19世紀ピアニスト列伝

アメデ・ド・メロー 第2回

2013/07/17

アメデ・ド・メローの肖像

ショパンとも友情で結ばれていたメローは、たびたび自作の共演者としてこのポーランドの青年を自分の演奏会に招きました。彼の活躍したルーアンでショパンの追悼記事を書いたのもメローでした。その他にも、博識に裏打ちされたメローは著名な歌手、一流のピアニスト兼作曲家たちと新興を結び、一躍音楽会の重要人物になりました。テキストの後半は、批評家としてのメローへと話題が移ります。

イギリスの地に滞在する間、ド・メローはマリブラン1、ダモロー両婦人2と二つのコンサートシーズンをこなした。1832年、メローはショパンと何度も『プレ・オ・クレール』3に基づく自作デュオを演奏した。私がこの傑出したヴィルトルオーゾの演奏を聴き、交友が始まったのもこの時期だった。輝かしく非常に正確な彼の演奏は、当時アンリ・エルツが最も優雅に体現していたフランス派よりも、ドイツの流派に由来していた。純粋に古典的なド・メローは、リストが当時既に預言者となっていたロマン主義の一団には与さなかった。ロンドンで、ド・メローは、パリ滞在中に芸術界に輝かしい想い出を残したクララ・ラヴデー4を生徒に持った。

1835年、メローは波乱に富んだヴィルトルオーゾの生活を手放し、ルーアンに定住した。この街で、彼はたちまち人々の遍(あまね)き共感を得た。彼が第一に考えたのは、ボイエルデュー5の想い出に敬意を表することだった。メローは彼の友人であったし、この時も変わることなく彼を熱烈に賞賛していた。彼の発案で、この著名なルーアン市民の心臓を埋葬ための恭しい式典が催された。フンメルフィールドモシェレスカルクブレンナー、メローと友情の絆で結ばれたメローは、ピアニストとしての美点や作曲家としての高度な才能ばかりでなく、音楽著述家、書誌編纂者としての博識、ならびに文学者、博学の音楽家としての多岐にわたる教養で尊敬を集めていた。彼はパリ音楽院で催された専門的な会議では、反論の余地なきその才能の証を幾たびも示すことができた。音楽院で彼は歴史的な音楽について論じたが、その想い出は当時の愛好家たちの記憶に残り続けた。『ルーアン新聞』の文芸欄の編集長に呼ばればド・メローは、この重要な専門紙に新たな威信を添えた。彼の批評や賛辞は、芸術家に対して大きな意味をもった。彼は、芸術家たちに最終的な審判を下すほとんど裁き手のような存在となっていた。

ド・メローは教育に対して非常に際立った好みをもっていたが、それは学者ぶっていたのではなく、芸術の進歩に対する関心から来ていた。彼の幅広い経験、追想、深く掘り下げられた造詣、様々な様式や流派についての理論的知識によって、彼は貴重な御意見番としての教師になった。彼は多くの芸術家の一団を後世に残した。そのいずれもが、素晴らしく、かつ厳格なこの教授の美点を受け継いだ。私が個人的に知っている人物は多い。タルデュー婦人(旧姓シャルロット・ド・マルヴィル)、クララ・ラヴデー嬢、シャリテ嬢、ラコント嬢、ヴェツィネ嬢、サンソン婦人、A・ド・メロー婦人。このメロー婦人は才能と良心、優しく献身的な友であり、その晩年はたいへん気配りの行き届いた心遣いにつつまれて過ごした。マイヨ、マドゥレ、カロン、クライン、アンリ・マルタン、ルシアン・ドートレーム各氏等々もまた、ド・メローのピアノと作曲のレッスンを受けた。

一般に言われているように、芸術批評が、ある派閥がこうむる不利益を顧みず、他の派閥をしきりに褒めるひどく偏った批評家たちに任されている―そんな実情を彼が嘆くのを、私は何度も耳にした。人々は、影響力や支配的な力を持つ権威を恐れている。批評のスペシャリストたちは、こうした影響力や権威を自らの敵、時にはライバルに対して、つまり反対の立場をとることで手に入れるのだ。だが、もし公正かつ好意的であること、そして特定の派閥にだけ肩入れしないことが批評家の最も重要な義務だとすれば、聴衆の審美眼を育んだり新たにこれを作り変える義務を負う批評家たちは、自身がそう判断した理由を提示し、それらを明らかな実例で根拠付けるための十分な実践や技術に関する知識を持っていなければならのではないか?知性から生まれた作品の評価は概して博識な文人に委ねられる。芸術作品も同様に経験を積んだ芸術家によって判断が下されるべきである。その評価は、確かな審美眼やそれまで積んできた来た経験よりも、彼らの頭で判断しようとするうわべだけの批評家の下す評価よりも常に好ましいものとなるだろう。

ルーアン出身の作曲家ボワエルデユー(ボイエルデュー)(1775-1834)の肖像。この肖像を展示しているルーアン美術館には、彼の記念品を展示するコーナーがある。19世紀、ヨーロッパで名声を博した作曲家だけに、ルーアンでは郷土の偉人という扱い。
  1. マリア・フェシタ・マリブラン(旧姓ガルシア) :Maria Felicita Malibran, n?e Garcia(1808-1836) :19世紀前半の伝説的なソプラノ。スペイン人歌手の母とフランス人の父の間にパリで生まれる。1825年、パリのイタリア座でデビュー。ロッシーニの『セヴィリアの理髪師』や『チェネレントラ』など数々の作品で主要な役を演じた。アメリカの演奏旅行中にヴァイオリニストのマリブランと結婚、35年に離婚しベルギーの著名なヴァイオリニスト、シャルル・ド・ベリオと再婚。イタリアではべッリーニの『ノルマ』『夢遊病の女』の上演で観客を圧倒した。
  2. シンティ=ダモローLaure-Cinthie Montalant Cinti-Damoreau(1801-1863) :フランスのソプラノ歌手。1816年、パリのイタリア座でデビュー、程なくプリマドンナの座を得る。モーツァルト、ロッシーニなど、この劇場で上演された数々の名作イタリアオペラでヒロインを演じた。25年からはオペラ座でも活躍。
  3. 《『プレ・オ・クレール』の人気の三重唱曲に基づく4手の幻想曲と華麗な変奏曲》作品34。
  4. クララ・ラヴデーClara Loveday :イギリスのピアニスト。40年代初期にパリに滞在し、ショパン、アルカンらのいるスカール・ドルレアンに住んだ。作品は少なく、一作のみが知られる。
  5. フランソワ=アドリアン・ボワエルデューFrançois-Adrian Boieldieu(かつてはボイエルデューとも発音された。1775-1834) :ルーアン出身の作曲家。歌曲、オペラ、特に『白衣の女』などで知られるが、ボワエルデューは優れたピアニスト兼作曲家でもあり、複数のピアノ・ソナタ、一作のピアノ協奏曲、その他様々な変奏曲などを書いている。一時パリ音楽院でもピアノ科の教授を務めたが、教育者としてはかなりの怠慢だったと伝えられている。彼の教えを受けた優れた音楽家にはマルモンテルの師ヅィメルマンがいる。

(訳・注釈:上田泰史)


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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