ショパン物語

第010回 パリでのデビュー 

2004/02/27
ショパン物語 第10回

1、当時のパリ政情不安が続いていたが、音楽家、画家、文学者達が集まり芸術的で文化的な都市であった。そして、革命失敗から逃れてきたポーランド人も非常に多かった。ショパンにとっては、同郷のポーランド人たちがたくさんいて、少しは寂しさがまぎれたようだ。

2、パリの政治的状況ウイーンではワルシャワ蜂起が原因でポーランド人は敵視され嫌われてしまったが、そんなウイーンと対立する政治的状況下にあった7月革命以後のパリでは亡命してきたポーランド人を好意的に受け入れていた。
ショパンの恩師に宛てた手紙にも「ワルシャワで起こったことは、ウイーンでは僕の立場を不利にしましたが、パリでは逆に有利になるだろうと思います」と書かれている。

3、リストたちとの出会いパリ・デビュー演奏会の前に、ショパンはすでにリストとは1831年の秋に会って交友していた。メンデルスゾーンとも、1831年の12月にメンデルスゾーンがパリに来た時、ヒラーの紹介で会っていたという。

4、コンスタンツア結婚ショパンは「コンスタンツアが結婚した」と、妹のイザベラからの手紙で知ったらしい。
甘い初恋は終わったのであった。

5、プレイエルピアノ楽器の製作者プレイエルはショパンお気に入りのピアノだったという。
ティトゥスへの手紙にも「プレイエルのピアノは完全無欠だ」と書き送っている。

6、デビュー演奏会まで2度の延期1度目は、女性歌手の手配がつかなかったためである。当時、演奏会は複数の演奏家が出演することになって、女性歌手の出演は必須だった。
2度目は、当時パリで最高の名声を誇っていた大ピアニストのカルクブレンナー(彼がショパンのデビュー演奏会の手助けをしてくれた)が病気になって出演できなくなったからである。

7、デビュー演奏会曲目当時のプログラムには「ピアノ協奏曲」とだけしか記されていないが、ピアノ協奏曲ホ短調を弾いた、と言われている。また、オーケストラとの協奏でなく、弦楽五重奏の伴奏だったとの説がある。あるいは、オケ・パートを編曲したピアノ伴奏で弾いたか、ピアノ独奏用に編曲して弾いた、という見方もあり・・・要するにオーケストラはなかったらしい。
そして、協奏曲ホ短調を先に発表したので、ホ短調の方が「協奏曲第1番」になり、ホ短調より前に作曲されたヘ短調が「第2番」になってしまったという。


林 倫恵子(はやしりえこ)

漫画家・ピアノ指導

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