19世紀ピアニスト列伝

ルフェビュル=ヴェリー第1回:誕生から結婚まで

2016/07/20
ルフェビュル=ヴェリー
第1回:誕生から結婚まで

 ショパンの葬儀でオルガンを弾いたことで、時折文献に言及されるルフェビュル=ヴェリーサン=サーンスに先立つ世代のフランスを代表するオルガニストだった彼は、有能なピアノ、ハルモニウム(オルガンに似た室内用鍵盤楽器)の名手でもありました。当時、オルガニストは、しばしばピアニストと作曲家を兼ねていました。今回は、ルフェビュル=ヴェリーの誕生からパリ音楽院での学習時代、そして結婚までを辿ります。

ド・モンジュルー夫人

 自己の利益しか念頭に置かずに我が国を誹謗中傷する者たちが、この国[フランス]の生産的な天分を否定することができたのはもう昔のことだ。フランスの作曲家とヴィルトゥオーゾたちは外国で好意的に迎えられている。この好意自体、彼らの才能が[外国での]共感を呼び起こしつつ、フランス的な様式と趣味が[外国に]影響を与えていることを物語っている。ルソーは、フランス人が聴く耳を持たず、音楽的素質に乏しいと批判したが、もはやその批判の存在理由は失われた。オペレッタ楽派以外にも、偉大な芸術の楽派が存在するのに、一部のドイツの批評家たちは、我々にもっぱらオペレッタの「天分」ばかりを押し付けようとしていた。フランスの音楽芸術では、そのあらゆる段階、そのあらゆる分野において伝統が確立されており、確固たる大家たちが存在する。フランスのオルガン楽派にもまた、特別な作曲家、ヴィルトゥオーゾとして、多くの高名な人物がいる。クープラン1、ラランド2ラモー3ダカン4、バルバトル5、マルシャン6、セジャン7、ブノワ8といった秀でた家系は、栄光に輝く代表者たちを擁し、その多くが学識と熟練の技において、先人たちを凌いだと筆者は確信している。ルフェビュル=ヴェリーは、フランス楽派の、この名誉ある系譜に属している。

 音楽的環境のなかで、愛情に包まれ、献身的に育てられたルフェビュルは、たいへん急速に腕を上げ、オルガンのタッチによく親しむようになったので、8歳のときにはもうサン=ロック教会で父の代理として、オルガニストを務めてみることもできた。彼がこの任務をすっかり引き受けるようになった矢先、父は、左脇腹の麻痺に襲われた。病気は7年に亘ったが、その間、父ルフェビュルが息子以外の代理オルガニストを立てることはなかった。1831年、父が病でこの世を去ると、息子ルフェビュルは大オルガンの正式な奏者となった。それというのも、彼の腕前は既に評判となっていた上に、サン=ロック教会の信仰心篤き教区民だったマリー=アメリー王妃9の庇護があったからだった。

 王妃の好意が揺らぐことは、決してなかった。ルイ=フィリップの伴侶であるこの王妃は、自身の才能豊かなオルガニストの子どもの名付け親になることを承諾しさえしたのだった。

 1835年、ルフェビュル=ヴェリーは、パリ音楽院でヅィメルマンが受け持つピアノ科とブノワの受け持つオルガン科に入学した。1834年、彼は年度末に行われる修了選抜試験で、これら2クラスで二等賞を受賞し、翌年には2つの一等賞を獲得した。和声を熟知した、感性豊かな音楽家でありながら、無数の表現手法を備えた頭脳と指をもつ、この輝かしいフランスの国立学校の受賞者は、理想的な作曲の学習に打ち込むことで自身の教養を完成させようとした。ベルトン、アドルフ・アダンアレヴィが彼に助言を与えたのだから、もし彼が、ダモロー夫人の愛弟子(J.クール嬢)と結婚したことで突然進路を変更していなければ、ルフェビュル=ヴェリーは間違いなく、ローマ賞受賞者の一覧に名を連ねていただろう。エヴルーの司教で、かつてサン=ロック教会にて主任司祭を務めていたオリヴィエ神父は、大変愛想がよく、司教のなかでもとくに社交好きだったが、彼は自らの手で、かつてのオルガニストの結婚を祝福した。

  1. クープラン一族では、ルイ・クープランLouis Couperin (1626-1661)とその甥フランソワ・クープランFrançois Couperin (1668-1733)がオルガン音楽で重要な成果を残している。
  2. フランス・バロックの宗教的ジャンル、グラン・モテの代表者ラランドMichel-Richard de Lalande (1657-1726)は、クラヴサン、オルガンの演奏に秀で、パリの複数の教会でオルガニストとして雇われた。
  3. ディジョン出身の理論家、オペラ作曲家、クラヴサン奏者として名高いフランス・バロック時代の代表者、ラモーはJean-Philippe Rameau (1683-1764)、父もオルガニストで、彼の音楽教師でもあった。彼はアヴィニョン、クレルモン=フェラン、パリ、ディジョン、リヨンの教会や礼拝堂でオルガニストを務めた。
  4. オルガニスト・クラヴシニスト兼作曲家として名高いダカンLouis-Claude Daquin (1694-1772)は、卓越したクラヴシニスト兼作曲家だった叔母で代母となったジャケ・ド・ラ・ゲールから初期のレッスンを受け、6歳でルイ15世の御前で演奏する神童だったという。12歳の頃にプチ・サンタントワーヌ教会のオルガニストとなり、32歳のときにラモーと競ってサン・ポール教会のオルガニスト、次いでコルドリエ教会(1732)、王室礼拝堂(1739, 1770)ノートルダム大聖堂(1755)のオルガニストとして活躍した。
  5. ラモーと同郷のバルバトルClaude Balbastre (1724-1799)は、オルガニストを父にもち、父から指導を受けたとされる。ジャン=フィリップ・ラモーの弟、クロード・ラモーを引き継ぎ、サン・ジャン=ド=ローヌ教会のオルガニストを務めた後、ディジョンで父がオルガニストをしていたサンテティエンヌ教会のオルガニストとなる。1750年代からパリに住み、J.-Ph. ラモーから作曲のレッスンを受けた。1756年からルフェビュル=ヴェリー父子が後にオルガニストを務めるサン=ロック教会のオルガニストに就任、1760年からはつきに3ヶ月だけノートルダム大聖堂のオルガニストも兼任。1776年からはルイ16世の弟(後のルイ18世)付きのオルガニストとなり、革命まで、宮廷オルガニストとしても活躍した。
  6. リヨン出身のマルシャンLouis Marchand (1669-1732) は14歳でサン=シール・エ・サント=ジュリエット大聖堂のオルガニストとなり、20歳の頃までにパリに移住。詩人ヴォルテールらを輩出したイエズス会学校(今日のリセ・ルイ=ル=グラン高校)のオルガニストとなり(ラモーはマルシャンの後任となった)、複数の教会でもオルガニストを務めた。マルシャンは1717年に旅をした折、バッハと競演がセッティングされた折、前夜に逃げ出したという逸話があるが、ドイツ側にしか史料がなく事実かは判然としない。
  7. パリ生まれのセジャンNicolas Séjan(1745-1819)もやはり神童として知られ、13歳でテ・デウムを即興で弾きこなしたとされる。15歳でサン・タンドレ=デ=ザール教会のオルガニストとなり、1772年には、4つあるノートルダム大聖堂のオルガニストのポストの一つを獲得。以後、数々の教会でオルガニストを務めたのち、王室オルガニスト、王立歌唱学校教授となるが、革命の勃発により失職。革命期は軍歌などを演奏して過ごした。1795年創立のパリ音楽院で最初のオルガン教授となり、1802年まで在職。1814年の王政復古以後は王室礼拝堂オルガニストとして活動した。
  8. ブノワFrançois Benoist(1794-1878) は1811年にパリ音楽院に入学し、和声とピアノを学んだ(ピアノはルイ・アダンに師事)。1814年に両科目で1等賞を獲得、翌年には作曲のローマ大賞を受賞した。1819年に王室礼拝堂オルガニストならびにパリ音楽院教授に任命され、53年間に亘り職を奉じた。彼の弟子にはピアニストも多く含まれ、アルカン、フランク、ビゼー、デュボワ、サン=サーンスを初め、彼のクラスは優れた音楽家を輩出した。1840年にオペラ座の主席合唱指揮者(chef de chant)に任命された。
  9. Marie-Amélie de Bourbon-Siciles(1782-1866)は七月王政を敷いたルイ・フィリップ王の后。娘のマリー・ドルレアンは、ピアノ、絵画、彫刻など、芸術に広く親しんだことで知られる。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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