19世紀ピアニスト列伝

ジョン・フィールド 第3回:サロンでスリッパはNG

2013/09/20

ジョン・フィールド(1782-1837)
サロンでスリッパはNG

パリの社交界―そこは裕福な市民や貴族が音楽・文芸サロンを開く華々しい都会的な生活空間でした。誰もが流行とエチケットを身に付け、エレガントに振舞う世界。ところが、あるとき貴夫人のサロンに招かれたフィールド氏の振る舞いは・・・

ジョン・フィールドの粗野な性格と凡俗な外見は、ヴィルトゥオーゾ作曲家の輝かしい美点と不快なほど対照をなしていた。彼の姿を見ずに彼の演奏を聴くと時に高尚な様式すら帯びた優美で高雅な着想に魅了された。だが、目をあけるとあの繊細で洗練された演奏、あの驚くべき、ふわりとした音が、あれほど鈍重な外見の芸術家から発せられていることがことのほか意外に思われるのだった。こうしたことは普通ではありえないように思われたし、まるで矛盾であるかのように思われた。あれほどぎゅっと詰まった外見を有するこの偉大なピアニストの想い出を呼び覚ますとき、私は思わず知らずある著名な女性歌手について述べた次の言葉が頭に浮かぶ。「彼女はあたかもヒバリを飲み込んだゾウのようだ」。この冷やかしを向けられた芸術家は、実際大きな体をしていた。だがこの芸術家はジョン・フィールド以上に気品、エスプリ、心の繊細さを持っており、それは身体的な欠陥を忘れさせた。

身体に優美さが欠如していることは、重要度から言って二次的なことである。己の才能と人間関係によって上流社会で生きていくよう定められた芸術家にとって重要なのは、人前では少なくとも、上層階級の礼儀作法と気品を備えていることだ。だが残念ながら、フィールドの場合はそうではなかった。無数の事実から一つを挙げるだけでも、彼が礼儀作法を欠いていたことがわかるだろう。ジョン・フィールドが最後にパリに滞在したとき、彼はドカーズ公爵夫人の豪奢な音楽の夜会に招かれた。フィールドはこの招きにちゃっかり応じた、というのもそれは彼にとってみれば明らかに利益のあることだったからだ。但し、彼はあまりに長い手袋と、あまりにぴちぴちの靴という二重の面倒を身にまとってやってきた。フォブール・サン・ジェルマン1の花飾りがサロンを満たしていた。だが、あまりの暑さにこの著名なヴィルトゥオーゾは窮屈さが募るのを感じて、早々にこの苦痛から逃れたいという気に駆られ、公然とスリッパを履くという妙案を思い付いた。この一件を目の当たりにしたアメデ・ド・メロー―彼は私と同様、フィールドの熱烈な称賛者だった―は、思い切って、この少々度を越した不注意について、この大ピアニストに注意をした。だが彼の善良な心遣いは理解されなかった。それに、もう時間の猶予はなかった。公爵夫人はフィールドに腕を差し伸べてピアノへと導いた。この無作法な芸術家に眉をひそめるたいへんに明敏な来賓の微笑とひそひそ声をよそに、彼はそこで自作のノクターン、一曲のポロネーズ、第3協奏曲で何度も熱烈な喝采を浴びた。

パリに何カ月か滞在しパリ音楽院ホールで幾度か演奏会を開いたのち、ジョン・フィールドは再び放浪の向う見ずな、いくぶんあてのない人生に戻っていった。残念なことに、彼は己の身の過ちが原因で、どこへでも必需品を持ち歩く典型的なボヘミア的芸術家となっていた。彼は既に生活にも骨をおるようになっていた。闘病生活を送り、進歩は殆どせず、酩酊に対する不治の情熱にたえず取りつかれていた。我々は、南フランス、イタリアのほぼ全土、ベルギー、オランダ等々における彼の遍歴を辿ることはしないでおこう。これらの数多くの演奏会で出会う様々な運命は、到底、彼の期待に応えるものではなかった。暴飲暴食によってさらに悪化した彼の過酷な病のために、彼はナポリに滞在した年、一年ほど身動きが取れなくなった。彼は大変な苦境に陥り、やむなくこの街で入院することとなったのだ。彼の才能に魅了され、彼の道徳的、身体的な貧しさに心を痛めたスラヴの上流階級の家族の気遣いで、ジョン・フィールドはロシアに連れて行かれ、数か月の回復期をすごした。その間に彼はウィーンで演奏し、モスクワにやってきて1837年11月に息絶えた。

この人物に対して専ら芸術家として評価を下すために、彼の振る舞いにみられる欠点、弱点、誤りに目をつぶれば、ジョン・フィールドは芸術の歴史において、そしてとりわけピアノの流派のなかで第一級の地位を占めている。クレメンティの愛弟子たるフィールドは、師の美点、指の完全な独立、音の均質性、レガート演奏をすべて体得していた。だが彼の演奏には極めて独特な側面もあった。表情豊かなタッチ、極度の繊細さによって、フィールドはうっとりするような色調の響きを獲得していた。急速な走句に聴かれる軽やかさは比類ないものだった。彼の手にかかると、歌うようなフレーズは、ごく少数のヴィルトゥオーゾだけが見出し得た甘美で優しい感情を示していた。ざらざらした外見の下に、フィールドは感性の偉大なる核心を秘めていたに違いない。それだけ、彼の音楽は魅力、繊細さ、感受性にあふれていたのだから。(A.-F. マルモンテル『著名なピアニストたち』より)

  1. フォブール=サン=ジェルマン:セーヌ川を挟んでチュイルリー宮殿の向かいに位置する地区でおおよそ現在の7区にあたる。19世紀前半のパリは、4つの界隈、すなわちマレ地区、ショセ=ダンタン地区、フォブール=サン=トノレ地区、フォブール=サン=ジェルマン地区によって社交人の階級の住み分けがなされていた。フォブール=サン=ジェルマンは中でも由緒ある貴族が多く住む華々しい界隈で、音楽家がここの住人のサロンに招かれることは大変名誉なことだった。
音源ピックアップ
フィールド『ノクターン』第12番ト長調 H.58D/演奏:根津 理恵子

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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