19世紀ピアニスト列伝

テオドール・デーラー 第4回:波乱の恋愛と結婚から最期まで

2016/02/16
テオドール・デーラー
第4回:波乱の恋愛と結婚から最期まで

 サンクトペテルブルクのデーラーは、《3つのロシアの歌》作品60(1846)A.v. ヘンゼルトに献呈)や《〈夢遊病の女〉による幻想曲》作品66(1847)などの力作書き、それまで以上にスケール感ある音楽家として存在感を示します。また、貴族的気品と節度をもったデーラーは、サンクトペテルブルクに移ってからも、持ちまえの上品さで貴族階級の女性たちを虜にしました。恋愛関係になった伯爵夫人と結婚するために、ルッカ公爵はわざわざデーラーに男爵の地位を与えたほどでした。

デーラー

 1844年、サンクトペテルブルクに出発したデーラーは、そこで、ロンドンと同じようにあの熱烈な歓迎を受けた。貴族階級の人々は、芸術家を迎え入れたり新しい才能の士と関わりを築いたりしようとする場合には、それを内密にする。そのうえ、今回は、旅というよりも滞在で、ヴィルトゥオーゾの成功というよりはむしろ、彼の熱烈な信奉者となったシェレメティエフ伯爵夫人の心に彼のかき立て愛情が、何年も彼をロシアに引き留めたのだった。こうした状況にあって、ヴィルトゥオジティに関して高名な彼の師であるフランツ・リストよりも幸運だったデーラーは、長い試練と一連の小説じみた波乱の末、シェレメティエフ伯爵夫人の夫となった。何章にも亘るこの物語の結末は、この著名な芸術家に僅かな年月の幸福しかもたらさない運命を示していた。ルッカに戻り愛好家として芸術に芸術への信仰に身を捧げたデーラーは、肺の病に冒され、自身の美しい夢が急速に消えていくのを目の当たりにした。病は急速に進行した。環境の変化、水による治療など極めて精力的な数々の処置も、一時的に病気の進行を和らげるに留まった。テオドール・デーラーは数年間苦しんだのち、1856年2月21日に42歳で亡くなった。

 この余りに短い生涯は、一つならぬ理由で興味をそそられる。現代社会の名誉のために、声を大にしてはっきりと認め、言わなければならないことがある。上流人士の趣味はすでに出来上がっている。博識で才能ある芸術家は人気があり、サロンで歓待を受けるばかりか、その芸術家が才気に富む人物、彼の芸術の権威であり、有能な人物である場合には、彼の魅力が引き寄せる敬意と上品な注目に包まれる。16世紀と17世紀において、生粋の貴族と天分に恵まれた庶民を隔てる社会的な壁は、不快なほどに厚く存在していた。だがルイ15世のときから、威厳ある主人としてサロン――そこでは文学と美術が尊重された――を取り持っていた高名な女性たちがあの数々の不平等を打ち消した。伝統は確立されたのであり、それは稀に何人かの芸術家の奇行や不手際によって妨げられた。彼の気品と個人的美点によって、彼がその伝統をしっかりと結びなおしたことは彼の名誉となるだろう。


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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