ホーム コンクール ステップ セミナー コンサート 指導力アップ ピアノ教室紹介 ピアノ曲事典 読み物・連載

【作曲家としての誇り〜最期】
掲載日:2013年1月8日

【作曲家としての誇り〜最期】

今日ご紹介するのはマルモンテル『著名なピアニストたち』の第一章、「F. ショパン」から、ショパンの自作品に対して抱く誇り、そして1849年秋に亡くなったショパンの葬儀の印象を綴った部分です。


芸術への深い愛からか、過剰な自意識からか、ショパンは自身の楽譜のテクストに手が加えられるのが許せなかった。ほんのちょっとした変更でさえ彼にとっては重大な誤りに思われたし、そのようなことは彼の近親者にさえも許されることはなかった。ショパンの熱烈を賞賛していたリストでさえ例外ではなかったのだ。私は、師のヅィメルマン1 と同じように、音楽院のコンクール課題曲としてショパンのソナタ、協奏曲、バラード、アレグロ2 を生徒たちに演奏させた。だが、課題曲を抜粋に限って演奏させなければならなかった3 私は、こうした改変を紛れもない冒涜だと見なすショパンを傷つけてしまうことを思うと心苦しくなる4

ショパンは姉の腕に抱かれて、1849年10月17日に息を引き取った。彼女は、永遠の光に向かって開いた扉を乗り越えるのを手伝って欲しいという弟の呼びかけに応じてワルシャワから駆けつけたのだった。ショパンの葬儀は10月30日、パリのあらゆる著名人、ポーランドから移住した名家の人々を含む選り抜きの群衆を前にしてマドレーヌ寺院で執り行われた。時は流れたが、モーツァルトのミサ曲《レクイエム》、ルベール5 がこの哀しき式典の為にオーケストラ編曲したショパンのソナタ 作品35の葬送行進曲が掻き立てたとてつもない印象は今でも感動とともに蘇ってくる6 。一度目の繰り返し部分に現れるぎこちないバスの執拗な動きの悲痛な効果に、心は締め付けられた。だがトリオの形式次に続く長調の愛すべきフレーズが突き刺すような現実苦しみをすぐに忘れさせ、永遠の歓喜を夢見させてくれた。本文



訳注
1 ピエール=ジョゼフ=ギヨーム・ヅィメルマン(1785~1853):パリ音楽院ピアノ科でマルモンテルを指導したパリの著名な作曲家、教授。ショパンがサン=ラザール通りのスクアール・オルレアンに住んでいたとき、ヅィメルマンも同じ住宅に住んでいた。ヅィメルマンのサロンはショパン、リストを含めパリに来たヨーロッパ中の著名な音楽家が集まる芸術サロンとして有名だった。
2 《アレグロ・ド・コンセール》作品46のこと。形式的に実質上の協奏曲なので、パリ音楽院の試験では好んで演奏された。
3 パリ音楽院のコンクール(修了選抜試験)は多くの学生が参加するので、協奏曲など、楽章が抜粋で演奏された。
4 マルモンテルは1848年にヅィメルマンの後任としてパリ音楽院ピアノ科教授に就任。ショパンがなくなったのはその直後であるから、実際に生きているショパンにマルモンテルが「心苦しく」なるわけではない。亡きショパンを思いやっているということ。
5 アンリ・ルベール(1807~1880)。フランスの作曲家、パリ音楽院教授。ショパンは教育者としてのルベールに信頼を置いていた。死の床で未完のメソッドの遺贈先としてあげたのはアルカンとこのルベールだった。
6 これらの作品の他、ショパンの前奏曲がオルガンで演奏された。演奏したのはヅィメルマン門下のピアニスト、オルガニスト兼作曲家のルフェビュール=ヴェリー(1817~1869)
訳・文・注釈:上田泰史
 次の記事へ
【ウィーンの街角より】1. ワルツで迎えるニューイヤー
掲載日:
 前の記事へ
【クイズの答え】
掲載日: