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19世紀初期の「ダブルシャープ」「ダブルフラット」攻略法
掲載日:2012年10月27日

 昨日のクイズでは、嬰イ長調という不思議な音階をご紹介いたしました。


図1

記譜上は、調号に7つのシャープと3つのダブルシャープがつくという複雑な音階ですが、「嬰イ(A♯)」は「変ロ(B♭)」と異名同音(音の名称は異なるが、実質的には同じ音高)ですから、ピアノで弾いた場合、変ロ長調と聴いた調子は全く変わりません。しかし、なぜこんな非実用的な音階が19世紀のピアノ教則本に掲載されたのでしょうか。

● 19世紀初期のパリ音楽院とピアノ・メソッド
そもそも、この教則本は1804年、創設されて10年あまりを迎えたパリ国立音楽院が、作曲、理論、声楽、器楽を含むすべての科目の専門的なメソッドを確立するというプロジェクトの一環として編纂されたものでした。18世紀までは、楽器製作や劇場オーケストラの楽器演奏家はフランス人よりもドイツ人が幅をきかせていた上に、一人の奏者が二つ以上の楽器を兼務するという慣行がありました。
 フランス革命と共に産声をあげたパリ国立音楽院は、フランス人に対する無償の専門的な音楽教育を理念に掲げていましたから、各専攻の専門性を高めるためにこのような個別的なメソッド編纂が目論まれたのです。ピアノのメソッドは、ルイ・アダン教授に委ねられ、1804年に会議で採用が承認されました。


図2 ルイ・アダン(1758~1848)

● 複雑な調号の音階を用いた理由
 このメソッドには、現代人が「ハノン」で親しんでいる音階以外に、7つ以上の♯がつく長音階が3つ(嬰ト長調、嬰ニ長調、嬰イ長調)、7つ以上の♭がつく長音階が一つ(変ヘ長調)、同じく短音階が一つ(変ニ短調)掲載されています。


図3 変ヘ長調の音階。調号は7つの♭にダブルフラット♭♭が一つ。

その一方で、嬰ホ短調(♯7つ+ダブルシャープ一つ)のように、調号にダブルシャープのつく♯系の短音階は表示されていません。このことは、アダンが複雑な調号の音階を提示した謎を特上で重要な鍵となります。短調の音階では、例外はありますが原則的に第七音が半音高められます。例えば、イ短調では「ト音」にシャープがつきますね。この原則をシャープ系の短調に適用したとき、♯5つ以降の短音階の第7音には必然的にダブルシャープが付くことになります。


図4 ♯5つの嬰ト短調。「ヘ音」にダブルシャープがつく。

ここから、アダンが、ダブルシャープの既に出てくる音階については、わざわざ長音階で行ったように、ダブルシャープを含む新奇な調号を用いようとは考えなかったということがわかります(例えば嬰ホ短調など)。
 これで謎は解けたようなものです。アダンは、生徒に「ダブルシャープ」や「ダブルフラット」の読譜に慣れさせるためにこのような非実用的な音階を教則本に導入したのです。実際、メソッドの初めの部分でアダンはダブルシャープのついた音が全音上の音と同じで、ダブルフラットのついた音が全音下の音と同じであるということを、懇切丁寧に解説しています。


図5 アダンの『メソッド』(1804)より。記譜上は名前の違う音でも、鍵盤上では同じ音であることを解説している。

● 調性に関する理論的思考から生まれた音階練習
この発想は、1804年のメソッドの原型となったアダンとラクニートの共著『フォルテピアノのためのメソッド、あるいは運指の一般原則』別のメソッドにも見られます。


図6 アダン, ラクニート『フォルテピアノのためのメソッド、あるいは運指の一般原則』 (1789)の表紙

 このメソッドは、1789年にパリ音楽院の教育監察委員会によって教材として使用することが決定されています。当時の監察委員会の長は後の音楽院院長で対位法の大家として知られたルイジ・ケルビーニでした。彼の理論家としての視点から、生徒はダブルシャープ、ダブルフラットを含む記譜にも十分に馴染む必要があるという意見がなされたのかもしれません。
 調号にダブルシャープがつく音階は1835頃の音楽院メソッド第二版でもなお存続していますが、以後このような練習課題は見られなくなります。たしかに、ただ「嬰イ長調」の音階練習するだけでしたら、複雑な楽譜を読まなくたって、「変ロ長調」と同じように指を動かせばそれで済むわけですから。
 しかし、譜読みの訓練を意図してであっても、「嬰ト長調」や「嬰イ長調」などという発想が提示されたこと自体は興味深いことです。音楽院でアダンにピアノを師事したカルクブレンナーという作曲家は、若いドイツの音楽家ステファン・ヘラーが弟子入りを希望した時に、後述テストだといって「30個のシャープがつく調を答えよ」と問うたそうです。「30」という数は明らかにヘラーによるユーモラスな誇張ですが、アダンのメソッドを勉強していれば、この当時音楽家の口からこれに近い言葉が発せられたとしてもおかしくはありません。

● 「理論的には可能な調」の実作品における使用例
 パリ音楽院に学んだ作曲家で、「嬰イ長調」を実作品で使った人物がいます。シャルル・ヴァランタン・アルカンです。


図7 シャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)

1813年生まれのアルカンは演奏ももとより和声、対位法に長け、歴史的造詣の深い著しく知的な音楽家でした。彼が1847年に作曲した《大ソナタ: 4つの年代》作品33の第二楽章「ファウストのように」はゲーテの戯曲『ファウスト』から着想を得たソナタ形式の楽章ですが、 後半に登場する嬰ヘ長調(シャープ6つ)のフゲッタは最後には「嬰イ長調」至ります。


図8 《大ソナタ: 4つの年代》作品33、第二楽章「ファウストの如く」より、フゲッタの末尾。半音階的な声部進行のために、「トリプルシャープ」のような臨時記号も現れる。

一見シャープとダブルシャープの大洪水ですが、整理すれば「シャープ7つ+ダブルシャープ3つ」の調号で読むことができ、システマティックに書かれています。最後の段に「Le Seigneur」という表示が見えますがこれは「主たる神」を意味します。「ファウストのように」という表題によって示唆された一連の音楽的叙述の中で、このフーガは神の救済、魂の浄化など、神聖なイメージを喚起させるプロセスに位置づけられます。このイメージを際立てているのは、より上位の♯系の調への転調です。ここでは音楽理論上の調的「上昇」が巧みに音楽の物語的な足取りと結び付けられているのですが、とりわけ通常では使用されない「嬰イ長調」を使用することで、世俗性(=使用頻度の高い調性)からの乖離が際立てられています。ここで印刷会社の手間を考えて「嬰イ長調」ではなく変ロ長調を使うと、せっかくのコンセプトが台無しです。
 アルカンの例は非常に稀有な使用例であり、教育的な実用性とはかけ離れたところで「嬰イ長調」を用いています。しかし、理論的な思考から導き出された「嬰イ長調」という発想自体は、いかにもアカデミックですし音楽院的な発想です。この点では、アダンもアルカンも、根本的にはアカデミズムに根ざしていると言えます。
 従来の音楽史には登場しなかった19世紀の作曲家たちの作品や活動を探求していると、ピアノ教育、音楽理論を始め、まだまだ興味深いトピックが山積していることが分かってきいます。『PTNA ピアノ曲事典』は多様な視点から過去を眺めつつ、前人未到のピアノの世界への扉を開く力になるべく、今後も努力していきたいと思います。(上田)
執筆者:上田 泰史 
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