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【今日の一曲】ヨハン・バプティスト・クラーマー《84の練習曲》より第34番 ヘ短調
掲載日:2012年5月3日

【今日の一曲】ヨハン・バプティスト・クラーマー《84の練習曲》より第34番 ヘ短調
*要録音曲 Youtube外部音源を検索:[Cramer Etude n.43]

今年3月、東京芸術大学出版会から『幸田延の「滞欧日記」』という本が出版されました。幸田延(こうだのぶ、1870~1946)は文豪幸田露伴の妹で、日本の洋楽受容の歴史においてはピアニスト、ヴァイオリニスト、作曲家として、また東京芸大の前身、東京音楽学校の教授として有名です。この本に収められている日記は、明治42年から明治43年(1909~1910)までの一年間、ベルリン、ウィーン、パリ、ロンドンに滞在する間に書かれたもので、各地の主要な音楽家や音楽教育家との交流、著名なピアニストの演奏会や音楽学校の試験を参観して得た感想などを鋭い言葉で生き生きと綴った貴重な証言集です。

1910年4月10日の日記に綴られたこんな一節が目を引きました。「ツェルニー、クラマー、クレメンティ。これらの3人のCを自分のものにすることが出来るなら、その人は何かを成し遂げ、ひとかどの者になることができる。」

「ピアノ3C」の内、今日の日本で親しまれているのは練習曲で知られるチェルニー(ツェルニー)とソナチネで知られるクレメンティですね。彼らが教育者であると同時に優れた見識をもつ一流の作曲家だったことは、以前彼らの作品を取り上げた際にお話ししました。残るCはクラーマーですが、彼のことを知っている人はぐんと減ると思います。日本では『クラマー=ビューロー:60の練習曲』という教材でかろうじて名前が残っています。これは「クラマー=ビューロー」さんの曲ではなく、ヨハン・バプティスト・クラーマー(1771~1858)が1804年と1807年に出版した84の練習曲から、フランツ・リスト弟子ハンス・フォン・ビューロー(1830~94)がによってずっと後になって60曲選んで出版したものです。

「84の練習曲」は、指の訓練を主な目的とした最初期のピアノ練習曲集として歴史的に重要な位置を占めています。以前ご紹介したクラーマーの先生クレメンティの《パルナッソス山への階梯》はたしかに教育用の作品ですが、中にはフーガやノクターンのようないろいろな様式の曲が100曲入っているので、指のメカニックな側面に特化した練習曲というよりは演奏・作曲法の見本として、総合的な音楽能力を養うためのモデルと言えます。この点、近代的なピアノの為にかかれた「指の為のエチュード」はクラーマーから始まった言っても過言ではないでしょう。

クラーマーの演奏は多くの音楽家を魅了しました。ベートーヴェンとその高弟リース、ハイドン、フンメル、モシェレス、メンデルスゾーン、リストら当時殆ど全ての著名な演奏家との交流の中で培ったピアノ演奏技法は19世紀前半のピアノ演奏技法に大きな影響力をもたらしました。ショパンの生徒だったウィルヘルム・フォン・レンツは晩年のクラーマーの演奏を聴いてそのぎこちなさに幻滅していますが、これは老化と演奏の趣味の変化から来るものだったはずです。若かりし頃のクラーマーは一世を風靡したピアニストでした。ベートーヴェンはクラーマーを当代最高のピアニストの一人と見なし、自分のソナタへの最良の導入として、クラーマーの練習曲を選んでいます。プラハ出身の高名なピアニスト兼作曲家イグナーツ・モシェレスに言わせれば彼のレガートは「モーツァルトのアンダンテをほとんど声楽に変えてしまう」ほど美しいものだったと言います。

幸田延はクラーマー誕生してから99年後に産まれています。女史が1910年に日記にクラーマーについて書いた時、クラーマーが亡くなってからまだ52年しかたっていませんでした。こんな時代に日本人がヨーロッパでクラーマーについて語っているのを見るのはなんだか不思議な気がしますね。

今日の一曲は《84の練習曲》から第34番です(「クラマー=ビューロー」の43番に該当する曲です)。クラーマーが親しんだスカルラッティやJ. S. バッハらバロックの作曲家の様式で書かれたトッカータの書法による短い練習曲です。手が重なるように演奏されるので、両手の音量、音色の均質性が演奏のポイントになってきます。写真はクラーマーの肖像です。(上田)

楽譜はこちら
http://imslp.org/wiki/Studio_per_il_pianoforte_(Cramer,_Johann_Baptist)
執筆者:上田 泰史 
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