脳と身体の教科書

第08回 「力み」を正しく理解する (2)筋肉の疲労

2010/07/23
「力み」を正しく理解する (2)筋肉の疲労

ピアノを練習していると、手や腕が「だるい、疲れた」と感じることがあります。特に、力んだまま弾いていると、筋肉はすぐに疲労してしまいます。このように、私たちがピアノを弾く中で日常的に使う「疲労」という言葉ですが、筋肉が疲労したとき、脳や身体の中でどんなことが起こっているのでしょうか?

筋疲労のメカニズム

筋肉の疲労(筋疲労)には、様々な定義がありますが、その中でも最も直感的に理解しやすいものは、「筋肉が発揮できる最大の力が低下すること」でしょう。練習するにつれ、演奏できる最速のテンポや最大の音量が低下することがありますが、これが筋疲労です。

筋疲労が起こる原因は、大別すると二つあります。一つ目は、筋肉を収縮させるエネルギー源である酸素および糖が十分に筋肉に供給されないため、筋力が発揮できなくなるというものです。しかし、いつ疲労が起こるかは、筋肉の種類によって異なります。筋肉には、「疲労しやすいけれど、大きな力を出せる筋肉(速筋)」と、「疲労しにくいけれど、大きな力は出せない筋肉(遅筋)」があります(1)。疲労に伴い、速筋が先に力を発揮できなくなっていき、その後、遅筋も力を発揮できなくなります。自分の限界以上の速さで難しい曲を弾いていると、数秒から数十秒ほどでテンポが落ちていきますが、これは速筋の疲労によるものと言えるでしょう。

筋疲労の原因の二つ目は、脳にあります。筋肉に指令を送る脳の細胞も、糖をエネルギー源として働いているので、疲労します。具体的には、一秒間に筋肉に送る指令のペース(頻度)が低下し、その結果、発揮できる筋力は低下します(2)。なお、脳の疲労は、筋肉との関係のみに限らず起こることで、思考能力の低下や認知・感覚機能の低下などとも関係しています。

ちなみに、筋疲労は筋肉に乳酸が蓄積することによって起こると一昔前まで信じられていました。確かに、疲労に伴い、乳酸の生成は増えるのですが、現在では、それが本当に筋疲労を促進するものなのか、明確な答えは出ておらず、懐疑的な見方も強まっています。

練習との関連

さて、筋肉が疲労すると、ピアノを弾く上で何が問題になるのでしょうか?一つ目は、発揮できる力の正確性が落ちます(3)。ですから、音の粒がばらついたり、ミスタッチが増えたりして、音楽の芸術性が損なわれてしまいます。

二つ目は、普段使っていない筋肉を使って、演奏することになります。どういうことかといいますと、ある筋肉が疲労すると、その他の筋肉がそれを補おうとして働くことが知られています(4)。そのまま練習を続けると、その「普段使わない筋肉」を使って弾き続けることになります。そうした普段とは違う筋肉の使い方で、仮にあるパッセージが弾けるようになったとして、果たして本当に弾けるようになったと言えるのでしょうか?

実際のピアノ演奏と筋疲労の関係を調べた研究はありませんので、答えはわかりませんが、少なくとも、「筋肉が疲労すると、脳は別の身体の使い方をする」という現象は、様々な運動で数多く報告されている事実であり、それは、疲労に対する脳の「一時しのぎの策」と考えられています。そんな身体の使い方を頑張って身につける利点は、どこにも見当たりません。にもかかわらず、筋肉が疲労したまま、我慢をして練習し続けるということは、普段使わない身体の使い方を習得しようとしていることに他なりません。大袈裟に言うと、「変な弾き方の癖がつく」可能性さえあるのです。

筋疲労の問題点の三つ目は、手や腕を傷めてしまうリスクが高まるということです。筋肉が疲労すると、運動の正確さが落ちるとお話しました。しかし、それでも正確に演奏し続けようとすると、脳は筋肉を同時収縮させる必要があります(前章参照)。疲れた状態で弾いている時に筋肉が硬くなっているのはこのせいです。同時収縮によって筋肉が硬くなると、筋肉に供給される血流が阻害されるので、筋肉はエネルギー不足になっていきます。そうして、疲労はさらに促進されていきます。

筋肉が疲労するということは、言い換えると休息が必要であるということです。しかし、その警告を無視して弾き続けると、どうなるのでしょうか?実は、筋疲労に伴い、筋肉の中にある感覚器(センサー)の感度が鈍っていくため、私たちは筋肉にどれだけ力が入っているか気づきにくくなっていきます(5)。つまり、筋肉からの警告がどんどん聞こえなくなっていくのです。結果、知らぬ間に筋肉やその周りの腱が炎症を起こしたり、その筋に指令を送る脳に障害が発症するリスクが高まります。

筋肉が疲れた状態で練習を続けることは、美徳でも何でもなく、百害あって一利なしです。「疲れたから休む」というのは、決して練習をサボることではなく、自分を守り、効果的に上達するために必要なプロセスです。音だけでなく、自分の身体の声もよく聴いて、練習に取り組んでいただきたいと思います。



【脚注】
(1)
速筋と遅筋の両方の性質を備えた「中間筋」の存在も報告されています。なお、トレーニングによって、速筋と遅筋の割合も多少は変化すると言われています。
* Lai CJ, Chan RC, Yang TF, Penn IW (2008) EMG changes during graded isometric exercise in pianists: comparison with non-musicians. J Chin Med Assoc
(2)
* Gandevia SC (2001) Spinal and supraspinal factors in human muscle fatigue. Physiol Rev
* Taylor JL, Gandevia SC (2008) A comparison of central aspects of fatigue in submaximal and maximal voluntary contractions. J Appl Physiol
しかし、脳や筋肉の中での疲労が、いつ、どの程度起こるかは、どんな運動をするか(運動の強度、持続時間、用いられる筋肉など)に依存します。
* Maluf KS and Enoka RM (2005) Task failure during fatiguing contractions performed by humans. J Appl Physiol
* Enoka RM and Duchateau J (2008) Muscle fatigue: what, why and how it influences muscle function. J Physiol
(3)
* Missenard O, Mottet D, Perrey S (2008) Muscular fatigue increases signal-dependent noise during isometric force production. Neurosci Lett
(4)
ある疲労が疲労すると、それを補おうと、同じ関節を動かす別の筋肉(協働筋)が働いたり、他の関節が使われ始めたりすることが知られています。これは、身体の冗長性によるものです(第03回参照)。
* Cote JN, Feldman AG, Mathieu PA, Levin MF (2008) Effects of fatigue on intermuscular coordination during repetitive hammering. Motor Control
* Danion F, Latash ML, Li ZM, Zatsiorsky VM (2000) The effect of fatigue on multifinger co-ordination in force production tasks in humans. J Physiol
* Huffenus AF, Amarantini D, Forestier N (2006) Effects of distal and proximal arm muscles fatigue on multi-joint movement organization. Exp Brain Res
(5)
* Myers JB, Guskiewicz KM, Schneider RA, Prentice WE (1999) Proprioception and neuromuscular control of the shoulder after muscle fatigue. J Athl Train
* Pedersen J, Lönn J, Hellström F, Djupsjöbacka M, Johansson H (1999) Localized muscle fatigue decreases the acuity of the movement sense in the human shoulder. Med Sci Sports Exerc

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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