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【第4章:アンリ・エルツ-最終回】
掲載日:2013年3月19日

今日はマルモンテルによる19世紀のピアノ音楽家列伝『著名なピアニストたち』から「第4章 アンリ・エルツ」最終回です。皇帝ナポレオン三世が統治したフランス第二帝政期(1852~1870)以後、パリでは急激な都市化に伴いピアノ文化の大衆化が急速に進み、オペラの主題などに基づく長大で技巧的な幻想曲や変奏曲よりも、小規模で手頃なサロン向けの小品が数多く出版されるようになりました。そんな時代あって、1803生まれのエルツは協奏曲、ソナタ、オペラの主題による幻想曲を書き続け、自身のスタイルを貫きとおしました。エルツが出版した最後の作品は33歳も年下のビゼーが作曲したオペラ『カルメン』の主題による変奏曲でした。それでも「時代遅れ」との批判を浴びなかったエルツの美点をマルモンテルは誠実に描き出そうとしています。

演奏家・作曲家として、エルツクレメンティフンメルモシェレスの偉大な流派に由来していることは極めて確実である。彼がバッハ、ヘンデルのフーガを演奏すれば類稀な完成度と細部の見事な仕上がりを示すので、彼のクラスの生徒たちならエルツがこれらの大家に著しい愛着を抱いていると断言することができるだろう。サロン、演奏会用に書かれたエルツの数多の作品は、一見、こうした力強く厳格な音楽とは相容れないように見える。だが、アンリ・エルツの作品全体を掘り下げようとして注意深く楽譜を読む人は、軽い見かけをもつこれらの作品の和声の織り目に、芸術の偉大な伝統の中で教育された対位法の力強い横糸を見出すことになるだろう。

ソナタ、主題変奏曲、大規模な幻想曲はもはや過去のものとなった。ノクターン、パラフレーズ等々は時代遅れになりつつある。ただ、果敢な芸術家の小さな一団だけが交響的な協奏曲の中に表現と大様式1を求めている。流行はといえば、いわゆる「ジャンルの」曲2、性格小品、表情豊かな小品、描写的小品等々と声楽・オーケストラの編曲作品が占めている。人々は純粋で飾り気のない着想を求めているのだ。趣味が変化し、用いられる形式が変わったということで、実際、芸術に何か利することはあったのだろうか?実のところ、純粋で高尚な様式を保存し、絵画的で描写的なジャンルを流派の伝統に結び付けることの出来た何人かの類稀な強い個性の芸術家は別として、作曲家の芸術は著しい退廃をこうむったのだ。作曲言語の正書法を知らないあらゆる種類の音楽家たち、まさに彼らこそ、仰々しくてうぬぼれた、馬鹿げた肩書を求めることに躍起になって、センスもなければ面白みもなく、文法と良き趣味に背いた不正確な語彙で書かれた惨めな音楽にレッテルを張っているのだ。

アンリ・エルツに関して、彼は新しい流行に追従することはなかった。同じような変奏曲を繰り返し作曲し、生涯変わることのない型の中に同じ主題、同じ題材を溶かし込んだ多くの芸術家が当然受けるべき非難を、彼は受けることがなかったのだ。いかなる作曲家も、このジャンルにおいてもはや発明することはなく、意識的に革新をもたらそうと努めることはなかった。我々はいつの日か、専門的な概論の中で、エルツによって創られ大衆の中に投じられたあれらの多種多様な刺繍音、幾千の創意に富んだ走句―無数の「模倣者」たちはそれらを盗みに来た―を吟味することができるようになるだろう。

アンリ・エルツは、自身の作品とその成果を自らへの報いと考える偉大な先覚者たちの系譜に属している。彼の集めた名誉、ヴィルトゥオーゾとしての国際的な成功、作曲家としての人気、工場長として受けた高い尊敬、苦労して得られた大きな富、あらゆる人々の敬意、玄人たちの称賛、芸術界での特別な地位、こうしたもののおかげで、エルツはかつてと同じように気取りなく謙虚で、好意的であり続けた。この芸術家の美しく知的な顔立ちは、運命の試練と時の侵害に耐えた。その容貌は飾り気なく厳格な線を保ち続け、非常に好感のもてる誠実さを湛えている。そして清らかな横顔によって、彼の容貌は、今日もっとも気高く、同時に愛されている人相となっている。


1 19世紀フランス音楽の文脈では大様式le grand styleとは、作曲の模範としての地位を獲得した古典的様式のことを指す。パレストリーナ様式などがその例。
2 19世紀中葉から後半にかけて、フランスでは「ジャンルの小品」「ジャンルの練習曲」などと題する作品がしばしば書かれた。これは絵画における「ジャンルの絵」から来る表現で、17世紀より、芸術的地位の高いとされた歴史画に対して卑近な事物を描いた絵画がこう呼ばれた。19世紀にはネガティヴなニュアンスは薄らいでおり、音楽では自然や心理描写に関する言葉をタイトルに掲げた小品に用いられた。

(文・訳・注:上田泰史)
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