脳と身体の教科書

第05回 身体が動く仕組み (4)指を速く動かす脳の仕組み

2010/04/28
身体が動く仕組み (4)指を速く動かす脳の仕組み

前回は、指が独立に動かない理由を、脳、神経、筋肉の観点からお話しました。今回は、指を速く動かす脳の仕組みについて、ごく簡単に概要をお話します。

数百年も昔から現在に至るまで、数多くの人たちが、ピアニストの卓越した指さばきに魅了されてきました。これは聴衆に限らず、演奏家や指導者、果ては科学者もが、ピアニストの指の動きの神秘に様々な思いを抱いてきたのではないでしょうか。しかし、その神秘のヴェールが科学的に解き明かされ始めたのは、1990年代に入ってからになります(1)

私たちの頭の頂点より少し前のあたりには、指の筋肉に指令を送る神経細胞がたくさんあります。これらが活動すれば、指の筋肉に電気が送られて、筋肉は縮み、指が曲がったり伸びたりします。MRIやPETといった脳画像診断技術を使った研究によると、指を速く動かそうとすると、より多くの神経細胞が活動することが報告されています。つまり、『指を動かす細胞が集まって力を合わせることで、指を速く動かすことができる』ということです。

指を速く動かすことができるピアニストは、専門的な音楽訓練を受けたことの無い人に比べて、この指を動かす神経細胞が多いことが報告されています。また、力や運動のタイミングの調節に関連している、後頭部のやや下あたりにある脳部位(小脳)の神経細胞も、ピアニストの方が多いことが知られています。さらに、これらの細胞の数は、「何歳からピアノを始めたか」、「毎日何時間練習したか」に比例するようです。つまり、早くからピアノを習い始めた人や、毎日の練習時間が長い人ほど、この指の動きに関連する神経細胞が多いということです。

また、5本の指を最速の速さで動かしているときの脳の働きをMRIを使って計測した研究によると、音楽訓練を受けたことの無い人に比べて、指を素早く動かせるピアニストの方が、より多くの神経細胞が活動していることがわかりました。また、ピアニストも、練習によって指をより速く動かせるようになるにつれて、活動する神経細胞の数が増えていくことも報告されています。以上をまとめますと、指を速く動かすためには、指を動かすための神経細胞がたくさん必要だと言えそうです。(2)

こうお話すると、ピアノの先生方や親御さんは、「うちの子、早くピアノを習わせないと!」「もっと練習させないと」と思われるかもしれません。それらはもちろんとても素晴らしいことなのですが、子供さんや生徒さんのピアノに対する姿勢やモチベーションはどうでしょうか?別の章で取り上げますが、間違った練習をたくさんすれば、より下手になり、手を傷めるリスクも増えますし、モチベーションが低ければ、練習が脳に及ぼす効果が弱まることも知られています。これらのリスクも知った上で、子供さん、生徒さんに合った練習プログラムを組み立てていただきたいと思います。

さて、ここまでお話したことは、練習が脳の形態的な側面(大きさ)におよぼす影響ですが、指を動かせるようになるにつれて、脳の"機能"も変わっています。どういうことかといいますと、例えば、速く弾くためには、複数の指同士を独立に動かせることが必要です。前回、指同士の動きがつられてしまうのは、脳の問題だというお話をしましたが、それを思い出していただければ、指同士を独立して動かすには、個々の指の筋肉に送る脳からの指令が変化することが必要であるとわかります。

また、速く弾けるようになると、弾き方、すなわち身体の使い方も変わります。弾き方が変わるということは、脳からそれぞれの筋肉へ送られる指令の量やタイミング、割合などが変化するということです。この「速く弾くための身体運動制御の仕組み」については、オクターブやトレモロの連打、アルペジオを対象とした研究を現在メインに行なっておりますので、成果がまとまり次第、追ってお話させていただきます。

最後に、ピアノの世界でよく言われている通説について考えてみたいと思います。「私は指が弱いから、指が速く動かない」、という話をよく耳にします。実際、自分自身も昔はそう思っていました。しかし、指の筋力と指を動かす速さとの間には相関がないことは既に実証されていますし(3)、今回ご紹介した研究成果は、むしろ指を動かす速さと脳との関係を裏付けるものです。したがって、必ずしも「指の筋力が強い=指が速く動かせる」というわけではなさそうです。



【脚注】
(1)
初めてピアニストの演奏時の脳機能計測を行なったのは、私の知る限り、1992年に発表されたSergentらによるPETを使った研究です。(Sergent et al. 1992 Science)。
(2)
ピアニストの脳の形態や機能を調べた研究は、現在数多く報告されています。以下の解説論文の特に前半部分に、その詳細および参考文献の一部をまとめておりますので、僭越ながらご紹介させていただきます。
"古屋晋一(2009)ピアニストの身体運動制御 - 音楽演奏科学の提案.システム/制御/情報.53(10): 419-425"
ダウンロード(PDFファイル)(現在リンク切れ)
(3)
Aoki T, Furuya S, Kinoshita H (2005) Motor control

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古屋 晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター(MuSIC)センター長,ハノーファー音楽演劇大学 客員教授.大阪大学基礎工学部を卒業後,同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得.ミネソタ大学 神経科学部,ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後,2014年度より現職.アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員,日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任.音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し,マックスプランク研究所(ドイツ)やマギル大学(カナダ),ロンドン大学(イギリス)をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や,国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会,Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズを多数行う.また,ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において,演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う.学術上の主な受賞歴に,ドイツ研究振興会(DFG)ハイゼンベルグ・フェローシップ,大阪大学共通教育賞など.主なピアノ演奏歴として,日本クラシック音楽コンクール全国大会入選,神戸国際音楽コンクール入賞,ブロッホ音楽祭出演(アメリカ),東京,大阪,神戸,奈良でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど.主な著書に,ピアニストの脳を科学する,ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと.ランランとのイベント,ビートたけし氏との対談,NHKハートネットTVへの出演など,研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている.東京大学,京都市立芸術大学,東京音楽大学にて非常勤講師を併任.アンドーヴァー・エデュケーターズ公認教師.www.neuropiano.net
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