土田先生講義リポート2

ハイドンとモーツァルトの対比、モーツァルトの歌心と人間味

表現に関して客観的な視点でとらえ、常に聴衆を驚かせたり楽しませるために工夫を凝らすハイドン。それに対して、「曲の中に入り込んで心の中を訴えかけている印象」と土田先生がいうモーツァルト。それは音楽のどのような箇所に現れているのだろうか。土田先生はハイドンと対比しながら、モーツァルトの音楽を分析していく。するとそこには、いかにも人間味にあふれ、自らの音楽と寄り添うように存在するモーツァルト像がいた。


ハイドンとの対比における、モーツァルトの人間味

(1)モーツァルトのいたわりの表現

モーツァルトの歌心は、非和声音の扱いと、サブドミナントでのいたわりの表現に現れている。
ピアノ・ソナタKV545第2楽章(譜例)は、モーツァルトならではのIVやIIの和音での表現が散りばめられている。8小節フレーズの終わりには常にいたわりのあるサブドミナントからドミナントへの進行が現れる。また他のモーツァルト作品と同じく、倚音が多い(7小節目~、15小節目~など)。かなりの頻度で非和声音を散りばめながら、様々なバリエーションで歌っている。ピアノ・ソナタKV280第1楽章も同じように、倚音と、小節数を多くしたサブドミナントでのいたわりの表現がある。

ピアノだけでなく、歌劇にもモーツァルトの表現手法に共通性がある。歌劇「魔笛」KV620(第15曲アリア「この聖なる殿堂には」)では、何とS(D2)→D→Tの同じようないたわりの表現から開始される。これはハイドンの朗らかで大胆な表現とは異なる。

◆譜例 モーツァルト:歌劇「魔笛」KV620 第15曲『この聖なる殿堂には』

ここで土田先生はハイドンとモーツァルトを明確に対比させるために、「ハイドンのソナタNo.41 Hob.XVI/26第1楽章をモーツァルト風に書いたら?」という創作実験を行った。モーツァルトならではのいたわりの表現(S(D2)→D→T)の美しさを実感したところで、ハイドンの原曲を対比させると、面白いほどハイドンのユニークさが浮き彫りになる。モーツァルトがサブドミナントで美しく収めるのに対し、ハイドンはさらに乗じてくる傾向があり、同じリズムへの固執、変奏による音型の強調、音価の変化、偽終止と、ハイドンらしさがてんこ盛りである。モーツァルトのいたわりと対照的に、ハイドンは運動性が勝っている印象である。

(2)モーツァルトの、間

厚い和音でのサブドミナント、そしてその後の間は、モーツァルトにとって何を意味しているのだろうか。ソナタKV279第1楽章(2小節目)、またソナタKV311第2楽章(3小節目)には厚い和音でのサブドミナント、そして後者には16分休符が置かれている(譜例)。この休符には様々な意味がこめられている。
歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」KV588(第23曲二重唱「このハートをあなたにあげよう」)にも、厚いサブドミナントの表現が何箇所もあるが、このサブドミナント後の休符にはいろいろな表情や仕草が含まれている。それを想像しながら弾くとより表情豊かになる。同じような事例として、幻想曲KV475(87小節目)、ソナタKV457第1楽章(45、50、140小節目・・)などが挙げられた。
こうしたサブドミナントの表現をモーツァルトは自然に何気なく行うが、ハイドンには意図が感じられる。

(3)ピアノも、オペラのアリアのごとく

モーツァルトにとってピアノソナタや協奏曲などの器楽曲も歌劇も、表現の源流は同じであり、その音楽的発露の共通性が至るところにある。


メロディの共通性

ピアノ・ソナタKV311第3楽章 16小節目からのユニゾン(譜例)は、歌劇「フィガロの結婚」KV492(第1幕より第10曲「もう飛び回ることもできないぞ、かわいい蝶々よ」の5~6小節目)と類似している。また同ソナタ43~44小節目、51~52小節目などは、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」KV527(第23曲アリア「どうぞ私におっしゃらないで」3・4小節目、7・8小節目)、また歌劇「魔笛」KV620(第2幕冒頭より第9曲「僧侶たちの行進」の3・4小節目)に似た表現が見られる。

◆譜例 モーツァルト:ピアノ・ソナタKV311第3楽章 16小節目からのユニゾン

3度のハモリ

モーツァルトの美しい3度のハモリは、ピアノ・ソナタKV332第2楽章(10~11小節目)やピアノ・ソナタKV457第2楽章(2~3小節目)、ピアノ・ソナタKV333第2楽章(冒頭)に見られるが(譜例)、同じく歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」KV588のテノールとバスの二重唱(第21曲「やさしい風よ、手を貸しておくれ」も3度のハモリで共通する。 


オーケストラの表現

ピアノ・ソナタKV284第1楽章は、冒頭からオペラの序曲のような展開を見せている(譜例)。ここで土田先生は8小節目から歌劇「フィガロの結婚」KV492序曲に、9小節目から歌劇「ドン・ジョヴァンニ」KV527序曲に繋げる、という実験を行った。すると全く違和感なくこれらのオペラの序曲に繋がるのである!

またピアノ・ソナタKV309第1楽章を、協奏曲仕立てにするという実験も行われた。土田先生があらかじめ用意したオーケストラパート(シンセサイザー)に、先生ご本人がピアノソロで共演。するとモーツァルトがSoloとTuttiの表現をピアノ作品においてどのように描き分けたかが明確になった。そしてオペラのアリアやデュエット(あるいは少人数)は主観的表現、合唱やオーケストラなどは客観的表現であると説明された。


(3)待ちきれなくて・・・先取音!

モーツァルトの先取音が散見されるピアノ・ソナタKV333。第1楽章1小節目4拍目(譜例)には左手に先取音(G)が現れるが、これには「待ちきれなくてつい・・」というニュアンスが感じられる。これは楽章間で共通している傾向である。第2楽章5小節目、第3楽章冒頭にも出現し(I→II→V7)、そこにモーツァルトの人間味がにじみ出ているようである。

土田先生と川崎さんの2台ピアノ

講義の最後にはピアノ・ソナタKV333第3楽章を、ピアノコンチェルトとして2台ピアノで共演(プリモ:川崎槙耶さん)、そして冒頭で紹介した2曲を用いて、ハイドンをモーツァルト風に(ソナタNo.60 Hob.XVI/50第2楽章)、モーツァルトをハイドン風に(ソナタKV310第2楽章)デモンストレーション演奏。改めて「ハイドンとモーツァルトの表現方法には、こんなにも違いがあったのか」と大いに納得した。


なお講義後、土田先生は「ピアノ作品だけでなく、交響曲やオペラなどにもぜひ触れて頂きたい」とさらにアドバイスを述べて下さった。また土田先生と共演した川崎槙耶さんは、「土田先生と楽しく合わせることができました。モーツァルトは好きだけど、弾く時は頭をとても使います。そこがモーツァルトの良さでもあると思います。土田先生のお話は以前聞いたことがありますが、ハイドンは客観的な表現で、モーツァルトは自分が泣いたり楽しんだりと主観的に表現されているということが、今日の講座を聞いてさらに理解できました。」と感想を述べてくれた。

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