バレンボイム・メーン・スタインウェイ(執筆者:岡田安樹浩)

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2015/08/13
バレンボイム・メーン・スタインウェイ
岡田安樹浩

2015年5月末、ピアニスト・指揮者のダニエル・バレンボイムが「新方式のピアノ」をお披露目したというニュースが音楽界を駆け巡った。彼のコンセプトに基づいて、ピアノ製造家のクリス・メーンがスタインウェイ社製のDモデルを基本として製作したこの新楽器、通称「バレンボイム・メーン・スタインウェイ」(以下では「バレンボイム・ピアノ」と呼ぼう)は、通常のグランドピアノでは上下に交差している低音域と中音域の弦を縦に平行させて張られている。それだけでなく、鍵盤の幅もバレンボイムの手にあわせて狭く作られているという。しかし、この件に関する日本の新聞・雑誌記事の大半は、平行弦方式の採用によって音がクリアになった、と伝えるにとどまっている。

ところで、少しでもピアノの歴史にあかるい者ならば、現代のグランドピアノの構造は19世紀末にスタインウェイ社によって確立されたのであって、弦を平行に張る構造のほうがかつては一般的であった、という事実を思い起こすだろう。実際バレンボイムは、この構造的な「改善」を、フランツ・リストが使用していたピアノに関するプロジェクトにかかわった際に着想したという。つまり、バレンボイムとメーンのプロジェクトは、ピアノという楽器に本来の姿を取り戻させたと言い換えることもできるのである。では、現代のピアノと19世紀のピアノとのこの出会いは、どのような結果を生んだのだろうか?

この「バレンボイム・ピアノ」を、バレンボイムのすすめで弾いた経験をもつベルリン在住のピアニスト、仁上亜希子氏に、実際に演奏してみた感触や感想を伺ったところ、「プレイエルやエラールのような19世紀のピアノを弾いたときの感覚に似た不思議な感じがして戸惑った」という興味深い答えが返ってきた。すべての弦を平行に張ることで得られる音響には親近性がある、と考えて良さそうだ。また仁上氏によれば、演奏中はあまり音が響いていないように感じていたそうなのだが、少し離れて聴いていたバレンボイムは十分に鳴っている、と言ったという。どうやらこの楽器は、演奏者が感じているよりも遠くでより豊かに音が鳴り響くようである。

バレンボイムはBBCのインタビューの中で、リストが彼の弟子に「四つの音からなる和音を弾く場合、どの音も異なる響きをもっていなくてはならない」と言ったという言葉を引用し、このピアノならそれが可能なのだと語っている。だが、この楽器のあまりに「クリアな響き」は、現代の演奏者には驚きと戸惑いを与えるようだ。

しかしこれは、当然の結果とも言えよう。いうまでもなく、現代の音楽家の耳は、弦が交差して張られたピアノによって育まれている。そしてピアニストの身体は、この構造体を如何にしてより良く鳴り響かせることができるか、という課題と常に対峙してきた。従って私たちの耳も身体も、まだこの新しい楽器に対応できていないのである。

最近ベルリンで開催された演奏会で、バレンボイムが弾くこのピアノの響きを体験した音楽家たちに取材したところ、異口同音に「音がキツすぎる」という声が聞かれた。おそらく、中低音域の響きがクリアとなったことと引き換えに、すべての音が独立して聴こえすぎてしまい、結果として音同士が混ざり合わず、衝突してしまっているのであろう。「新方式のピアノ」には、それにふさわしい奏法の習得が必要というわけだ。

歴史的に見れば、音楽家たちはこの種の問題を幾度も乗り越えてきた。ある楽器に新機軸がもたらされたとき、それにふさわしい奏法の模索と確立には長い年月を要したし、昨今の古楽器の復興においても、演奏家の習熟に相当の時間を要したが、彼らは地道な努力によってその課題を克服してきたのである。

ただ、この「バレンボイム・ピアノ」に関しては、状況が少し異なる。何よりもこの楽器は、バレンボイム個人のために作られた楽器であり、それ自体にはあまり汎用性があるとはいえない。また、この新方式を普及させるためには、ピアノ・メーカーの多大な協力が必要となるが、ピアノの販売台数が伸び悩み、世界的メーカーまでもが買収される現状を見る限り、そうした協力を得るのは容易ではないだろう。

バレンボイムはこの「バレンボイム・ピアノ」を発表することで、音楽界にこの新方式を普及させるべきだ、と訴えているのだろうか。おそらくそれだけではあるまい。むしろ彼は、この楽器の製作と公表を通じて、ピアノの音色や響きに対して感覚が麻痺している私たちの耳へ警鐘を鳴らすと同時に、固定化された構造に対して何の疑問も持たなかった音楽家たちに問いかけているのではないだろうか。「何もしなくてよいのか?」と。


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