19世紀ピアニスト列伝

アンリ・エルツ 第4回:作曲家、演奏家としてのアンリ・エルツ

2013/03/12
作曲家、演奏家としてのアンリ・エルツ
アンリ・エルツの肖像(フランス国立図書館Gallicaより転載)
アンリ・エルツの肖像
(フランス国立図書館Gallicaより転載)

今日はマルモンテルによる19世紀のピアノ音楽家列伝『著名なピアニストたち』から「第4章 アンリ・エルツ」第4回。今回は作曲家、演奏家としてのエルツ。流行のオペラや旋律を使いながら独自のエスプリを散りばめた彼の演奏は時に高尚な感覚すら与えたと言います。エルツの才能の本質を見極めるには、オペラや歌曲の旋律を彼がどのように扱い、いかに演奏したのかを研究しなければ、その魅力を解き明かすことはなかなか難しいでしょう。さらにマルモンテルはショパンが「ピアノの詩人」ならエルツは「ピアノの弁護士」だという当時の評に疑問を呈し、反論を試みています。

アンリ・エルツの作品は数多く、様式も様々であらゆる難易度の曲を含んでいる。特記に値する作品を列挙するには、長大な目録が必要になるだろう。この大家の全作品は作品番号にして250に上る。この膨大なコレクションの中から何を選ぶにしても、避け難く辛い犠牲を払うことになるのはやむを得ない。とりわけ人気のある曲の中から、以下のものを記そう。[ロッシーニのオペラ]『チェネレントラ』に基づく幻想曲1、[カラファの]『ヴィオレッタ』に基づく変奏曲2、[ガイユのロマンス]『私のファンシェット』に基づく変奏曲3、ロマンス『ジョゼフ』のに基づく変奏曲、[歌曲]『ちいさな太鼓』4による変奏曲、『スイスの一家』に基づく変奏曲5、[ロッシーニの]『コリントの包囲』に基づく変奏曲6、[オベールのオペラ]『大使夫人』による幻想曲7、[オベールの]『黒いドミノ』に基づく幻想曲8、[ドニゼッティの]『連隊の娘』による幻想曲9、[ロッシーニのオペラ]『オテッロ』に基づく幻想曲10、[エロールのオペラ]『クレルクの草原』による変奏曲11、『ウィーンのレントラー』に基づく変奏曲12等々。8つの協奏曲は重要な作品であり、様式の気高さと大変熟練した仕上がりとが一つに結びあっている。上品で多様な形をとる走句は絶えず輝かしく見事に運ばれてゆく。オベールに献呈されたソナタは卓越した作品である。アンリ・エルツは大変易しい程度から超絶的な難度のものまで、8つの練習曲集を書いた。彼の18曲の最後の大練習曲13は、趣味と大ブラヴーラ様式のモデルであり続けている。彼はまた、ラフォン14と共同でヴァイオリンとピアノのための協奏的二重奏曲を作曲した15

私は、ヴィルトゥオーゾとしての人気絶頂期にあるアンリ・エルツの演奏をしばしば聴いている。私はまた、彼の流派の特徴的な長所のいくつかを自分のものにしようと試みたものだから、私が彼の生徒であると思う人もいた。私はつまり、事情を良く知った上で、ピアニスト兼作曲家の中で最も人気のあるこの大家、ピアノのオベールと当然のように言われたこの大家の演奏法やスタイルを評価しているのだ。ド・ジラルダン婦人16は、ロネー子爵[ジラルダンのペンネーム]の機知にとんだ文芸欄のなかで、著名なピアニストたちと社会における幾つか職業を比較している17。アンリ・エルツのために選ばれた社会的地位のタイプとは、ピアノの弁護人であったが、つまり絶えざる変奏を伴うあらゆる主題に基づいて随意に刺繍を施す才気あふれる音楽の弁士ということだった。これは正当な評価と言うよりもうわべだけの評価である。アンリ・エルツは、表面的な話上手や、時間通り几帳面に動くのではなく、驚くほどの流暢に、比類なきまでに高雅に、見事な音楽言語と大家たちの語彙をもって話す輝かしい即興演奏家だった。彼のスタイルは常に的確で輝かしく、やすやすと高貴さに、そしてしばしば高尚さに達していた。彼の協奏曲のアンダンテは極めて美しいページを含んでおり、一流の作曲家の霊感を受けた息吹が流れている。

アンリ・エルツの演奏の個性は常に優雅さ、エスプリ、優れた気品、抑制された表現にあった。非の打ちどころのない彼のヴィルトゥオジティは、あの驚くべき明瞭さ、最も困難な走句におけるあの透明感、大演奏家に欠かすべからざる美点を何ら失うことなく超絶的な難技巧に取り組むことができた。アンリ・エルツは卓越した左手を持っており、それは音楽の語り口のなかで活発できわめて興味深い役割を担っていた。今日では、多くのピアニストは、この左手、つまり生まれながらにして右手の双子姉妹であり、右手の補助である姉妹を軽視しているが、それも彼らのことだ、当然のことである。

  1. 『ロッシーニの「チェネレントラ」のカヴァティーナに基づく変奏曲』作品60(1831)
  2. 『カラファの「ラ・ヴィオレット」の人気のカヴァティーナに基づく華麗な変奏曲(軍隊風序奏とフィナーレ付)』作品48(1829)
  3. 『歌曲「私の素敵なファンシェット」に基づく華麗な変奏曲』作品10(1823)
  4. 『人気の歌曲「小さな太鼓」に基づく華麗な変奏曲』作品41(1828)
  5. 『ヴァイグルの「スイスの一家」の主題に基づく大変奏曲』作品6
  6. 『ロッシーニの「コリントの包囲」のギリシア人の合唱と行進による変奏曲』作品36(1827)
  7. 『オベールの「大使夫人」のモチーフに基づく幻想曲』作品95(1837)
  8. 『オベールのオペラ「黒いドミノ」のモチーフによる華麗な幻想曲』作品106(1839)
  9. 『ドニゼッティのオペラ「連隊の娘」の有名な行進曲による軍隊幻想曲』作品163(1850)
  10. 『ロッシーニのオペラ「オテッロ」の行進曲に基づく幻想曲と変奏曲(管弦楽伴奏付)』作品67(1832)。
  11. 『エロールの「クレルクの草原」の人気の三重唱に基づく華麗な変奏曲』作品76(1834)
  12. 『ウィーンのレントラーに基づく演奏会用変奏曲(序奏とフィナーレ付)』作品92(1837)
  13. 『18の演奏会用大練習曲』作品153(1846)
  14. シャルル=フィリップ・ラフォン(1781~1839):フランスの著名なヴァイオリニスト兼作曲家。
  15. アドルフ・アダンのオペラによる二重奏曲。作品96。
  16. ジョゼフィーヌ・ド・ジラルダン(1804~1855)フランスの著名な文人、ジャーナリスト。彼女の文芸批評のみならず、音楽の批評も数多く手がけている。
  17. ここで問題にされているのは1845年に出版されたジラルダンの記事の掲載された韻文。「ピアノのおいて、タールベルクは王、リストは預言者、ショパンは詩人、エルツは弁護士、カルクブレンナーは吟遊詩人、プレイエル夫人は巫女、デーラーはピアニスト」。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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