19世紀ピアニスト列伝

ヤン・ラディスラフ・デュセック 第2回 栄華と零落

2014/03/03
栄華と零落

その才能でドイツ、フランス、イギリス、ロシアへと飛び回り、ヨーロッパ中で喝采を浴びたドゥシーク(デュセック)。マリー・アントワネットの好意に浴するも、革命の混乱を逃れてイギリスに移住。そこでピアノ製造会社の経営に失敗しドイツへ。各地を転々とするその姿はボヘミアン呼ぶ相応しいものでした。再びフランスに戻ったドゥシークは安定した職を得ましたが、それが身を滅ぼす運命の幕開けでした。

ベルリンから、デュセックはサンクトペテルブルクに旅立った。ラジヴィウ侯爵1はここで彼を二年間、リトアニアにある自身の所領に招いた。1786年と88年にデュセックはパリに来て宮廷で演奏した。王妃マリー・アントワネットは大変好意的に彼を迎えた。パリを離れると、イタリアを訪れ、ミラノでいくつもの演奏会を開いた。イタリア人は熱狂的に彼を受け入れ、大歌手に匹敵する喝采を浴びせた。1788年、デュセックはしばらくパリで時を過ごしたが、大革命の微かな轟き、通りの喧騒、迫り来る社会動乱のために彼はイギリスに安全な場所を求めるほかなかった。

彼はイギリスの地で同じような熱狂を目の当たりにしたが、突然、クレメンティのような交渉人になろうという運の悪い考えが浮かんだ2が、彼には几帳面な習慣もなければ厳格な経済的手腕も持ち合わせてはいなかった。自身の芸術たる音楽には熱心だったが、享楽好きで陽気な客人、愛想のよい話好きで、人生を真の快楽主義者と考えるこの気楽な芸術家には、投資家を生み出すような資質が何一つ備わっていなかった。彼は音楽に関する商業活動に、良き経営には不可欠の活気も、一貫した考えも、特別な才覚をも持ち込むことがなかったのだ。この試みは、デュセックにとって深刻な金銭的困窮の種となり、そのために彼は幾多の債権者の追跡を逃れるべくロンドンを去った。1800年、彼はハンブルクに逃避した。

この駆け足の素描を通して、気まぐれで絶えず落ち着きのないデュセックの人生の側面が窺われる。彼の生涯にはまた、現実離れした面もあった。輝かしく人あたりの良いこのピアニストには、ごく当然の成功が付いて回った、あの息をつく間もない旅行の只中で、彼のゆるぎない教養、礼儀正しく上品な作法、途方もない才能、立派な風采は、デュセックに一通り以上の勝利をもたらした。往々にして、天才とヴィルトゥオジティは、精神や美と同じ程度に魅力を発揮するものである。熱狂、過度の感受性、あるいは不堅実な虚栄心―女性的な人はしばしば、大衆の好意を勝ち取った芸術家たちに抗いがたい情熱を抱いてしまうものだ。

デュセックは、同じように人を魅惑していた。ロシアの侯爵夫人の優しい愛情に浴した彼は、後のショパンリストデーラーの様に、また、多かれ少なかれ自ら進んで愛の犠牲者となったその他多くの人々のように、デュレッタント3の賞賛からは遠ざけられ4、二年間、彼の才能がかくも完全に魅了したこの高貴な奥方の支配と領地の中で二年間生活した。

だが、いかに美しい小説にも必ず終わりがあり、最後のページをめくらねばならぬのが常である。互いに倦怠感を抱いたか、正気に戻ったか、この新しいアルミード5は、自らの囚人を旅立たせ、神童は20年ぶりに合う父の元に戻って彼を困惑させた。

これが1802年のことである。続く数年間、デュセックは、プロイセンのフェルディナント王子6の音楽監督、ヴィルトゥオーゾとして仕え、続いて、彼が亡くなると、イーゼンブルク公爵に仕えた。だが、あの恐るべき英雄の時代、中央集権化の時代7にあって、芸術作品も芸術家も、有無を言わさずにパリを目指した。1788年に、彼をフランスに引き止めようとするマリー・アントワネットの慈悲深い懇願を断ったデュセックだったが、1808年の暮、タレーラン大公8から提供された契約を引き受けた。彼は、タレーランの音楽の夜会の主催者兼監督となった。デュセックはつまりかつてのオータン司教9に仕え、パリでその熱っぽい人生の晩年を過ごしたのだ。この契約で、彼には多くの余暇ができたが、これが彼の健康を衰弱させる原因となった。この著名なピアニストは過度に肥満し、身体に障害をきたした。彼は本来、活動的な生活を送ることでこれを抑止しなければならなかったのだ。波乱の人生からくる疲労からにせよ、病的な倦怠からにせよ、デュセックは完全な静養を望んでいた。何もしないで安楽に暮らすことが彼の生活習慣となり、一日の大半をベッドの上で過ごしていた。一方で、この衰弱と無気力を抑えるために、デュセックはスピリッツ10を飲むという有害な習慣を身につけた。
 病気に対して処方された薬が彼の死を早め、彼は1812年3月20日、51歳でパリに没した。

  1. ラジヴィウ家は遅くとも15世紀以降、リトアニア、ポーランド一帯で権勢を誇った大貴族。芸術のパトロンとしても名高く、アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ侯爵Prince Antoni Henryk Radziwiłł (1775-1833)のベルリン自宅にはショパンも招かれた。ショパンの作品3は彼に献呈されている他、ショパンの弟子マルツェリーナ侯爵婦人チャルトルイスカ(1717-1894)も元はラジヴィウ家に出自を持つ。デュセックが関わったのはこの一族のひとりであるが、詳細は現段階では不明。
  2. クレメンティはピアノ製造・販売・出版業を営み成功していた。クレメンティの経営手腕についてはクレメンティ第5回を参照。
  3. 愛好者の意。時に否定的なニュアンスで用いられる。
  4. ショパンは活動の中期から後期にかけて次第に公開コンサートを行わなくなり、限られた貴族のためにサロンで演奏した。上流階級の取り巻きが常に彼を「保護」していたために、一般の愛好家がショパンと接触することは極めて困難であったと言われる。
  5. イタリアのルネサンス期に活躍した詩人トルクァート・タッソ(1544-1595)の戯曲『解放されたエルサレム』に登場する魔女で、十字軍の兵士を誘惑し郡の無力化を図る。グルック、ハイドン、ロッシーニなど、多くの作曲家が「アルミーダ」というタイトルでオペラを書いている。
  6. ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン Louis Ferdinand von Preußen (1772-1806)は音楽愛好家で、自ら作曲もした。デュセックが仕えたのは1804年10月から1806年10月までの二年間。
  7. ナポレオン一世による軍事独裁体制を指す。ナポレオンは1804年に自ら皇帝となり、第一帝政を打ち立てた。中央集権化とはもちろん、帝国の首都パリへの権力集中である。
  8. タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgord(1754-1838)はフランス大革命期から七月王政期に活躍した政治家で、ナポレオン一世の治世下では1808年、フランスに接収されたイタリアのヴェネヴェトの行政を司る大公に任ぜられた。しかし、彼は一度もヴェネヴェトには行かず、パリにいた。
  9. タレーランのこと。1788年から1791年までフランス中部にあるオータンの司教を務めた。
  10. 蒸留酒。ウィスキー、ブランデー、ラム、テキーラなどが代表的。19世紀に精製の技術が発達し広く普及した。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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