ショパン物語

第042回 マリヤのその後

2005/06/03
ショパン物語 第42回

1、スカルベック家ショパンの父ニコラはフランス生まれだが、1787年、16歳の時にポーランドへ移住する。教養があるニコラは、1802年にスカルベック家の家庭教師に雇われ、そこでユスティナと出会い、1806年6月2日に結婚し、伯爵家の離れに住む。1807年には、長女のルドヴィカ・ショパンが生まれ、1810年には長男フレデリック・ショパンが生まれる。フレデリック・ショパンの代父となったのは、フレデリック・スカルベック、代母となったのは妹のヴィクトリア・スカルベックである。
そのフレデリック・スカルベックは1792年生まれで、ショパンの代父(名付け親)となったのは18歳のときである。ただショパンの洗礼のときは、パリに留学中で、その場には立ち会えなかったという。フレデリック・スカルベックは、家庭教師にきていたニコラ・ショパンにフランス語を習ったり、いろいろと教育を受けたようであり、スカルベック家とショパン家は、深いつながりがあるのである。

2、マリヤについてワルシャワ蜂起後、ジュネーヴに住んでいた頃は、テレサ夫人の開くサロンには貴族や芸術家達が出入りしていたが、その中にはルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)もおり、マリヤに恋心を抱いていた。マリヤはかなりモテたという。

3、マリヤのその後ユーゼフ・スカルベックと結婚したが、ユーゼフとは1846年に夫の不能を理由に離婚が成立する。(離婚成立を1848年とする説もあり、2年間揉めていたとも考えられる)1848年に使用人と再婚し、フィレンツエへ移住する。マリヤは息子をもつが、(ショパンと同じ結核で)4歳で亡くなり、その後、子供には恵まれなかったらしい。夫は1881年に亡くなり、マリヤは、ポーランドに戻り、1896年77歳で亡くなる。

4、マリヤの再婚相手となる使用人名はヴワディスワフ・オルピシェフスキという。スカルベック家で働く小作人、使用人だった。が、ある説によると、オルピシェフスキはクウゥプカの所有地、財産を相続しており、容姿は色白でなかなかハンサムであり、教養も高く、文学と詩の才能に恵まれた人物であったらしく、小作人というよりは、秘書のような立場にいたのでは、ということも想像できる。移住したフィレンツエでは、ポーランド語とフランス語で文学と詩の創作をしていたという。ショパンと同じような肺の病気を患い、健康には恵まれなかったようである。1820年生まれ、1881年で移住先のフィレンツエで亡くなる。


林 倫恵子(はやしりえこ)

漫画家・ピアノ指導

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