ピティナ調査・研究

<第18回>審査結果発表

演奏とコンクール
金澤 攝
<第18回>審査結果発表

さて、チャイコフスキー・コンクール一次予選審査結果発表の日を迎えます。

音楽院大ホールのステージに審査員が立ち並び、その前で誰だったか担当者が合格者の番号と名前を読み上げていったように思います。そして、私の名が挙がることはなかったのでした。

あれだけの準備をして臨んだプロコフィエフをはじめ、ストラヴィンスキーも自作曲も、モスクワの地に響かせる機会が閉ざされたことに、私は言いようのない絶望を感じました。結局、弾きたかった作品は殆ど弾かせてもらえず仕舞でした。

正直なところ、二次予選さえ出場できれば、後はどうなっても構いませんでした。仮に私が入賞できたとしても、その後ベートーヴェンだのショパンだのを繰り返すステージ・ピアニストになる気がないのははっきりしています。第一、そうした力量も適性も持っていません。

自分の写真がコンサートのチラシや、レコード・CDの表紙に載ることすら嫌いな性格なので、レコード会社や音楽事務所の意を受けて、営業スマイルを保持しつつ、クラシックのヒット・ナンバーを何百回と繰り返し弾いて回ることなど、私にはあり得ない芸当です。

こういった活動は、それが苦にならない人がするべきで、一般的な演奏家としての資質に欠けていることくらいは、自分でも分かっていました。

それなら何でチャイコフスキー・コンクールに出たのか、という点を今一度はっきりさせておくと、2つの理由からです。

第一に自分が共感する発掘作品の価値を伝えられるだけの力量を持つため。第二に独学の成果がどの程度のレベルにあるのかを知るためでした。これらの思いを後押ししたのがアントン及びニコライ・ルビンシテインへの尊敬とシンパシーだったということです。彼らへの思いは今も変りません。

ところで、私は落胆しながらも中村紘子氏に目をやると、驚いたことに中村氏はステージ上で大観衆の前にもかかわらず、客席の私を正面から見据えて頻りに深く頷いています。「あなたはこれで良かったのよ」と云わんばかり。私は恥ずかしいやら忌々しいやらで顔を上げることができませんでした。

発表が終わってホールを出た時、人混みの中、多分何かを伝えようと通路前方から近づく中村氏の姿がわかりましたが、私は無視してその前を通り過ぎました。誰とも話したくありませんでした。

その後の記憶が定かでないのですが、覚えているのは、ソ連大使館の方が我々の滞在費を尋ねて、その全額をソ連の通貨で払い戻してくれたことです。私がこの国から受けた恩義は、いづれお返ししたいと念じています。

以上で私のチャイコフスキー・コンクール体験記が終るかと思いきや、このあと予想外の「第二幕」が展開し、審査の内情が開かされることになります。
(2019.3.27)

この連載について

金澤攝氏の連載記事「音楽と九星」第一部では、たびたびピアノ演奏のあり方に関わる提言がなされていました。このたび開始する連載「演奏とコンクール」は元々、同連載の第二部に入る前の「コラム」として構想していましたが、短期連載へと拡大して、掲載することになったものです。金澤氏は音楽家として長年にわたり、千人以上におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究し続けています。ピティナ・ピアノ曲事典は、氏が音楽史を通観する「ビジョン」を大いに頼ってきました。その金澤氏がコンクールに関わっていたのは約40年前、コンテスタントとしてでした。現在はピアノ指導には携わっておらず、続く本文でも言及されているように、昨今の音楽コンクールの隆盛ぶりに驚かれています。その金澤氏による「コンクール」論は、コンペティションにピティナ会員の方々には新鮮に感じられるかもしれません。共感されるかもしれませんし、あるいは異論・反論を述べたくなるかもしれません。この連載では、まずは氏の提言を連載しますが、「演奏とコンクール」は多くの音楽家にとって切実なテーマであるはずです。ゆくゆくは様々なコンクール関係者、ご利用される方々にも寄稿をお願いし、21世紀における「コンクール」ひいては「ピアノ演奏」のあり方を考えていく契機にしたいと考えています。(ピティナ「読み物・連載」編集部 実方 康介)