19世紀ピアニスト列伝

ヨハン・バプティスト・クラーマー 第1回 クレメンティの高弟、「ジョン・クラーマー」

2014/05/02
クレメンティの高弟、「ジョン・クラーマー」

ピアノを長く学ばれている方、教えられている方は、「クラマー=ビューロー 60の練習曲」というピアノ教材を見たことがあるのではないでしょうか。「クラマー=ビューロー」は、ヨハン・バプティスト・クラーマーが作曲した84の練習曲を、ハンス・フォン・ビューロー(1830-94)というリストのお弟子さんが後に選曲・編集したということでこう呼ばれているのです。今日から始まる第13章は、ドイツに生まれイギリスで活躍したクラーマーの物語です。ちなみに、彼はイギリス育ちということもあり、当時は「ヨハン」ではなく英国風に「ジョン」と呼ばれていました。訳本文では原文のフランス語表記の発音を尊重して「ジャン=バティスト」と表記しています。今日から始まる第13章は、ドイツに生まれイギリスで活躍したクラーマーの物語です。

今なお力強く勇敢な芸術家の一世代から姿を現した著名な人物、ジャン=バティスト・クラーマーは、次のありふれた格言とは矛盾している。芸術家の世界において、息子たちは、滅多に父の美質を引き継ぐことがない。この高名なピアニストの祖父、そしてとりわけ父は、傑出した音楽家であった。クラーマー家の家系図によると、この一家の長は、シレジア1のザカウで1705年に生まれたジャック[ヨハン]・クラーマーである。彼は、フルート奏者、ならびにティンパニ奏者としてパラチナ選帝侯の楽隊に所属していた。1745年、マンハイムに生まれた息子ギヨーム[ヴィルヘルム]は、一流のヴァイオリン奏者となった。神童だったこの7歳の早熟なヴィルトゥオーゾは、コンチェルトの演奏で彼の庇護者パラチナ選帝侯を驚嘆させた。熟練教師たちのいる学校で教育を受けた彼は、ごく若くして、識者たちの評価著しい気高き様式を備えた才能を我がものとした。彼は1722年まで、君主の個人的な楽隊に所属した。だが、この時期に出かけたロンドン旅行において、彼のヴィルトゥオーゾとしての成功は、大変大きな反響を読んだので、王は、この偉大な芸術家がイギリスに定住するよう決心してもらえるよう、相当な給与を払って、彼をオペラ座の指揮者に任命した。ギヨーム・クラーマーは、ヴァイオリン協奏曲7曲、2つのヴァイオリンのための二重奏曲6曲、2つのヴァイオリンとバスのための三重奏曲6曲を出版した。高度な才能をもつ音楽家の彼は、彼に相応しい息子を持つ幸運に恵まれた。

著名なピアニストのジャン=バティスト・クラーマーは、1771年2月24日にマンハイムで生まれた。ごく若い時分にロンドンに連れてこられた幼いクラーマーは、手始めにヴァイオリンを学んだ。だが、クラヴサンとピアノに対する彼の際立った趣味、適性は大変に明白だったので、父は息子のはっきりとした望みに対して無理を強いることはなかった。彼の教育はベンサー2、シュレーター3、そして最後にクレメンティの手に委ねられた。クラーマーがこの大家の生徒であったのは、一年足らずのことである。だが、彼の助言、実例、普遍的原則は実りをもたらした。クレメンティの[他の]いかなる弟子も、彼の流派と様式の刻印をこれほど深くは持ち合せていない。少し後の1785年、クラーマーはシャルル・フレデリック・アーベル4の下で音楽理論、和声、作曲を学んだ。

旅に対する情熱と、自身のヴィルトゥオーゾとしての能力をはっきりと示そうという欲求から、彼は大陸のあらゆる街を訪れた。彼の非常に正確で純粋な演奏は、いたるところで審美眼をもつ音楽家の賞賛を掻き立てた。彼らはクラーマーの簡潔で高貴な様式、ピアノを歌わせる見事な手法を高く評価したのだ。イギリスに戻ると、彼は数多の作品を書いた。ソナタ、協奏曲、ロンド、行進曲、エール・ヴァリエ、幻想曲、ノクターン、バガテル、ワルツ、そして4手用の2重奏曲、ピアノとハープのための2重奏曲、ピアノと弦楽器の1曲の五重奏曲と1曲の四重奏曲。クラーマーの全作品には105曲のソナタが含まれ、その多くが、非常に高い様式的価値と真の技法上の美点を示している。何年か後に、クラーマーは再びドイツ、イタリアを旅行し、第二の祖国、ロンドンに戻ってきた。

  1. ポーランド、チェコ、ドイツにまたがる地域で、18世紀にはプロイセンとハプスブルク家の間で割譲を巡る抗争が繰り広げられた。
  2. ベンサーJohn Daniel Benser( ?-1785) : ドイツ出身、ロンドンで活躍した鍵盤楽器奏者兼作曲家。ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)の助言でイギリスに渡り、宮廷の教師を務めた。1772年、王立音楽アカデミーの会員に名を連ねた。
  3. シュレーターJohann Samuel Schroeter(ca 1752-1788):ドイツ生まれ、イギリスで活躍した鍵盤楽器奏者兼作曲家。ライプツィヒでヨハン・アダム・ヒラーに師事。その後イギリスに渡り、J.C. バッハの死後、シャーロット王妃付きの楽長となる。同時代の音楽史家チャールズ・バーニ(1726-1814)は、彼がピアノの高度な技法をもたらした最初の人であることを認めている。シュレーターがクラーマーを指導したのは1780年から83年まで。
  4. カール・フリードリヒ・アーベル(1723-87):ドイツ出身、ロンドンで活躍した作曲家。バス・ヴィオル奏者。バッハ一家と関係が深く、ドレスデンの宮廷ではオルガニストを務めていたヴィルヘルム・フリードリヒ・バッハと同僚だった。58年から59年の演奏会シーズンにロンドンに渡り、以後ロンドンを拠点に活動、演奏と出版で名を挙げた。63年にはJ.C.バッハの楽譜出版契約も取り付けた。シュレーター、J.C.バッハ同様、彼もまたシャルロッテ王妃の室内楽団の団員だった。若きモーツァルトは、アーベルの交響曲を筆写しており、長らくモーツァルトの真と見做されていた。J.C.バッハとアーベルは親しく交わり、演奏会を企画・共催もしている。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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