19世紀ピアニスト列伝

アメデ・ド・メロー 第1回

2013/07/11

アメデ・ド・メローの肖像

 私たちが今日気軽に手にすることの出来るモーツァルトやバッハの作品。これらの普及は、元はといえば19世紀の造詣深い音楽家たちが愛好家・学習者用に楽譜を編纂したことに始まります。パリに生まれルーアンで活躍した作曲家兼ピアニストのメロー(1802-1874)は厳格かつ想像力あふれる作曲家、古典曲集の編纂者として19世紀のパリで名を馳せました。
 ちなみに、「アメデ」はモーツァルトのファーストネーム「アマデウス」のフランス語読みです。

私がこれから肖像を描こうとしている傑出した人物、恐るべき勤勉家、並外れた批評家の名を書くのは、まさしくそれにふさわしい正当な感情があるからこそだ。本章では、ごく個人的な思い出と、この芸術家に対する同僚としての私の共感が結び合う。それは人生の同じ岐路立つ我々二人の存在をある瞬間に交わらせた奇妙なめぐり合わせの中から選ばれた想い出だ。今から40年前、私はちょうどルーアンに定住しようとしていた。つまるところ、ヴィルトルオーゾとして出かけた放浪の旅に疲れ、ノルマンディーの大都市に住むようになったのがこのメローだったのだ。我々はあの日、同じ人生の転換期に出会った。そして今、私は一人、墓前に立っている。今は亡きこのライバル、この仲間に最後の敬意を表するために。

ジャン=アメデ・ルフロワ・ド・メローは1802年9月18日パリ生まれで貴族出身だった。オラトリオ会でオルガニストを務めていた彼の父は優れた教師で、長らく当時の音楽界のあらゆる著名人と関わりがあった。彼はオルガンとピアノのために多数の作品を書いた。アメデ・ド・メローの祖父は1754年パリ生まれ、やはり優秀な作曲家で、1767年から1793年まで音楽の仕事をしていた。彼の作品には、オラトリオ『エステール』、『サムソン』、複数のカンタータがある。彼はパリ音楽院の原型である国民音楽学校1の教授だった。アメデ・ド・メローの母については、ブロンデルの娘である。このブロンデルは、キャリアの最初のころは弁護士で、王妃マリー・アントワネットの首飾り事件2で訴訟を起こした人物である。その後、彼はラモワニョン・ド・マルゼルブ3の下で国璽尚書秘書官になった。

アメデ・ド・メローの両親は息子を弁護士業に付かせたかったので、彼は非常にしっかりとした文学の教育を受けたが、その一方で彼は父の下でピアノを始め、10歳の時からレイハ4から和声のレッスンを受けた。クレメンティもまたパリ滞在中に彼に助言を与えた。音楽に対する若きメローの優れた審美眼は日を追うごとに確かなものになっていった。彼の両親は、古典教育と専門的な教育をいかに並行して行うことができるかを心得ていた。大きなコンクールの授賞式の日、このシャルルマーニュ中等学校[実際には高校]の生徒は遅刻して厳しい指示によって校門をくぐる事を拒否された。そこで彼はヴィーマン5の博士服に身を隠して入場し賞を受けなければならなかった。

もろもろの勉強を終えたのち、メローは再びレイハの下で対位法とフーガを学んだ。彼の想像力はリショー(父)の出版社から出したいくつもの作品によってはっきりと示された。中でもポロネーズ(作品3)は版を重ねた。ヴィルトルオーゾ、教師としてのメローの初期の成功がきっかけとなって、彼の友人でコレージュの同窓生だった有名な考古学者、シャルル・ルノルマンはボルドー男爵の音楽教師という名誉ある職を彼に得させた。貴族階級の人々に愛されたド・メローは、レカミエ婦人6が取り持つ大変声望の高いサロンの集いに加わるという栄誉に浴した。1830年の革命はこれらの人間関係に終止符を打った。フォブール・サン=ジェルマン7に住むこの貴族はパリに別れを告げ長らくパリを離れ、自分の所領に隠退した。メローはといえば、あの政治的動乱で顧客が各地に散らばってしまった多くの芸術家たちと同じ様にパリを捨てベルギー、イギリスを旅した。


フランスの画家F・ジェラールが描いたレカミエ婦人。
脚注6参照
  1. 1795年に創設されたパリ音楽院は二度の移転を経て現在もパリの19区存続する音楽教育機関。フランス革命期、軍楽隊員養成機関だった国民音楽学校を基盤とし、ここにかつて王家が管理していた王立歌唱学校を統合して成立した。
  2. 2ルイ16世の治世末期、1785年に起きた宝石を巡る詐欺事件。事件を起こしたのはジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人という貴族。彼女は王妃マリー・アントワネットが宝石商ベーマーの制作した贅沢な首飾りに関心があることを知っていた。伯爵夫人はまた、王妃に嫌われていたロアン枢機卿が何とか王妃に取り入られたいという下心を抱いていることも承知していた。この二人の心理を利用して、伯爵夫人は、自分が親しい王妃との間を取り持つからと称し、枢機卿に王妃があこがれていた超高額の首飾りを彼に買わせた。伯爵夫人は王妃にこれを渡すと言いながら、首飾りを分解して各方面に売り払って利益を得た。この一件で民衆には、王妃が人々の苦しい生活をよそに贅沢な首飾りを購入したという噂が広まり、王家への反感をあおる要因の一つとなった。この事件はもちろん裁判沙汰となり、最終的に枢機卿が勝訴した。
  3. ラモワニョン・ド・マルゼルブ(1721-1794) :ルイ15世、16世の下で活躍した行政官。王立検閲局長などを務めた。革命後の恐怖政治下でギロチンに掛けられて亡くなった。
  4. アントン・レイハ(ライシャ) (1770-1836) :チェコ出身の作曲家、理論家。ボンではベートーヴェンの友人(二人は同年生まれ)、後半生はパリ音楽院の作曲科教授として教育と理論書の執筆の力を注いだ。『高等作曲法』(1826)はドイツのA.B.マルクス、チェルニーの理論書と並び、ソナタ形式を図式的に理論化した初期の書物として知られる。近年は彼の独自色の強いオリジナル作品の再評価も進んでいる。ピアノ曲では、その名に反してかなり自由な形式で書かれた『36のフーガ』が重要。
  5. アベル=フランソワ・ヴィーユマンAbel-François Villemain (1790-1870) : [同校修辞学の教授、後に政治家]
  6. ジュリエット・レカミエJuliette Récamier (1777-1849) : 19世紀の社交界で最も有名な女性の一人。リヨンのブルジョアの家に生まれ銀行家のジャック・レカミエと結婚。美貌と才知を兼ね備えた彼女のサロンは作家・詩人シャトーブリアン、ラマルティーヌ、バルザックや舞踊家タルマ、哲学者クーザンら一流の名士たちが集った。
  7. 19世紀前半のパリは、地区によって社会階級ごとの住み分けが成されていた。チュイルリー宮殿の南に位置するフォブール・サンジェルマンは、宮仕えの貴族が住むこともあり上流階級の地区。現在の7区にあたり、現在でも高級住宅街である。

(訳・注釈:上田泰史)


上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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