19世紀ピアニスト列伝

ルイ・アダン 第2回:学習時代から作曲家、教師としての成功まで

2015/12/17
ルイ・アダン 第2回:
学習時代から作曲家、教師としての成功まで

今回はルイ・アダン誕生から物語が始まります。独仏国境に近いアルザスからルイ16世治世下のパリに出て成功を収めたアダンは、優れた音楽家としてフランスの首都で重宝されます。彼の二人の息子の一方、アドルフ・アダン(1803~1856)一人はやがて《ジゼル》で知られるオペラ、バレエ作曲家となります。

アダン

アダン(ルイ)は1758年12月3日、ミッタースホルツ(バ・ラン県)に生まれた。フェティスによれば、1760年生まれだとする伝記記述もあるという。彼が最初に音楽の基礎とクラヴサンの初歩的な知識を授かった人物は、傑出した愛好家の片親と、ストラスブールの優れたオルガニストのエップ1だった。練習に熱心な彼は、ヴァイオリンとハープを独習した。いっそう高度な教養に関して、彼は読書と大クラヴサン奏者たちの作品の理論的分析からそれを汲み取った。和声の教師の名に言及している伝記は一つもないが、しかし17歳でルイ・アダンは既に真に価値ある複数の器楽作品を試作し成功を収めていた。

1796年、彼は作曲家、ヴィルトゥオーゾとしてパリで人前に姿を見せるべくアルザスを発った。彼は、その当事たいへん評判だったコンセール・スピリチュエル2でピアノ、ハープ、ヴァイオリンのための交響曲2作を上演してもらうという幸運に恵まれた。この種の協奏的作品3は、その目新しさから大変魅力があり、多大な効果を生み、この若き大家の名声の端緒を拓いた。初期の頃から教授としての成功も比類ないものだった。深い知識と完全な教養――この双方を兼備していることは、いつの時代も大変必要とされるが、当事はあまりに珍しかった――を併せ持っていたおかげで、ルイ・アダンは最も名高いピアニストたちのレッスンよりも自身のレッスンのほうが好まれるのを目の当たりにしたのだった。

1798年、ルイ・アダンは国立音楽学校4のピアノ教授に任命された。彼はそこで、45年に亘り教育を続けることとなる。私の若かりし頃、老音楽院教授の名は既に畏敬の対象となっていた。2人の息子がさらに彼の威光を強めていた。一人は腕の良いデッサン画家、もう一人はオベールの好敵手、アドルフ・アダンである。アドルフは、《山小屋》、《ロンジュモーの御者》、《プレストンのビール問屋》、《もしも私が王様だったら》、《ヴィオレットの操り人形》など、その才気煥発、上品かつ人気の作品で、なかばオベールのライバルとなっていた。かくして二人の息子が種々の、しかしいずれも芸術的な職種でその才能をはっきりと示す間に、父は類稀な献身的熱意を持って、音楽院で自身が受け持つピアノのクラスに専心し、ここで偉大な伝統の数々、深められた研究、バッハヘンデルスカルラッティハイドンモーツァルトクレメンティといった、自らを育ててくれた古の大家たちの理論的分析を継承した。様式とヴィルトゥオジティに関するこれら数々の健全なる教義は、[レッスンを通して]流布されるのみでは飽き足らず、彼の素晴らしいメソッドにも書き留められた。これは専らパリ音楽院のために書かれたもので、出版から60年の歳月が流れた今でもなお、我々がピアノ演奏技法と呼びうる音楽の規範である。

半世紀以上に亘り、ルイ・アダンは何世代もの芸術家を育てた。彼は1797年から1818年まで男子クラスを受け持ち、1818年から1843年までは女子クラスを担当した。この時期、ピアノ教育はまだ今日のように並外れた発展を見せてはいなかった。1等賞受賞者に任せられた歌手と和声志望者のための準備クラス5、2つの二次的なレベルの予科クラス、そしてアダンヅィメルマンによって取り持たれた2つの高等クラス。これだけのクラスがあれば、教育的要求は満たされていた。

  1. エップSixte HEPP(1732~?):1860年代に編纂されたフェティスの人名事典によれば、エップはストラスブールの教会ヌーヴェル・エグリーズのオルガニスト兼作曲家で、ヨメッリNiccolò Jommelli (1714~1774)の弟子とされる。
  2. コンセール・スピリチュエル:1725年から続くフランスの演奏会で、カトリックの宗教的祭日にオペラ座で公演ができない期間を補う宗教的演奏会として行われていた。
  3. 協奏的交響曲:一人以上の独奏者とオーケストラによる協奏的なジャンルの作品だが、協奏曲のように独奏者とオーケストラが対比的に扱われるのではなく、ソリストが主要主題を担いながらオーケストラと調和して交響曲の形式で演奏する。ヴァイオリンとヴィオラをソリストとするモーツァルトのK 364が有名。
  4. パリ国立音楽院のこと。パリ国立音楽院は1795年に創設されたので、アダンが教職に付いたのはまさに開校とほぼ同時だった。
  5. これらのクラスは、1871年まで「鍵盤楽器学習クラス」と呼ばれ、専攻外ピアノクラスとしての機能を果たした。一方で、ピアノ専攻クラスに移行するためにこのクラスに登録する学生も少なくなかった。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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