みんなのブルグミュラー

エッセイ:第03話 昭和ピアノ少年少女たちへ

2006/05/12

この「みんなのブルグミュラー」コーナーの入り口に、先日から「お声をお聞かせください」というアンケート欄を設けました。こちらに届いたお便りの なかに、時代の空気漂うとても香しい文章がありました。本来は公開のためにエピソードを募ったわけではありませんが、あまりに気持ちの込められた素敵な内 容でしたので、ここにご紹介させていただこうと思います。お寄せくださった方、心よりありがとうございました。そして私の勝手な判断をどうぞお許し下さ い。ハンドルネームも伏せさせていただきます。

*********以下引用

「昭和ピアノ少女時代」、、、そう、昭和30年代に生まれ、日本の高度経済成長のまっただ中、小学生だった私には、まさしく「昭和ピアノ少女時代」と呼べる数年間があった。

クラスの女の子のおそらく半分位の子たちが、ピアノを習っていた。休み時間になると、教室の片隅にあったオルガンを弾き始め、覚えたての曲を披露していた子。私はそんな子を囲む残り半分の一人だった。

小 学校3年生にもなると、それまでの定番「ねこふんじゃった」からいつの間にかブルグミュラーに。「アラベスク」が演奏されると、私はじっとその女の子の手 を見つめていた。黒いのが3本並んでいる所の真ん中から左手が始まり、その後は、2本並んでいる所の左側から始まる、、、。その子がどんな表情で弾いてい たかなんて覚えていない。覚えているのは、何かが迫ってくるようなリズムと、右手と左手が交互に何かを語りかけてくるようなメロデー。そして「アラベス ク」という童謡でもない、文部省唱歌でもない、聞けば外国の曲と想像されるそのタイトルだった。

親にねだり、私もピアノを習い始めた。嬉しかった。毎日学校から帰ると、ピアノを弾くのが楽し
みだった。バイエルを終えて、私もいよいよブルグミュラーかと思いきや、渡された楽譜はブルグミュラーではなく、バッハのプレインベンションそしてソナチ ネだった。結局ソナチネを2曲位習ったところで、私のピアノレッスンは終わった。でも、それからはおこづかいで楽譜を買うのが楽しみになった。

 今でも、ページを開くことがある。

 全音 赤帯 「ブルグミュラー 二十五練習曲」 ¥130

 2番。 ラシドシラ ラシドレミ レミファソラ ラシドレミ

**********引用おわり

「昭 和」、「高度経済成長時代」、日本中でどのくらい、こうした現象が起こっていたことでしょう。どのくらいの少年少女たちが、「アラベスク」や「貴婦人の乗 馬」の響きに憧れ、おこづかいで楽譜を買ったり、自分の指が奏でる「あの曲」にうっとりとしたり、思うように弾けない不甲斐なさに悲しくなったりしたこと でしょう。
きわめて個人的な体験。その特殊性こそが普遍性へと突き抜ける。どこかで聞いたそんな言葉が思い起こされます。

「みんな当時、本当に『貴婦人の乗馬』に憧れてたよね。私もギリギリ弾いてた。」
というのは私と同世代のある人の言葉。
「ギリギリ」というのは自分の持てる限界までの努力を投入して、何とか形にしたくて、何とか響きを鳴らせてみたくて、がんばって弾いていたということ。テ ンポは揺れに揺れていたかもしれない。指ももつれていたかもしれない。ヘタクソだったかもしれない。それでも。
たとえそんな音であってもきちんと感動していた。あの空間こそ、強烈な音楽の原体験。

天 才でもない。ピアニストでもない。ただただピアノの音色が好きで、どうしてもそこに帰りなくなる。そのような、ややもすれば「普通の人々」として囲われて しまう、私たちの切実な想いを、ないがしろにして忘れてはならないと感じます。なぜならばそれこそが、日本のピアノ文化の土台であり、現実であるからで す。私たちの「個人的な体験」こそが、連鎖となって大きなうねりをつくり、今日の「天才」を育てているのです。しかしこの大きなうねりは、大きすぎるがゆ えに見失われ、もともと「なきもの」として歴史のひずみに埋もれてしまいがちです。日本のピアノ文化を考えるとき、本来「なきもの」としてふたをされてし まってはいけないこうした言説を、ひとつひとつの物語を、少しでもひずみから救い上げることができたなら。

元昭和ピアノ少年少女たちへ。
もう一度ブルグミュラー、弾いてみませんか?
物語を思い出したら、どうぞ聞かせてください。心からお待ちしています。

 (第3話 おわり)


飯田 有抄(いいだありさ)

音楽ライター、翻訳家。1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒、同大学院音楽研究科修士課程修了。マッコーリー大学院翻訳通訳修了。ピティナ「みんなのブルグミュラー」連載中。

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