19世紀ピアニスト列伝

アメデ・ド・メロー 第3回:芸術家と文筆活動

2013/07/25

アメデ・ド・メローの肖像
芸術家と文筆活動

演奏家が作曲家を兼ねていた19世紀、音楽家は自身の経験に基づいて他の音楽家やその作品の価値を判断する「審判者」の役目も果たしていました。その審判は、批評や評論という知的な文筆活動を通して行われました。ベルリオーズやサン=サーンスはそうした音楽家=知識人の代表です。専門性のみならず、幅広い教養を重視するフランスの音楽批評界で、メローは彼らに先駆け文壇で活躍しました。

メローは今後、類を見ない傑出した批評家の見本となるだろう。それは理想的で、学者ぶらず博識で、気取りなく学識を備え、常に反駁を許さないさまざまな比較に基づく判断に立脚した批評家である。才気に溢れ且つ良心を抱き、芸術とは無縁の影響力に縛られない著述家メローは、妥協して自身の見解を述べたり、惜しみなく賛辞を与えたり、反感で何らかの芸術家を悩ませたりすることは決してなかった。批評家としの彼の名は、アレヴィ1、アダン2、ベルリオーズ3に並ぶものである。今日、音楽批評家にも多くの秀でたスペシャリストたちがいる。E.レィエール4サン=サーンス5、ジョンシエール6、スービ(ド・ラモーニュ)7、ゴーチエ8、コメッタン9、その他さらに多くの批評家たちは、いわばメローに連なる系統に属している。彼らは権威と欠かすべからざる公平無私の態度を持って専門的な問題を論じつつも、行き過ぎたり、アゼヴェード10やフィオレンティーノ11、スクード12の持つような偏見に陥ったりすることはない。つまり、才能、知識、良心のある芸術家たちが彼らの芸術に関係する美学上の問題を論じることには、何ら問題はないのだ。アングル13、ドラクロワ14、フロマンタン15、ルソー16は、彼らもまた優れた専門家として絵画の大いなる原理について議論したのである。このように[専門家としての芸術家が議論において]度を越したり、混乱したりするような場合には、専門家でない人間が度を越し混乱した議論をする罪ほどは重くはならないだろう。それは芸術について、その基礎的な原理やもっとも単純な規則を無視して教義を論じるというあまりに凡俗なことなのだ。

ド・メローは少なくとも教養の深い音楽家であったばばかりか、識者という言葉の意味を余すところなく体現した人物だった。彼は知的教養を備えていたが、芸術家たちには概してこれが余りに不足しており、メカニックな手段[=演奏の物理的な側面]は問題ではなく、理想的な美を構成する感情が問題であるのに、教養が欠如しているせいで彼らの様式は一向に洗練しない。

ド・メローは音楽の美学に関する諸問題を非常に高度な水準で論じた。彼の芸術・音楽が道徳的通念に対して持つべき影響力に関する省察や、それらが社会の進歩に与える著しい作用に関する考察は数々の論説や小冊子ではっきりと示されている。これらは、この批評家、思想家の高度な思想的傾向を知る上にはうってつけのものである。

1858年、ルーアンの科学・文芸・芸術アカデミーに迎えられた彼は、1865年にこの協会の会長に任命された。音楽家には極めて稀にしか認められることのないこの栄誉は、この芸術家の性格ならびに博識に対して同時に捧げられた二重の敬意だった。

  1. アレヴィJacques-Fromental Halévy (1799-1862):オペラ作曲家、パリ音楽院作曲家教授。彼の弟、甥は台本作家となり、文筆活動も行ったが、ここでは作曲家兼批評家が話題であるから、有名なジャック=フロマンタル・アレヴィを指すと思われる。アレヴィはオペラ・コミック、ならびに歴史的題材を扱う大規模なオペラ・ジャンル、グラントペラ(grand opéra)で活躍。長らくパリ音楽院作曲家の教授を努め、生徒にはビゼー、サン=サーンス、グノーを指導した。
  2. アダンAdophe Adam (1803-1856):主としてオペラ・コミックの分野で活躍した作曲家。今日ではもっぱらバレエ音楽『ジゼル』で知られる。批評家としては20代のころから活躍し、ドイツ、フランスの音楽雑誌に多数寄稿。父はパリ音楽院ピアノ教授のルイ・アダン(1758-1848)。フランス学士院会員。
  3. ベルリオーズ:『幻想交響曲』などで知られる現在でも有名な管弦楽作曲家。批評家としても葉に衣着せぬ容赦ない批評で知られ、『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカール』紙や『ジュルナル・デ・デバ』などフランスの音楽・文化関連主要紙で専属コラムニストを務めていた。
  4. E. レェールLouis-Etienne-Ernest Reyer(1823-1909):マルセイユ出身の作曲家、批評家。オペラ・コミックの作曲家としてキャリアをスタートしたが、やがて慧眼の批評家として影響力を持つ。当時一般に失敗の烙印を押されたビゼーのカルメンを賞賛し、ラヴェルが望ん三度落選したローマ賞コンクールの審査員としては彼の才能を見抜いたていた。著名な批評家・理論家のドルティーグの跡を継いで『ジュルナル・ド・デバ』紙の文芸欄を担当。
  5. サン=サーンスCharles Camille Saint-Saëns(1835-1921):ピアニスト、オルガニスト、作曲のみならず科学、天文学、文学、博物誌、考古学にも強い感心を寄せ深い造詣を持った。様々な分野知識を駆使し『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカール』紙、『ルヴュ・ミュジカール』紙等で健筆振るった。『学校さぼり』『和声と旋律』など音楽論集も多い。
  6. レジョンシエールFélix-Ludger Rossignol Jonciére(1839-1903) : 作曲家、批評家。画家を志すが早くに音楽に転向、パリ音楽院に学ぶ。ワーグナーを私淑し、その熱意から音楽院を中退。『ラ・リベルテ』紙で音楽時評欄を担当しフランクや旧友のシャブリエの支持者となった。
  7. スービ(ド・ラモーニュ)Emile-Jean-Albert Soubies (1846-1918):歴史家、音楽著述家。法律の勉強を始めるが、音楽を志しパリ音楽院に入学、サヴァールに和声を、F. バザンに作曲を、ギルマンにオルガンを師事。『音楽史』(1875-1915)、『オペラ・コミックの歴史』(1897-1915)など歴史的著作を発表。1876年以降は『ソワール』紙、『劇場芸術評論』紙で盛んに執筆活動を展開。
  8. ゴーチエThéophile Gautier (1811-1872):詩人、劇作家、小説家。評論では絵画、文芸、音楽など幅広い分野で活躍。フランスの官報『モニトゥール・ユニヴェルセル』紙、『ラ・プレース』紙などでベートーヴェンン、モーツァルトウェーバーなどドイツ・オーストリアの作曲家を論じる。同時代の音楽にも敏感でヴェルディ、ワーグナー、ビゼーの舞台作品についても評論を残している。
  9. コメッタンJean-Pierre-Oscar Comettant(1819-1898):ボルドー出身の作曲家、著述家。批評を含む彼の文章は軽快なエッセイ風の文体で音楽家にも広く読まれた。ピアノ関連の著作では『10万台のピアノとプレイエル・コンサート・ホールの歴史』(1890)がある。ピアノ作品も多く、初級から中級者向けの練習曲、性格的なサロン小品を書いた。
  10. アゼヴェードAlexsis Jacob Azevedo(1813-1875):ボルドー出身の批評家、音楽評論家。初め、パリ音楽院にてトゥルーのクラスでフルートを専攻。1846年『ラ・クリティック・ミュジカル』紙を創刊、他の出版社の雑誌『ラ・フランス・ミュジカル』等でも批評を担当。ベルリオーズ、マイアベーアら進取の気象に富んだ管弦楽・オペラ作曲家を痛烈に非難した。
    フィオレンティーノPier Angelo Fiorentino(1806-1864):ナポリ出身の作家、批評家。パリではアレクサンドル・デュマに才能を買われ、一時文筆活動を共にした。パリでは『コルセール』紙、『コンスティテユーショネル』紙などで文芸欄を担当。ワーグナーに対しては強く反対の立場を表明した。
    スクードPaul Scudo(1806-1864):フィオレンティーノと同年に生まれ同年に没したウィーン出身の批評家。パリで数々の雑誌に批評を投稿した。教養深い著述家だったにもかかわらず、偏った批評でベルリオーズら音楽家からは顰蹙を買った。作曲家としてはロマンスなど歌曲を出版している。
  11. フィオレンティーノPier Angelo Fiorentino(1806-1864):ナポリ出身の作家、批評家。パリではアレクサンドル・デュマに才能を買われ、一時文筆活動を共にした。パリでは『コルセール』紙、『コンスティテユーショネル』紙などで文芸欄を担当。ワーグナーに対しては強く反対の立場を表明した。
  12. スクードPaul Scudo(1806-1864):フィオレンティーノと同年に生まれ同年に没したウィーン出身の批評家。パリで数々の雑誌に批評を投稿した。教養深い著述家だったにもかかわらず、偏った批評でベルリオーズら音楽家からは顰蹙を買った。作曲家としてはロマンスなど歌曲を出版している。
  13. アングルJean-Auguste-Dominique Ingres(1780-1867):フランス新古典主義を代表する画家。J.-L. ダヴィッドのアトリエで研鑽を積み、古典に根ざしながらも古典的な人体のプロポーションを独自の美意識に従って変容させ独自の作風を確立。書簡、手帳に書き留められた芸術論が没後に出版された。
  14. ドラクロワEugène Delacroix(1798-1863):フランスのロマン主義を代表する画家。ドラクロワは日記や書簡に自身の美学的立場、絵画論、音楽と絵画の関係について記している。ショパンとの交友はよく知られている。マルモンテルはドラクロワの描いたショパンの肖像画を所有していたと見られ、後に義理の息子アントナン・マルモンテルに遺贈された。その他、マルモンテルは著名なパリの画家の多数の水彩画、デッサンを多数所有していた。
  15. フロマンタン(1820 -1876)Eugene Fromentin:フランスの画家、評論家、作家。ラ・ロシェルに生まれ19歳でパリにつき初めは法律を学ぶ。やがてアマチュアの画家だった父の同意を得て絵画の道に入り、オリエント的な題材を扱う風景がを多く描いた。評論家としては『パリ評論』や『両世界評論』紙で批評や自伝的小説を発表。1862年の『ドミニク』はジョルジュ・サンドに献呈された。
  16. ルソー:Jean-Jacques Roussea(1712 -1778):哲学者ルソーは音楽家、音楽理論家でもある。ルソーは『百科全書』の「音楽」や(芸術における)『様式』の項目をディドロと共同執筆し、音楽やその分類に関する議論を深く掘り下げた。1750年代には「フランス・オペラ」の推進者作曲家・理論家のラモーと対立しイタリア・オペラの様式を擁護した(ブフォン論争)。

(訳・注釈:上田泰史)


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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