19世紀ピアニスト列伝

シャルル=ヴァランタン・アルカン 第1回:フランス・ピアノ界の若きホープ

2014/03/31
シャルル=ヴァランタン・アルカン
シャルル=ヴァランタン・アルカン
フランス・ピアノ界の若きホープ

花の都パリには、19世紀前半、ショパンリストたち外国の音楽家が富と名声を夢見て集まりました。その一方で、パリには現在も高い教育水準を誇るパリ国立音楽院があり、そこで若いピアニスト兼作曲家たちが育っていました。ショパンリストたちと同世代、1810年代生まれの世代でフランス・ピアノ音楽の旗手となったのが、若きアルカンでした。

 あらゆる人相の中でも、研究すべき独創的で興味深い芸術家の人相があるとすれば、それは間違いなくシャルル=ヴァランタン・アルカン1である。その関心の裏には、見究めるべきある種の神秘と謎が隠されている。フランス楽派の古参の一人であるこの傑出した巨匠は、パリの動乱と芸術運動の只中で、ほとんど変わることなく孤独の内に生き、他の人々が評判と名声を追い求めるのと同じくらい注意深く、そこから逃れた。ヴァランタン・アルカンは、流行や輝かしい成功をもたらす群衆をあくまで遠ざけたが、このことは、大衆の名声と富に対する二つながらの愛を演奏旅行と演奏会の巨大な流れに注ぎ込む全てのヴィルトゥオーソの習慣とは正反対である。信仰に厚く、宗教に忠誠を誓ったといえる誠実なパリ人、ヴァランタン・アルカンが、引きこもりの習慣と仕事の実り多き暗がりにすっぽりと包まれた、穏やかで瞑想的で考え抜かれた生活と袂を分かったことは、ただの一度しかない。彼は当時、友人や筆者の旧師ヅィメルマンのうるさい懇願や請願にも聞き従っていた。しかし、戦闘的なコンサート界におけるこの小旅行は、束の間の散歩であり、輝かしい例外に過ぎない。夢想的な芸術家、哲学的で少々厭世的な音楽家はやがて孤独の肥沃な平安へと戻っていったのだ。
 ヴァランタン・アルカンは4人兄弟の長男であり、彼らはみな、傑出した音楽家である2。彼の父は勤勉かつ知的な人物で、1833年に私が彼と知り合ったときには、ブラン・マントー通りで小さな寄宿学校を経営していた。ユダヤ人が大半を占める幼い子どもたちは、そこで基礎的な音楽指導をうけ、またフランス語文法の初歩も学んでいた。1813年の12月3にパリで生まれたヴァランタン・アルカンは、早熟で例外的な素質に恵まれた子どもで、規定の年齢に達する前に音楽院への入学を許可され、8歳でソルフェージュの一等賞を、10歳でヅィメルマン4のクラスでピアノの一等賞を得た。1826年には、13歳でドゥルラン5のクラスで和声の一等賞を得た。この先生は、冷厳な見かけの割に善良で愛情の深い人だった。1827年、私は祖父に連れられてパリにきて、ヅィメルマンの推薦で、自分より4歳年上の若きアルカンの補習を何度か受けた。だが、歳の差はほんの僅かばかり、このレッスンがごく真面目に行われるはずもなく、数週間後に中断を余儀なくされた。
 アルカンがヴィルトゥオーソとして頭角を現し始めたのはこの頃からである。ヅィメルマンの贔屓の生徒だった彼は、ヅィメルマンの後ろ盾を得て夜会という夜会で紹介された。そこでは輝かしい数多の顧客がヅィメルマンを招来していた。彼の若く、しかしすでに傑出した才能に与えられたこの支援のおかげで、ヴァランタン・アルカンは17歳の時から多くの著名なヴィルトゥオーソの一人に数えられていた。
 私は、今なお、父アルカン氏のあの家、あの大変に家父長的な環境が目に浮かぶ。ヴァランタン・アルカンの才能はそこで培われ、勤勉な青春時代が育まれたのだ。私はそこで、ソルフェージュのレッスンと基礎的な音楽教育を受ける一団の子どもたちに混ざって、ラヴィーナ6やオノレ7と一緒に、寄宿生として数ヶ月を過ごした。そこは丁度予備校のようなところで、若い情熱に満ちた音楽院の付属施設さながらだった。ヴァランタン・アルカンの部屋でなんと素敵な夕べを安上がりに過ごしたことだろうか。彼はまだ孤立していなかったし、壮年期の世捨て人の面影もなかった。彼は我々皆と同じように、陽気で楽しく、人生を信じて、彼は我々みんなと同じように、信仰と情熱、そして青春時代の愛しき幻想を抱いていた。

パリ音楽院ピアノ科、男子クラス教授 J.ヅィメルマン(1785-1888) (H. グレヴドンによる銅版画)
パリ音楽院ピアノ科、男子クラス教授 J.ヅィメルマン(1785-1888)
(H. グレヴドンによる銅版画)
パリ音楽院和声・実践伴奏科、 男子クラス教授、V. ドゥルラン(1780-1864) ローマへの留学の際にエステ荘で知り合ったD. アングル による肖像画。
パリ音楽院和声・実践伴奏科、 男子クラス教授、V. ドゥルラン(1780-1864) ローマへの留学の際にエステ荘で知り合ったD. アングル による肖像画。
  1. もともと「アルカン」は父の名で、姓はモランジュという。モランジュは一族の出身地である村の名から取られている。A. ウォーカーによれば「アルカン」はヘブライ語で「神は慈悲深かりき」を意味する。ユダヤ教の信仰厚く、家父長的な一家が「アルカン」を姓にすることは自然である。
  2. 兄弟の他に姉セルスト・アルカン(1812-1897)がいる。長男アルカン以下、エルネスト・アルカン(1816-1876)、マキシム・アルカン(1818-1897)、ナポレオン・アルカン(1826-1906)。末子のナポレオンはパリ音楽院ソルフェージュ科の教授となり、長男とともに特に著名な音楽家となった。
  3. 公文書では11月30日。
  4. ヅィメルマンについては連載『ショパン時代のピアノ教育』第20回を参照。
  5. ドゥルランVictor-Charles-Paul Dourlen(1780-1864)はパリ音楽院でピアノと音楽書法を学んだ作曲家で、1805年にはフランス学士院が主催する作曲家の登竜門、ローマ賞コンクールで一等賞を得ている。オペラ・コミック座では20年代まで断続的に彼の作品が上演された。12年のソルフェージュ科助教授に就任、16年に教授に昇格してからは42年までの長きにわたり、アルカンをはじめ、多くのピアノ科の学生に和声、スコア・リーティングを教えた。
  6. ラヴィーナJean-Henri Ravina(1818-1906)はボルドー出身で、パリ音楽院で教育を受けたピアニスト兼作曲家。アルカンと同じくヅィメルマン門下の急先鋒として30年代に一躍ピアノ界の寵児となった。アルカンと親しい付き合いがあり、互いに作品を献呈し合ってもいる。
  7. オノレLéon Honnoré (1818-1874)は、フランスはアミアン生まれのピアニスト兼作曲家。彼の作品は殆ど公立図書館に残ってはいないが、30年代半ばにはラヴィーナ、マキシム・アルカンらとともにヴィルトゥオーゾとして活躍した。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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