19世紀ピアニスト列伝

ステファン・ヘラー 第3回:ヘラーの作品概観

2013/02/07
ヘラーの作品概観~性格小品に融合された、独仏のエスプリ
S.ヘラー(1813-1888)の肖像
S.ヘラー(1813-1888)の肖像

今日はマルモンテル『著名なピアニストたち』の第三章、「ステファン・ヘラー」の第3回。シューマンの薫陶を受けショパンを私淑したパリのドイツ人ステファン・ヘラー。彼はシューマンがしたように文学的題材に霊感の源泉を求め、また森や自然を題材としたドイツロマン主義の色合いを帯びた作品を書きました。19世紀ドイツのピアノ音楽は当時フランスの識者たちの間で高く評価されましたが、一般には広く知られてはいませんでした。そんな中、パリの作曲家となったヘラーはベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマンらの様式を自らの手で翻案し、独特の淡い色合いを加えながら性格小品に昇華させました。

ステファン・ヘラーは、自身の芸術に対して絶えず純粋な無償の愛と、豊かで清らかな情熱抱き、心に宿すはただ気高い着想ばかりであった。平凡な霊感や安っぽくありふれた受け狙いは彼の眼中になく、彼は確信をもって己の道を歩んだ。まさにこのようにして、彼はあの独創的で詩的で心に染みわたるような魅力ある全作品を書くことができたのだ。そこには繊細で洗練された香水のように、彼の好んだ大家シューマンメンデルスゾーンショパンの反映がただ移ろっていく。実際、これをステファン・ヘラーが内心に秘めた崇拝と呼んでも差し支えない。彼はそれでもなお、音楽の神々たるバッハハイドンモーツァルト、グルック、ウェーバーベートーヴェンに対して情熱と尊敬の念を抱いていた。それは[画家の]アングル1がこれらの天才を賛美したのに匹敵するほどのものだ。

彼がピアノのために書いた作品は全体として重要なものである。いずれの作品にも様式に卓越した美点が認められる。気高い感情のこもったいくつもの上品な着想は、類稀な才能によって提示され展開されているのだ。そこに見出されるのは、ヴィルトゥオーゾの手腕と言うよりは、むしろ交響曲作曲家のそれである。ヘラーは独特のリズム語法をもっており、創意工夫に富んだ華麗な、あるいは軽妙な線で音楽のフレーズを縁どる仕方たるや、きわめて個性的である。彼の和声はどこまで突き詰めても非の打ちどころがなく、健全な性質、率直かつ誠実で甘ったるさや気取りのない霊感、控えめで力強く、誇張を避け、美辞麗句を用いずに処理することのできる気質が感じられる。

ヘラーメンデルスゾーンショパンフィールドと同様に、新しいタイプの性格小品のを創った。彼の《孤独者の散歩》2、《森の中で》3、《眠れぬ夜4、《私の部屋を巡る旅》5は、甘美で節度を備えた真の詩である。これらの作品では、音楽的霊感が比類なきまでに気高い霊感を湛えながら、詩や風俗的絵画と肩を張り合っている。こうしたいくつもの小品は、多様な感情と様々な性格をもち合わせた小さな傑作である。音の響きの中で心の琴線は悉(ことごと)く打ち震え、優しくうら淋しい、感動的な音を奏でる。奥深い背景のなかで幻想の精霊界が移ろい行く。優美さ、活気、優しさ、苦悩、平穏、絶望、あらゆる心のほとぼり、対照的な情熱の表現、我々の感情の広大な領域を成しているあらゆる色調―あれら作品の中では、これらが儚く、あるいは長く尾を引いて木霊(こだま)している。それらの作品の霊感は比類なき高みへ飛翔しながらも、決して彷徨(さまよ)うことなく自らを制している。

《4つのアラベスク》6、《ヴェネツィアの情景》7、《セレナード》8、《ボレロ》9は極めて独創的な性格的小品である。ステファン・ヘラーによる幾つもの《練習曲集》と《前奏曲集》10は教育のなかで別個の位置を占めている。《フレージングの技法の予備練習曲集》11、《フレージングの技法(新しい練習曲集)》 は趣味と様式を備えた素晴らしい作品である。ベルティーニの練習曲集の著しい成功に続いて、この40年の間にサロン用練習曲集、風俗画風練習曲集、表現の練習曲集、敏捷さの練習曲集といった数多くの練習曲集が生み出されたので、多かれ少なかれ音楽的なこれらの作品を分類するために一冊の本が必要になるだろう。だが、この[練習曲の]大洪水の只中で、超越的な価値を有する作品を見分けなければならない。ヘラーの力強い個性は、こうした競争の中で勝利を収めるばかりであった。彼の個性は、根本的な点で現代の凡庸さからは明らかにかけ離れていた。

ステファン・ヘラー《眠れぬ夜》の表紙
ステファン・ヘラー眠れぬ夜》の表紙
ヘラー『《眠れぬ夜》』作品82より第11曲「諦め」(演奏:中村純子)

18曲から成る小品集。『ピアノ曲事典』で全曲視聴可。
【脚注】
  1. ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780~1867): 19世紀フランスの新古典主義を代表する画家。ヴァイオリン愛好家としても知られる。フランス語で「アングルのヴァイオリン」といえば「下手の横好き」の意味だが相当な腕前だったという。ローマ賞受賞者が訪れる同地のヴィッラ・メディチのディレクターになったことも音楽家との交流を深めるきっかけとなった。音楽家を描いたものの中ではパガニーニ、スタマティ一家の肖像が有名。
  2. 《孤独者の散歩》Promenades d’un solitaire作品78(1851), 80, 89。ジャン=ジャック・ルソーの著作の『孤独な散歩者の夢想』から霊感を受けた連作の無言歌集。作品78はマルモンテルと彼の音楽院での同僚フェリックス・ル・クーペに献呈。いずれも6つの小品から成る。他に《孤独な散歩者の夢想》作品101がある。
    《森の中で》Dans les bois 作品86, 128, 136。こちらは友人シューマンの《森の情景》作品82の翻案というべき作品。作品86と128は7曲の組曲、作品136は6曲よりなる。
  3. 《眠れぬ夜》Nuits branches 作品82(Paris: M. Schlesinger, 1853)。
  4. 《私の部屋を巡る旅》作品140(Paris: Maho, 1876)。ヘラー後期の作。5曲からなる小品集。
  5. 《4つのアラベスク》Quatre arabesquesOp. 49(Schlesinger, 1844)。
  6. 《ヴェネツィアの女》VénitienneOp. 52のことか?
  7. 《セレナード》Sérénade Op.56(Paris :Brandus et Cie, 1846)。
  8. 《ユダヤの女、アレヴィの歌劇のモティーフによるボレロ》La juive, boléro sur un motif de l'opéra de Halévy Op.32を指すと思われる。
  9. ヘラーには少なくとも5集の前奏曲集(作品79, 81, 117, 119, 150)がある。中でも最も規模が大きいのは《24の前奏曲集》作品81。
  10. 《フレージングの技法》L'art de phraser Op.16。ドイツでは「旋律的練習曲」という副題とともに出版された。
  11. 25の旋律的練習曲25 études mélodiques Op.45(Paris, M. Schlesinger, 1840)。パリ、リヨン、ベルリン、ミラノの各都市で出版され、ヘラーの名を一躍有名にした。現代の日本でも全音出版社から出ている。

上田 泰史(うえだ やすし)

金沢市出身。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学修士課程を経て、2016年に博士論文「パリ国立音楽院ピアノ科における教育――制度、レパートリー、美学(1841~1889)」(東京藝術大学)で博士号(音楽学)を最高成績(秀)で取得。在学中に安宅賞、アカンサス賞受賞、平山郁夫文化芸術賞を受賞。2010年から2012まで日本学術振興会特別研究員(DC2)を務める。2010年に渡仏、2013年パリ第4大学音楽学修士号(Master2)取得、2016年、博士論文Pierre Joseph Guillaume Zimmerman (1785-1853) : l’homme, le pédagogue, le musicienでパリ=ソルボンヌ大学の博士課程(音楽学・音楽学)を最短の2年かつ審査員満場一致の最高成績(mention très honorable avec félicitations du jury)で修了。19世紀のフランス・ピアノ音楽ならびにピアノ教育史に関する研究が高く評価され、国内外で論文が出版されている。2015年、日本学術振興会より育志賞を受ける。これまでにカワイ出版より校訂楽譜『アルカン・ピアノ曲集』(2巻, 2013年)、『ル・クーペ ピアノ曲集』(2016年)などを出版。日仏両国で19世紀の作曲家を紹介する演奏会企画を行う他、ピティナ・ウェブサイト上で連載、『ピアノ曲事典』の副編集長として執筆・編集に携わっている。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会研究会員、日本音楽学会、地中海学会会員。

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