第16回 スタッカートの意味をめぐって

第16回 スタッカートの意味をめぐって

2007/07/18 | コメント(0)  | トラックバック(0)  | 

 スタッカートについて、考えたい。
 ブラームスの親友であったことでも知られる名ヴァイオリニスト ヨーゼフ・ヨアヒム は、かつて、「われわれは雨のスタッカート、雪のスタッカート、雹のスタッカート を区別しなければならない」と述べた。この言葉は、特に、ピアノ音楽と楽器の関係 においても、極めて意味深い。

 チェンバロの時代、特にフランスでは、イネガル(不均等)な奏法が好まれた。これは、使う状況と、そのやり方が厳密に規定されていた。たとえば、4分の4拍子のアレグロの曲では、16部音符の順次進行の楽区において、この方法が許される。実際 にどうするかというと、音符を二つずつのペアーにして、表を少し長く、裏を短くする。あるいは、単に重い軽いの差をつける。また、音符のペアーは、四つずつにして、どれかの音符に力点を置いてもいい。それをどのぐらい不均等にするかというのは、その曲、あるいは、部分の表現の強さによって変わる。激しい、濃厚な表現になるほど、より不均等さが増す、というわけだ。この方法は、フランスだけでなく、各国の音楽にそれぞれ、若干異なった在りようで、習慣的に使われていた。したがって、時に作曲家は、「ここでは不均等に弾かず、各音を均等に弾いてくれ」という指示を楽譜に書き込まなければならなかった。そういうときには、Marqueと書くか、それぞれの音符に点が付された。だから、このような場合の点は、短く切る、という意味ではなかった。しかし、均等さを強調するためには、それぞれの音を少しずつ切って弾くのがいい。モーツァルト時代の理論化デュルクも、「いわゆる普通の、何も特別なことのないところでは、音と音とに僅かな間をあけて弾きなさい」と述べている。 というわけで、これが徐々にスタッカートの意味に繋がっていくのである。

 その後、スタッカートを表すさまざまな記号が考案された。縦線や楔(クサビ)形の記 号である。これらの示す内容は、状況によってまったく異なる。普通の均等奏法より も目だって短く弾いてくれ、という意味で縦線が使われたり、フレーズの切れ目を表 すために点や楔形が用いられることもあった。感嘆符に相当するような、つまり、び っくりさせるような音に楔形がつけられたりもする。これらの目的を達するには、場 合によって、うんと短く弾いた方がいいときもあるし、逆に、かなり長めに弾いて、 それをばさっと切る、という弾き方がいいときもある。

 1787年4月、若きベートーヴェンが生地ボンからウィーンにやってきて、晩年のモーツァルトの演奏を聴いたことがあった。あわよくば弟子になろうと思っていたのかも知れない。しかし、ベートーヴェンは、モーツァルトの演奏に、何か肯けないものを感じた。「彼の速球演奏見事でしたが、音と音が途切れていて、レガートになっていませんでした」という意味のことを書き残している。
 このことを理解するのに、モーツァルトの愛用したピアノと、ベートーヴェンのそれを比較してみるといいかも知れない。ベートーヴェンが後に使ったブロードウッドなどが典型的だが、ダンパーが意図的に小さく設計されていて、音を切ろうとしても余韻が残ってしまう。この点、モーツァルトが使ったワルター・ピアノでは、ダンパーは十分に大きく、鍵盤を上げると、音は完全に切れる。モーツァルトはピアノのこの機能を愛していた。「鍵盤を上げても音が残ってしまう、というようなことが、このシュタイン・ピアノではまったくないのです」と、ワルター・ピアノに出会う数年前、1777年に書いている。

 しかし、われわれはこのことから早急に、モーツァルトはスタッカートを好み、ベートーヴェンはレガートを好んだ、などと短絡してはなるまい。確かに、楽器というものは、音楽家の要求で変わってくるものであるから、ベートーヴェンは、レガートの表現を望んだことは間違いない。モーツァルトの自筆譜を見ると、実に多くの縦線や楔形記号が、丹念に書き分けられていることに驚かされる。モーツァルトは確かに、千変万化のスタッカートを弾き分けたのに相違ない。ベートーヴェンは、ある意味でその間口を広げ、レガート方向にも可能性を見出した、ということだろう。結果として、ベートーヴェンの演奏はかなり大味なものになったかも知れないが、その分、シンフォニックなピアニズムが拡大した。
 興味深いことに、これと同じ推移は、クララ・シューマンとブラームスの間にも起こった。ブラームスはしばしば、クララの娘たちのピアノ・レッスンをしていたが、その娘の一人が書き残しているところによれば、クララが軽いスタッカートで弾くところを、ブラームスはレガートで弾かせた、というのである。
 ひとつの楽器が生まれ、育ち、いつしか滅びていく、その歴史を見ると、不思議な共通点があることが分かる。最初はその音は訥々としてすぐに減衰する。この段階で は、あたかも言葉を語っているような演奏が好まれる。その後、楽器は「改良」され、よりダイナミックで、音量も大きく、音も長く保持できるような楽器へと変貌する。
 それにつれて、オーケストラや合唱を髣髴させるサウンドが求められるようになる。かつて、チェンバロもそのような軌跡を辿った。リュートからギターへの一連の変化も、これに似ていた。オルガンですら、最初、人力のフイゴを何十個も必要としてい たころには、音を安定持続させることが難しかった。
 しかし、この変化は、決して1方向の改良ではなかった。得るものがあれば、失うものもある。ワルター・ピアノやブロードウッド・ピアノは、それぞれに、他では代えがたい美点を持っていた。それは、初期フレミッシュのチェンバロや、ルネッサンス・リュートの場合と同じである。

 雨のスタッカート、雪のスタッカート、雹のスタッカートを使い分けること、それ は、われわれがどのような楽器を弾いていても、常に配慮せねばならないことではな いだろうか。


武久 源造

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