ピアノブロッサム

Category V 「バラード」

2016/04/07
Category V「バラード」

 ピアノ曲における「バラード」の創始者はショパンとされる。ピアノと共にこのタイトルは時代の流行となって多くの作品が生まれ、その後のピアノ音楽に確たる地位を占めるものとなる。

 ショパンはバラードを六拍子としてとらえたが、特定の拍子や形式に固定されることなく、中庸なテンポの印象的なメロディと、気高いドラマ性がバラードを定義するものとなった。この2点は作曲家にとって、力量の中枢を問われるものだけに、気を入れて取り組まざるを得ないことから、バラードには駄作が少ない。

 

 ショパンに続く同世代人たちのバラードの中から、短調と長調の作品を2曲ずつ挙げてみよう。

 まずショパンの最も身近にいた人物、ジュリアン・フォンタナ(1810~1869)。ワルシャワ時代の級友であり、パリに出てからはショパンの秘書として写譜、校正、出版社との交渉に当るなどして協力した。ショパンは「軍隊ポロネーズ」を含むOp.40を献呈してフォンタナに謝意を示したものの、作曲家としての彼を支援する気はなかったようだ。

 

 「バラード」Op.17はショパンと同じト短調で書かれ、メロディをほとんど登場させず、リズム動機の反復と和声進行によって劇的効果をもたらす異色作である。同郷出身のE.ヴォルフに献呈。 もっと詳しく!

ユリアン・フォンタナ Julian Fontana

1810. ワルシャワ生、1865.12.24 パリ没

ショパンと同い年のフォンタナは、ショパンの伝記に必ず登場する人物です。ポーランド時代、ショパンの学友として親交を結び、長じてはショパンと出版社の仲介の手間をとり、彼の作品を世に送り出すために尽力したことで知られています。そのため、音楽史上、彼はいわば、ショパンの影武者的な存在として位置づけられます。しかしフォンタナは、彼自身、ピアニストであり、作曲家であり、また著述家でもありました。

フォンタナは、ワルシャワに生まれ、ワルシャワ大学で法学と音楽を学びました。作曲に関しては、同年生まれのショパンと同門で、ユゼフ・エルスネル(1769~1854)に師事し、31年、ワルシャワ蜂起後、ハンブルクに移住、32年にパリに移住し、ピアニスト、教師として活動します。33年にイギリスに渡り、37年まで同地に滞在します。彼は、同地でピアニストとして演奏会に出演しました。例えば35年、モシェレス、クラーマー、シュルツ、ソヴィンスキ、アルカンとともに、楽器製作者パープの製作した3台ピアノ(12手)で演奏するなど、国際的な名手とともに、華々しい舞台にも立っています。37年にパリに戻り、ここを活動拠点としました。 42年、フォンタナはアメリカ大陸に亘り、ニューヨークとハバナで暮らし、同地で結婚、アメリカで演奏会活動を行います。52年、パリ郊外のモンジュロンに移り住み、ミツキエヴィチと知遇を得、ポーランド人文学サークルに出入りするようになります。しかし、難聴により音楽家としてのキャリアの継続が困難となり、65年のクリスマス・イヴに50代半ばで自ら命を絶つという悲劇的な最期を遂げました。

フォンタナは、生涯に16曲を作品番号付きで出版したことが確認されています(作品1~20、欠番は作品3、4、16、19)。ピアニスト兼作曲家としては、かなり寡作な音楽家といってよいでしょう。30代まで自作品を出版しなかった点、彼は作曲家としてのキャリアには重きを置いていなかったと見られますが、彼の作品はピアニストとしての技巧的心得と正確な和声、明快な形式の下に書かれています。彼が取り組んだジャンルは、性格的な作品、オペラの主題に基づく華麗なコンサート・ピース、練習曲、舞曲に大別されます。性格的作品には《葬送行進曲》作品1、《エレジー》作品7、《バラード》作品17、《ノクターン》作品20など、オペラの主題に基づく作品には《ウェーバーの〈魔弾の射手〉のモチーフに基づく華麗な幻想曲》作品6、《ベッリーニの『夢遊病の女』のモチーフによる華麗な幻想曲》作品14、練習曲には《練習曲形式による12の性格曲》作品9など、舞曲にはワルツ(作品11、13)、マズルカ(作品15他)、ポルカ(作品19)、キューバの舞踏リズムを導入した幻想曲(作品10、12)があります。

楽譜編集者としてのフォンタナは、ショパンの求めに応じて、彼の作品を世に送り出すために、多くの時間を割きました。ウェッセル社から出版されたショパンの初期作品(作品1、3、5、10、11)は、イギリス時代にフォンタナが運指を施して出版しました。また、ショパンの遺作(作品66~77、1855~59刊)をパリでシュレザンジェ(シュレジンガー)社から出版したのも、彼の重要な仕事に数えられます。この他、ショパンの約80点の作品について、フォンタナは出版社との仲介の手間を取ったり、浄書したりしました。そのためか、両人の筆跡は非常に類似しています。ショパンはフォンタナに友情と謝意を表し、《2つのポロネーズ》作品40(1840)を献呈しています。

参考文献
  • Anonyme, « Nouvelles », Gazette musicale de Paris, 2e année, 7 juin, no 22, p. 187.-New Grove Online
J.フォンタナ:バラード Op.17(録音:2016/4/4)

 オペラの主題による華麗なファンタジーは、特にオリジナリティを尊重した20世紀の価値観から蔑視されたとはいえ、当時はピアノ音楽の王道でさえあった。そのフランスの第一人者はアンリ・ローズラン(1811~1876)であろう。一般にはタールベルクが知られるが、こうした人たちが一方で極めて立派なオリジナル曲を作っていたことを知る人は少ない。両者共にソナタやバラード、ピアノ三重奏曲などがあり、これらを見ないで彼らの評価を下すのは早計である。ローズランの「バラード」Op.132は変ホ短調で、短篇ながら凝縮されたドラマが展開する。H・ラヴィーナも同じ調性のバラードを書いている。もっと詳しく!

アンリ・ローズラン Henri Rosellen

1811.10.13 パリ生、1876.3.20 パリ没

エミール・プリュダンとともに、タールベルクのピアノ語法をいち早く同化し継承したフランスの音楽家がいるとすれば、それはアンリ・ローズランです。シャンデリアで飾られた絢爛豪華な室内が良く似合うローズランの音楽は、1830年末から19世紀末に至るまで人々に愛好され、同時代のピアノ音楽のレパートリーにおいて重要な地位を占めました。

ローズランの父は楽器製作者だったと云います。おそらく、父の手ほどきを受けたのち、1823年10月にパリ音楽院に入学、ソルフェージュのクラスに登録し、翌年、ピアノおよび和声・実践伴奏クラス(スコアリーディング)の両クラスにも登録します。ピアノ科ではまずルイ=バルテルミー・プラデールLouis-Barthélemy Pradher(1782-1841)に師事。彼のクラスで2等賞を得ますが、28年1月にプラデール教授が引退すると、ヅィメルマン教授のクラスに移り、29-30年度まで在籍しました。1等賞を得ないままピアノ科を去ります。一方、30年にはソルフェージュクラスで助手を務め、学生としては、和声・実践伴奏のクラスで28年に2等賞を獲得、引き続きフェティス、次いでアレヴィに和声・対位法を(1828~33)、ベルトンに作曲を師事(1832~35)して音楽院の学業を終えました。音楽院の外では、アンリ・エルツの指導も受けています。

ローズランはその後、パリでピアノ教師、作曲家、ピアニストとして生計を立てました。速筆のローズランは、生涯に作品番号にして194番までの作品を出版しています。その大部分はオペラやバレエの主題に基づく幻想曲であり、学習者向けの平易なものから、自身の演奏能力を最大限に引き立てる高度なレベルのものまで、多岐に亘っています。これらの多くは、同時、好んで上演されていたベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、ドゥルドゥヴェーズといった作曲家の作品に基づくもので、出版社からの依頼によって書かれたとみられ、実際、出版社に多くの利益をもたらしました(フェティスによれば、出版者たちはローズランを彼らの「救世主」と呼でいたそうです)。

ローズランの作品は、1歳年長のタールベルクに劣らぬ絢爛たる技巧を駆使し、品位を落とすことなく仕上げられています。オリジナルのピアノ独奏作品においては、《12の華麗な練習曲》作品60(フェティスに献呈、1844)、《ノクターンとタランテラ》作品92(1847)、《バラード》作品132(1852)、《ソナタ》作品172(1861)が特筆される。また、出版された唯一の室内楽としては《ピアノ三重奏曲》作品82(1846)が、ソナタとともに厳格な作曲学習の成果と自身の華麗なピアニズムの融合を代表しています。教育的著作としては『ピアノ・メソッド』作品116(1849)、解剖学的見地からの考察を含む『ピアニストの手引き』があります。この他、作品番号なしで多数の編曲作品(独奏、連弾)が出版されました。

参考文献
  • François-Joseph Fétis, « Rosellen (Henri) », Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique, vol. 7, Paris, Firmin-Didot, 1878, p. 311.
  • Philippe Morant, « Rosellen, Henri », Dictionnaire de la musique en France au XIXe siècle, Paris, 2003, p. 1088.
H.ローズラン:バラード Op.132(録音:2016/4/4)

 チェルニー門下のテオドール・デーラー(1814~1856)はナポリ出身のユダヤ系オースリア人で、リストタールベルクに並ぶ、傑出したピアニスト・コンポーザーである。高度に洗練された、だがどこか儚さを漂わせるピアニズムはショパンのような夜のイメージではなく、白昼の光を思わせる。
 2曲あるバラードの第1番(Op.41 ホ長調)は、ショパンの弟子中、最も師の流儀を忠実に継承したといわれるマルツェリーナ・チャルトルィスカ公爵夫人に書かれたもの。美しいが国籍不明の印象があり、この白昼夢のような非在感こそがデーラーの魅力と言えるだろう。もっと詳しく!

テオドール・(フォン)・デーラー Theodor (von) Döhler

1814.4.20 ナポリ生、1856.2.21 フィレンツェ没

マルクルが「ローカル性」を代表する作曲家なら、デーラーは「コスモポリタン性」を代表する国際派の名手。ナポリでドイツ人の両親の家庭に生まれ、ウィーンで学習時代を送り、パリで名声を高め、イギリス、ドイツへ旅行、ロシアで結婚。デーラーの音楽に宿る「美しいが国籍不明の印象があり、この白昼夢のような非在感」はこうした各地を点々と移動する人生から生まれたものかも知れません。

デーラーは始め、プロイセンからナポリに移った父から音楽の手ほどきを受けましたが、ピアノを始めたのは7歳になってからのことでした。デーラーの才能は1825年、ナポリの劇場指揮者に赴任したドイツの音楽家ユリウス・ベネディクトJulius Benedict(1804~85)の目に留まり、数年間、彼の指導を受けた。このベネディクト師は、フンメル、ウェーバーの高弟として知られるピアニスト兼作曲家で、ピアノと作曲の両面で多くを学びました。10歳を過ぎるころ、師の計らいで同地のフォンド劇場の舞台に立ち、自作の変奏曲、幻想曲を披露して多くの聴衆を感嘆させました。ナポリの神童としてデーラーの名はたちまち知れ渡り、ナポリ王の激賞を受けるに至ります。ある時、ナポリを訪れたルッカ公カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(1799~1883)はデーラー親子に関心を示し、二人を自身の公国に招聘した上、公爵は父を太子の家庭教師とし、息子テオドールには才能を伸ばすために必要な環境を与えました。しかし、公爵の期待に応えるために外国でさらに腕を磨こうと考えたデーラーは、父親と共にウィーンに移住することを決意します。

29年、デーラーはチェルニーの門を叩きます。デーラーは昼夜を問わず熱心に勉強したため、勤勉の権化として知られる師チェルニーさえ、彼を気遣って散歩に連れ出さなければならなかったといいます。更に、ウィーンで彼は著名な理論家・作曲家のS. ゼヒターのもとで厳格なエクリチュールを学びました。ルッカ公爵はデーラーの成長を心から喜び、31年、彼を専属の室内ピアニストに任命しました。勉強に一区切りつけてルッカに戻ると、デーラーは多くの演奏会でセンセーションを巻き起こしました。しかし、彼はさらなる名声を夢見て36年、ヨーロッパ各地を巡る演奏旅行に出発し、ベルリンをはじめドイツ各地で演奏、翌年にはイタリア各地を巡演しました。

38年、デーラーはパリに到着します。彼は知人の催すサロンでの演奏会に参加し、《ランメルモールのルチア》や《ウィリアム・テル》など人気オペラをモチーフにした自作の幻想曲を演奏し、俄然ジャーナリズムの注目を集めるようになります。デーラーの活躍場所はやがてサロンからパリ音楽院ホール、オペラ座へと拡大します。同年4月、パリの音楽界をにぎわせていた同じチェルニー門下の名手タールベルクとともにヴァンタドゥール座の舞台に立ち、自作の幻想曲を演奏して喝采を浴びました。これに対しタールベルクの方は、話題の新作《ロッシーニの〈モーゼ〉に基づく幻想曲》作品33を演奏し当世一のヴィルトゥオーゾとしての威信を示しました。デーラーは《アンナ・ボレーナ幻想曲と変奏》作品17に代表される技巧的な演奏会用作品を書く一方で、多くのサロンピースを出版し、大衆から高い支持を得ました。当時格式高い音楽サロンを開き多くの芸術家たちに多大な影響を及ぼしていたベルジオジョーゾ公爵夫人に捧げられた《ノクターン》作品24はその甘美で哀愁漂う旋律、タールベルクを思わせる華麗な技巧でヒット作となりました。

39年、デーラーはロンドン、オランダ、故郷のイタリアへと演奏旅行に出かけます。ロンドンで演奏したベネディクトのオペラによる《〈ジプシーの警告〉に基づく幻想曲》作品27(ベネディクトに献呈、1838)は、多種多様な手法で主題旋律を伴奏し、高度な技巧を駆使して変奏・展開する大作です。また、《演奏会用第大練習曲集》作品30(ベルリオーズに献呈)は、創作熱溢れる30年代を締め括る重要作に位置づけられます。

40年代初め、デーラーはベルギー、ドイツへと旅行に出かけます。1843年5月、パリのイタリア座でフランツ・リストと二台ピアノ作品を含む演奏会が企画されました。しかし、この演奏会はリスト側の都合でキャンセルされます。当時の音楽雑誌『ル・メネストレル』は、その原因がリストの手の故障にあったという風説を伝えています。幻に終わったリストとの一大スペクタクルの後で、デーラーは直ちに大がかりな演奏旅行に出かけました。

イギリス、オランダ、デンマークを経てロシア到着した彼は、ロシア貴族たちの歓待を受け、数年間ここに留まることにしました。彼はサンクトペテルブルクで既にピアニスト兼作曲家、教育者としてのキャリアを確立していたドイツのアドルフ・フォン・ヘンゼルトやフランスのレオン・オノレといった音楽家たちと交友関係を築き、多大な創作上の刺激を受けました。彼はヘンゼルトに《3つのロシアの歌》作品60(1846)を、オノレに《〈夢遊病の女〉による幻想曲》作品66(1847)を捧げています。ロシアでの成功は、デーラーを更にオペラ《タンクレーダ》の創作へと駆り立てました。

モスクワで、デーラーは有力な貴族エリザベータ・シェレメティエフ伯爵夫人の寵愛を受けるようになりました。伯爵夫人はショパンからピアノのレッスンを受けたこともある音楽愛好家だったので、二人はすぐに意気投合しました。彼らはやがて結婚を望むようになりますが、皇帝ニコラス一世は身分の釣り合わない二人が結ばれることを快く思いませんでした。そこでデーラーは、一旦ルッカに戻り、侯爵から男爵の称号を授かり46年、デーラーと伯爵夫人の結婚はようやく実現します。その後デーラー夫妻はパリに移って旧友と再会し、47年に何度か演奏会に参加したが、パリに長くは留まらずイタリアに向けて出発し、ジェノヴァに数年間住みました。

52年、デーラーはジェノヴァからフィレンツェに移ってこの地に居を定めます。すでに職業ピアニストは辞めていましたが、作曲は続けていました。53年、作品番号付きの最後の作品《ナポリを見て死ね――ナポリの唄に基づく幻想曲》作品71が出版されました。このころ、彼は持病が進行していました。56年2月21日の朝方、デーラーは妻を残し42年の人生を終えます。彼は多くの作品を手稿のまま遺したとされ、没後、その内の幾つかは遺作として出版されました。

Th.デーラー:バラード Op.41(録音:2016/4/4)

 当シリーズにおいて、今年生誕200年を迎える9名の作曲家のうち、(誕生日が)最初の人がフリードリヒ・ヴィルヘルム・マルクル(1816~1887)である。オルガニスト・指揮者として活躍した彼は、当時プロシア領で現在はポーランドのエルビング近郊に生れ、ダンツィヒで生涯を閉じた。

 それ故ドイツ音楽ともポーランド音楽とも言えない不思議な情趣がある。主に悲劇的な作品が名曲として衆知されてきたこの時代にあって、マルクルの音楽は豊かな緑、爽やかな風が伝わるようで、大らかな自然賛美の精神に満ちている。変ホ長調の「バラード」Op.66はその好例である。こうしたポジティヴな音楽を省みなかった世の現実を、改めて考える必要があるだろう。
もっと詳しく!

ヴィルヘルム・フリードリヒ・マルクル Friedrich Wilhelm Markull

1816.2.17 ライヒェンバッハ、1887.4.30 グダニスク没

「ローカル作曲家」は、その限定的な影響力のためにしばしば研究者の注目を集めにくい傾向にありますが、その仕事が勤勉で誠実であり、また地域の音楽文化発展に貢献した場合には、回想され、作品が研究され、演奏される資格を備えています。マルクルは、そうした「ローカルな大家」の一人に数えられます。

マルクルは、当時プロシア領内に位置していたライヒェンバッハ(現ポーランド領)に生まれました。エルブロンクの聖アンナ教会の楽長を務めていた父からピアノとオルガンの手ほどきを受け、10歳のときにカール・クロスKarl Kloss(1792~1853)にピアノを、クリスティアン・ウルバンChristian Urban(1778~1860)に和声を師事しました。前者のクロスは、『クラヴィーア教本』で知られるダニエル・ゴットフリート・テュルクに師事した音楽家で、エルブロンクでオルガニストを務めたのち、バルト海に面するプロイセン王国の街ダンツィヒ(グダニスク)の楽長を務めていました。後者のウルバンもまた、同職のためにダンツィヒに居住していた音楽家です。

33年、マルクルはデッサウに移り、宮廷楽長フリードリヒ・シュナイダー(1786~1858)に作曲とオルガンを師事。35年の春にダンツィヒに戻り、ピアノ教師として生計を立てた。翌年、同地のマリア教会(当時世界第二の規模を誇るルター派教会)の主席オルガニスト、ならびに同地の声楽協会長に任ぜられます。45年、同地のギムナジウムで声楽教授も任されるようになり、2年後には「王の楽長」の称号を与えられました。演奏会活動に加え、同地の雑誌で批評家としても活動し、半世紀に亘り、ダンツィヒの音楽界の興隆に大きく寄与しました。

彼が生涯に出版した作品は、作品番号にして137作を数え、それ以外に作品番号なしの作品には喜歌劇《ヴァルプルギスの宴》、編曲(
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの交響曲)、校訂(モーツァルトの歌曲、シューベルト、ウェーバー作品集)、オルガンの為のオリジナル作品などがあります。創作の重点は声楽、ピアノ、オルガンの為の作品に置かれています。ピアノ作品に関しては《4つのマズルカ》作品4、《ポロネーズ》作品67などの舞曲、《旅に臨んで――9つの幻想曲集》作品45や《森の生活――音画》作品53などシューマンに通じる性格小品集、俗謡を主題とした《ドイツの俗謡に基づく描写集》作品46、47、54、《バラード》作品66、《舟歌》作品68などの中規模作品があります。

F.W.マルクル:バラード Op.66(録音:2016/4/4)

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