海外の音楽教育ライブリポート/菅野恵理子

コモ湖国際ピアノアカデミー ・国際コンクール優勝者が研鑽する場

2011/08/14
イタリア

コモ湖国際ピアノアカデミー
~国際コンクール優勝者がさらに研鑽を積む場

イタリア北部に位置するコモ湖。朝日が映る煌めく湖面、夕暮れ時の薄闇に浮かび上がる稜線、一日に何度も違った表情を見せるコモ湖は、昔から多くの芸術家に愛されてきた。リストとマリー・ダグー夫人の次女コジマ(後のリヒャルト・ワーグナー夫人)が生まれたのもこの地である。コモ湖一帯は古い街並みが多く、道は車一台通るのがやっと、というほど道が細く曲がりくねっている。だからこそ、ここに来ると特別な旅情気分をそそられる。

コモ湖アカデミーはコモ湖北部の街ドンゴにて、2002年に始まった。創立メンバーは、主宰ウィリアム・グランド・ナボレ、フー・ツォン、アリシア・デ・ラローチャ、ウラディミール・バシュキロフ、シュナーベル等錚々たるアーティスト各氏である。受講生も名だたる国際コンクール優勝者や上位入賞者が名を連ねている。最近ではユリアンナ・アヴデーエヴァ(2010ショパン国際コンクール優勝)、デニス・コジュヒン(2010エリザベト王妃国際コンクール優勝)等を輩出した。彼らはコンクール優勝後も時折ここに戻ってきては研鑽を積む。才能ある生徒がコモ湖に集まるのは何故か?そして、彼らは何を学んでいるのだろうか?今春コモ湖で行われたマスタークラスへお邪魔した。

フー・ツォン氏のレッスン~アーティストとしての鋭いアプローチ

コモ湖アカデミー前で記念写真

この日はフー・ツォンを講師に迎えての特別マスタークラス。「話すように音楽を奏でること」というフー・ツォンが重視するのは、音楽の背景にある心の動きである。まず曲がどのように始まり、どのようにストーリーが発展するのか。その背景にはどんな心理の変化があるのか。1小節1小節を追いながら弾くのではなく、全体構成をつかみ、それに沿って音量や音色、テンポ、休符の配分を考えることから、おのずと心理の動きを掴むことができる。フー・ツォンが実際に弾いてみせる音には説得力がある。「そこは運命を感じて!」「作曲家のメッセージを弱めないこと」「作曲家は理性的ではない。彼らは天才なのですよ!だから理性のレベルに落とさないこと」という言葉も印象的だった。

この日はフー・ツォンとユリアンナ・アヴデーエヴァのマスタークラスも組まれていた。アヴデーエヴァは昨年10月のショパン国際コンクール優勝から4か月半の間に、二度来日しNHK交響楽団との共演や入賞者記念コンサートに出演、また優勝記念リサイタルで世界中を巡る多忙な毎日を送る。ショパンコンクール優勝者という重い肩書を背負う彼女が、コモ湖の奥地に姿を見せた。「よく来てくれたね」と温かい笑顔で迎え入れるフー・ツォン。今回アブデーエヴァが準備した曲はショパンのマズルカop.33、協奏曲第2番、リスト晩年の作品で、いずれもコンクール後初めて取り組んだ作品だそうだ。


様々なインスピレーションを与えるフー・ツォン。アヴデーエヴァのショパン演奏に感心。

この時のフー・ツォンの指導は、アーティストとしての彼の姿が現れていて興味深いものであった。リスト「悲しみのゴンドラ」第2番はフー・ツォン自身も初めて指導するという。楽譜を見て「これはとても興味深い作品だね。ではちょっと聞かせてもらいましょうか」といい、アヴデーエヴァ入魂の演奏の後、「この曲は美しい、信じられないほど美しい曲だ!」と何度も繰り返し感動を伝え、それからおもむろに曲の指導に入った。「冒頭に"Mesto"とあるけど、これは昨日弾いたショパンのマズルカop.33-1のMestoと同じような雰囲気かな。でも、悲しいだけではないね。ちょっと君(聴講者)、君はハンガリー出身だったね。タイトルの言葉はどういう意味だと思う?」「先生、これは悼む、弔うという意味だと思います」。という具合に、受講生や聴講者に語りかけながら、その曲のエッセンスを解き明かしていく。その時もやはり、背景にある心理の変化を意識し、半音階の微妙な響きの変化も音色に反映させていく。
良い演奏であればストレートに感動を伝え、未知の曲であっても一瞬にして曲の真髄をつかむ。その研ぎ澄まされたシンプルさが、何とも力強い。
フー・ツォンは「ここではピアノの演奏法ではなく、音楽とは何であるか、音楽に秘められた真実とは何かを、生徒と共にディスカッションします。そのためには音楽的に成熟していて、かつ様々な意見を受け止め、自分で選び取る力が必要です。我々を説得するくらいの気迫があっていいのですよ」と語っている。

ウィリアム・ナボレ氏のレッスン~読解力をみっちり鍛える

幅広い知識を持つウィリアム・ナボレ先生。今夏コンペ&福田靖子賞審査で来日予定。

同アカデミー主宰のウィリアム・グラント・ナボレ先生のマスタークラスは、的確に楽譜を読み込み、そこから音楽を創り上げていく。この日の生徒はハンガリー出身のファルカス・ガボール。例えばシューマン協奏曲では「音符・記号の全てをよく見て」「この左手伴奏にはワルツのリズムが隠れている。それを上手く生かすように」、またハイドンのソナタでは「沈黙は次に何かが起こると予感させる瞬間。シュナーベルは誰よりも休符をうまく弾けると言っていましたよ」「カデンツァは想像力を働かせる部分、次までに自分でカデンツァを書いてくること」「このモチーフは何を意味すると思いますか」、ブラームスop.117-1では「何を動機にして書いたのか」などと質問しながら、生徒自身で考えさせる。粗筋を要約したり、重要なフレーズを抜き出したりと、読解力を高めるための思考トレーニングのようである。"Practice intelligently, convince musically"というメッセージが心に響く。

自然の音に溢れる場で、じっくり物を考える
20110306_lakecomo.jpg
この景色に古今東西のアーティストは魅了される。リストとマリー・ダグー夫人もコモ湖に住んでいた。

二人のマスタークラスを見学中、ふと窓の外に見えるコモ湖に視線を移した。穏やかに水を湛えるコモ湖、ゆるやかな稜線を描く山、静かな湖面は光によって一日に何度も表情を変える。ここには余計なものがない。人がいて、暮らしがあって、自然があって、美しいコモ湖がある。それだけだ。その時ふと頭をよぎったのは、「休符も音楽の一部」という二人の言葉だった。

コモ湖の生活も、まさに「休符」なのかもしれない。ここには雑音がないのに、自然の音に満ち溢れている。それはまるで、音が途切れる瞬間なのに音楽に満ち溢れている休符と同じだ。自然の奏でるリズムにゆっくり呼吸を合わせ、コモ湖の雄大な夕暮れを眺めながら、素晴らしいアーティスト達とふれあうのは豊穣の時間だろう。ディミトリ―・バシュキロフ先生が言うように「生徒だけでなく、アーティストがインスピレーションを得る場」でもある。

取材・文◎菅野恵理子

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菅野 恵理子(すがのえりこ)

音楽ジャーナリストとして各国を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を長期連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる~21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』(アルテスパブリッシング・2015年)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア・2013年)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て現職。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。 ホームページ:http://www.erikosugano.com/

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