２ムルシア地方のセギディーリャ、３アストゥリアス地方の歌、４ホータ、５子守唄、６歌、７ポーロという構成になっています。これらの作品の中で「ポーロ」はアンダンルシア地方の民謡で、中庸な速度による、手拍子やカスタネットを用いる表現を特色としています。<br />
ピアノ作品では初期の「<a href="/enc/dictionary/composer/falla/008387.html">４つのスペイン小品</a>」（1908年作曲）や、「アンダルシア幻想曲」の名で知られる「<a href="/enc/dictionary/composer/falla/008391.html">ペティカ幻想曲</a>」（1919年作曲）があります。</p>
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    <title>１２　ピアノ音楽風土記　スペイン　その１</title>
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    <published>2009-07-14T01:43:57Z</published>
    <updated>2009-07-13T01:15:07Z</updated>

    <summary>アルベニスら、近代の作曲家登場以前のスペイン・ピアノ音楽事情</summary>
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        <name>admin</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/">
        <![CDATA[<p>　スペインのピアノ音楽史は、近年とみに注目を浴びるようになってきました。とくに19世紀末から20世紀前期にかけての<a href="/enc/dictionary/composer/granados/">グラナドス</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/falla/">ファリャ</a>という3人の作曲家だけではなく、ロドリーゴのピアノ作品のＣＤも話題を呼びました。<br />
　これら近代の作曲家が登場する以前のスペインのピアノ音楽事情はどうだったのでしょうか。18世紀前期においてはドメニコ・スカルラッティが活躍し、ピアノ音楽の先進的な役割を担ったスペインですが、その後の19世紀後半に至るまで、ホアン・クリソストモ・アリアーガ（1806-1826）にまさる作曲家は輩出していません。彼はパリでフェティスに師事し、瞬くまでに才能を開花させました。彼の弦楽四重奏曲はわが国でもＣＤ発売され、非常に大きな評判を呼びました。比類ない独創性と透明な書法は、ドイツロマン派に強く彩られることなく、<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>の古典主義がそのまま継承されたような印象を与えます。彼は交響曲や弦楽四重奏曲などを主要な作曲ジャンルとしていましたので、ピアノ作品はわずかに「３つの性格的練習曲」を数える程度ですが、十歳台にしてこれほどの才能を開花させた作曲家はこの時代に例を見ません。残念ながら彼は20歳で早世しています。そしてスペインはアリアーガを受け継ぐ才能を見出せませんでした。<br />
　スペインのピアノ音楽が本格的に開花するのは19世紀末から20世紀前期にかけて登場した<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/granados/">グラナドス</a>、<a href="/enc/dictionary/composer/falla/">ファリャ</a>を待たなければなりません。彼らを生んだ存在が、フェリプ・ペドレル・イ・サバテ（1841-1922）です。彼はスペイン・ルネサンスの巨匠ビクトリアの作品全集の編集刊行を手がけた音楽学者としても著名です。作曲家としてはほとんど名を残していませんが、彼が上に述べた3人の作曲家を育んだことそのことが、ペドレルの業績といっても過言ではありません。<br />
　スペインは、イスラムによる長い支配時代を経験し、また敬虔なカトリック信仰をもち、さらに、地域によって社会や文化が大きく異なることから、一つの国の文化として総括して述べることは難しい国です。<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>らの作曲家は、スペインのこの多様性を作品の中に生かそうとしていきました。<br />
イサーク･<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>（1860-1909）はカタルーニャ地方のカンプロドン出身です。彼の代表作「スペイン組曲」を例に、スペインのどのような地域を描き出しているのか見てみましょう。作品は次の8曲からなります。１　グラナダ、２　カタルーニャ、３　セビリャーナス、４　カディス、５　アストゥーリャの伝説、６　アラゴンのホータ、７　セギディーリャ、８　キューバ。第1曲のグラナダはアンダルシア地方、第2曲は文字通りカタルーニャ地方、第3曲のセビリャーナスはセビリアを描いています。第4曲のカディスは大西洋を臨むアンダルシア地方の港町です。第5曲のアストゥーリャは北のピスケー湾を臨むアストリアス地方を描いており、第6曲のアラゴンはピレネー山脈の南に位置する地域です。ホータはこのアラゴン地方の民族舞踊で、ギター、カスタネットとタンバリンを用いて急速な回転をするのを特徴としています。第7曲のセギディーリャは、アンダルシア地方の民族舞踊で、これもカスタネットやギターを用います。そして終曲はキューバです。作曲者はどうしてこのようにさまざまなスペインの地域を描き出しているのでしょうか。それはスペインのナショナリズムと密接な関連をもっています。それと同時に、スペイン国内の多様な音楽文化に対する意識がこの時期に高まりをみせていました。<br />
　<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/">アルベニス</a>のもう一つの代表作　<a href="/enc/dictionary/composer/albeniz/000043.html">組曲「イベリア」</a>ではどうでしょうか。全4集からなる作品集は次の曲目になっています。第1集　エボカシオン、エル・プエルト、セビーリャの聖体祭。第2集　ロンデーニャ、アルメリーア、トリアーナ。第3集　エル・アルバイシン　エル・ポロ、ラバビエース。第4集　マラガ　ヘレス　エリターニャ。<br />
　　この組曲の第1集で、「エボカシオン」は魂の呼び起こしの意味で、スペインの魂を呼び起こしているのでしょう。「エル・プエルト」は港を意味し、アンダルシア地方の港町カディスを指しています。セビーリャはアンダルシアの都です。第2集の「ロンデーニャ」はアンダルシア地方の民謡です。「アルメリーア」はアンダルシア地方東南部の地名で、「トリアーナ」はセビーリャのジプシー居住区を指しています。第3集の「エル・アルバイシン」はアンダルシア地方のグラナダにあるジプシー居住区のことです。「エル・ポロ」はアンダルシア地方の民謡で、「ラバビエース」はマドリッドの下町の名です。第4集の「マラガ」はアンダルシアの港町です。「ヘレス」はアンダルシアの町の名でフランメンコが盛んな地域です。「エリターニャ」はセビーリャ郊外のレストランの名です。</p>
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    <title>１１　ピアノ音楽風土記　　イタリア　　その３</title>
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    <published>2009-06-26T06:22:50Z</published>
    <updated>2009-06-30T06:41:25Z</updated>

    <summary>ドイツの影響を少しずつ受ける19世紀後半のイタリア音楽界</summary>
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        <name>admin</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/">
        <![CDATA[<p>　19世紀イタリアのピアノ音楽は、さまざまな意味でドイツ音楽の強い影響を受けざるを得なくなってきます。イタリアは確かにオペラの国で、ロッシーニやドニゼッティに始まり、脈々とオペラ文化は継承されていきます。しかし、そうした流れの中に、アルプスの北のオーストリアやドイツにおける器楽の影響から無縁でいることはできなくなってきます。</p>


<p>　オペラの国イタリアと、器楽の国オーストリア。この対比は18世紀末から19世紀前半の音楽の状況を考える上ではあながち極端な対比ではないでしょう。事実、ドイツ語圏の音楽では、なかなかオペラの本流と言うべき作曲様式が確立できていません。ウェーバーの「魔弾の射手」は大評判を取りましたが、この作品がすぐにオペラ創作の主流となったわけではありません。むしろ好まれたのは、グスタフ・アルバート・ロルツィンク（1801-1851）の、「ロシア皇帝と船大工」（1837年初演）のようなもっと軽妙な作風でした。</p>


<p>　一方、イタリアではオペラ一色に創作に次第に疑問を持つ作曲家も登場します。とくに、ピアノなど器楽に強い関心を持つ作曲家の中では、ソナタや変奏曲、あるいはフーガなどのさまざまな作曲形式に対する関心も高まっていきます。この傾向が高まるのは、19世紀も後半のことで、その背景には1859年のイタリア統一戦争や、その後の普仏戦争が何らかの影響を及ぼした可能性が考えられます。イタリアはオーストリアからの自国の独立を確立する上で、逆にオーストリア文化、さらにはプロイセン文化について意識せざるを得なくなっていったのです。</p>


<p>　そのなかで最初の重要なピアノ音楽作曲家が、ジョヴァンニ・スガンバーティ（1841-1914）です。彼はオペラ創作には背を向け、交響曲やピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、そしてピアノ作品に多大な勢力を傾注しました。彼の恩師はリストでした。これらの器楽作品の創作はリストからの影響抜きには語れません。しかし、ズガンバーティはリストだけではなく、改めてベートーヴェン移行のドイツ語圏の音楽にまなざしを向けてそれを創作に活かしていったのです。ズガンバーティのピアノ作品で創作が確認できるのは187３年以降の作品ですので、初期の習作は分かりませんが、「夜想曲」（作品３、c.1873）や、「前奏曲とフーガ」（作品６、c.1877）などが初期の作品に当ります。ピアノ曲の作品数はそれほど多くはありませんが、「組曲」（作品16．出版時には作品21）、「詩的な旋律」（作品29）などがあります。この後者の作品の刊行は1903年、ライプツィヒにおいてで、ドイツ音楽の影響とともに、遅咲きのロマン主義という感じもします。</p>


<p>　ズガンバーティに続くイタリアの器楽作曲家の巨匠はマルトゥッチです。ジュゼッペ・マルトゥッチも、他のイタリアの作曲家が専心するオペラには背を向け、器楽に専念した作曲家です。1856年に生まれて1909年に没したイタリアの作曲家で、1867年にナポリ音楽院に入学し、同音楽院でリストと競演したことで知られます。19世紀中ごろのヨーロッパ屈指のヴィルトゥオーソの一人タールベルクの弟子のチェジにピアノを師事し、彼はまずはピアノのヴィルトゥオーソとしてそのキャリアを確立しました。ピアノの奏者として活躍した後、彼の人生の転機となったのは1883年のヴァーグナーの死でした。マルトゥッチはヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイタリア初演を指揮しただけではなく、イタリアへのヴァーグナーの正当な導入者でもありました。しかし、彼はヴァーグナーだけに心酔していたわけではありません。ブラームスの音楽にも深く理解を示し、ブラームスのイタリア訪問時にはブラームスをその宿泊先に訪ねています。</p>

<p>　マルトゥッチのピアノ作品では、2曲のピアノ協奏曲がピアノ音楽の表現の点でも技巧の点でも秀でており、19世紀のヴィルトゥオーソ文化の継承者であることをはっきりと示しています。マルトゥッチのピアノ作品は、「ピアノソナタ」（作品34）のほか、「タランテラ」（作品44）、「ジガ」（作品61）、「舟歌」（作品64）、「２つの夜想曲」（作品70）などがありますが、「ジガ」などオーケストラ作品に編曲されている作品が多いのも特徴です。マルツゥッチのオーケストレーションはすぐれて情感にあふれ、時として官能的です。原曲は独唱とピアノのためのですが、その後オーケストラ伴奏用に編曲された「追憶の歌」のオーケストレーションはヴァーグナーの影響を感じさせるだけではなく、ドビュッシーをも予感させます。</p>


<p>　ピアニストとしての彼のレパートリーは、バッハやスカルラッティに始まり、特にシューマンやリスト、ショパンなどで、彼の作品における傾向と重なり合っているところがあり、バロック時代の表現とロマン派の性格小品の融合した姿が見られます。たしかに彼はリストやヴァーグナーから示唆を受けましたが、同時にブラームスをも深く敬愛し、ブラームスのイタリア旅行に際しては、彼と面会して、相互に意気投合しています。しかし、彼の音楽からはブラームスの語法はそれほど強くは感じられません。</p>


<p>　マルトゥッチのもう一つの顔はドビュッシーの理解者および受容者としての顔です。1888年に初演された「追憶の歌」にもすでに示されておりますが、語法的には共通する側面をもっています。そしてマルトゥッチは1908年、ナポリでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を指揮しており、これはこの作品のイタリア初演です。当時、イタリアではドビュッシーもこの作品もほとんどなじみがなく、この面でも開拓者としての役割を担いました。彼はイタイア・ロマン主義を代表する作曲家といっても過言ではありません。なお、レスピーギは若き時代にマルトゥッチに師事しています。</p>]]>
        
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    <title>１１　ピアノ音楽風土記　　イタリア　　その２</title>
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    <published>2009-06-19T03:28:52Z</published>
    <updated>2009-06-19T04:27:06Z</updated>

    <summary>器楽分野で意外にも（？）活躍していたあの人</summary>
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        <![CDATA[<p>　<a href="/enc/dictionary/composer/cimarosa/">チマローザ</a>の後のイタリアのピアノ作品の作曲家は<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ガエターノ・ドニゼッティ</a>（1797-1848）でしょう。<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>は1792年生まれで彼よりも先輩になりますが、ピアノ音楽の作曲では<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>のほうが先んじています。後述のように、<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>が「老年のいたずら」を作曲するのは、1857-68年の彼の晩年期に当るからです。<br />
　器楽作曲家としての<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>はもっと注目されてしかるべきです。<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>と同様、19世紀前期のイタリアでは、<a href="/enc/dictionary/composer/haydn/">ハイドン</a>と<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>受容がとても重要な意味を持っていました。それは<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>の初期の作品、「弦楽のためのソナタオペラ」に端的に示されています。編成はヴァイオリン２、チェロ、コントラバスという編成で、弦楽合奏の形でよく演奏されます。1804年作曲のこの作品集の透明な書法と形式感は、<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>がウィーン古典派、とりわけ<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>の後継者の一人であったことを示しています。さらに「アルジェのイタリア女」（1813年初演）では、<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>の「魔笛」から明らかに借用した旋律が含まれているだけではなく、この作品のプロットは「後宮からの誘拐」の焼き直しのようでもあります。また、代表作「セビリアの理髪師」（1816年初演）は、<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>の「フィガロの結婚」の物語の前半部分を題材にしています。もっとも、<a href="/enc/dictionary/composer/paisiello/">パイジェッロ</a>も1782年に「セビリアの理髪師」を作曲して、ペテルブルクで上演しています。<br />
　<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>の初期の創作は器楽作品に当てられています。彼こそ19世紀前半におけるイタリアの最大の器楽作品の作曲家と言ってもよいでしょう。そして彼の模範はウィーン古典派でした。というのは、彼がベルガモの聖マリア・マッジョーレ大聖堂聖歌隊学校で師事したのは、ジーモン・マイヤー（シモン・マイル　1763-1845）で、彼はバイエルン出身の音楽家で、彼はベルガモに<a href="/enc/dictionary/composer/haydn/">ハイドン</a>や<a href="/enc/dictionary/composer/mozart_a/">モーツァルト</a>の弦楽四重奏曲をもたらし、<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>もその一員として演奏に参加して、その書法を身につけます。彼は1817年から1836年までの期間に19曲の弦楽四重奏曲を作曲していますが、その表現語法はウィーン古典派からの影響が著しく、一部はベートーヴェンからの影響も見られます。この室内楽創作の経験は、オペラの序曲の作曲に活かされることになります。<br />
　ピアノ音楽の分野でも<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>は19世紀前期のイタリアの作曲家ではもっとも重要です。1813年に作曲した「<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/011657.html">パストラーレ</a>」や、「シンフォニア」と題されたピアノ独奏曲が作曲されています（<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/donizetti/011658.html">イ長調</a>、<a href="http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/donizetti/011659.html">ハ長調</a>）。一連のピアノ作品の中で注目しなければならないのは、ピアノソナタと変奏曲でしょう。<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>は、数曲のピアノ独奏のための変奏曲を作曲していますが、19世紀の少なくとも前半のイタリアで、変奏曲を手がけた作曲家は彼以外にどれほどいるでしょうか。そしてピアノソナタです。イタリアのピアニスト、ブルーノ・カニーノが紹介して<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>のピアノソナタは一躍知られるようになりました。<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>のピアノソナタは、連弾用の作品がメインで、少なくとも７曲の作品が確認できる。草稿で残された作品などが明らかになれば、作品数はさらに多くなるものと思われます。彼のソナタは、19世紀前期を風靡したロマン主義の傾向からはまったく離れて、たしかに時代遅れの古典派の亜流にしか聞こえないとしても仕方がないでしょう。それは、ベルガモにおける一つの文化と考えなければならないでしょう。このような形で、<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>を通して、弦楽四重奏曲やピアノ音楽の創作が精力的に行われていたことはもっと注目されてよいと思います。弦楽四重奏曲は、全曲の演奏ＣＤが発売されていますが、作品はなかなかの高水準です。<br />
　年代的には<a href="/enc/dictionary/composer/donizetti/">ドニゼッティ</a>よりも先輩になりますが、<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>は晩年、「老年のいたずら」と題した13巻とそのほかの小品からなる作品集のなかで、ピアノ音楽を何曲か作曲しています。そこにはピアノソナタや変奏曲といった肩苦しい作品はなく、「私の最後の旅のための思い出と行進曲」や、「オッフェンバック風小カプリッチョ」といった、軽妙な表題の作品が並んでいます。この作品集自体、1848年の革命と独立蜂起やイタリア独立戦争などの大波乱を経験した<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>一流の、一部政治的な意味を込めた処世術のようにも見えます。晩年の<a href="/enc/dictionary/composer/rossini/">ロッシーニ</a>は、これらの独立運動からの軋轢、フランス政府との法的な軋轢、有名人であるからこそ生じる駆け引きなどの、さまざまな煩わしさから超越した、自由で自在な表現をこれらのピアノ作品に託したのでしょう。</p>]]>
        
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