ピティナ調査・研究

<第14回>出場を前に

演奏とコンクール
金澤 攝
<第14回>出場を前に

ゆっくりと階段を降りて来た中村紘子氏は、途中で歩みを止めて「あなたのレコードを聴きました」と語りかけてきました。
しかし、コンクール参加者と審査員の会話は禁じられています。「何で声をかけたのだろう」と思っていると、要するに録音内容を褒めてくれたのでした。特に自作についてだったと思います。

自作と言っても、中学生の頃に書いた習作ばかりなのですが、それでも中村氏はこれらからも、私を「作曲家」と認識していたことになります。

私は「そうでしたか。それはどうも」くらいの返事と会釈で、その場を離れました。

この一分程の出来事が、中村紘子氏と面会した最初で最後となりました。

今回のコンクールに臨むにあたって、私が心に決めていたのは、他の参加者の演奏を一切聴かない、ということでした。ピアノが聴こえそうな所へはなるべく近寄らず、自分と周囲を遮断することで、何らかの影響を受けたり、人と競合する感覚を消し去ろうと努めました。

恐らく参加者の多くは、先生の指導を遵守し、誤りなくそれを実現できるよう、励んできたのでしょう。私には、こうしたコーチと選手のような関係性は、スポーツならともかく、芸術の表現性において、根本的なルール違反だと感じます。本人の自発的な主張や創意が疑われてしまうからです。子供のコンクールとは訳が違います。

結局、私にとって「チャイコフスキー・コンクール」は、コンクールへの挑戦というより、「コンクール」そのものへの挑戦だった気がします。

「学校」という選択肢を拒否したことで、私にはピアノや作曲に関わる友人など一人もいませんでした。そして憧れた先人はバッハやモーツァルトではなく、役ノ行者や弘法大師といった方々です。実際、私が自作を献呈していたのは、地蔵菩薩、千手観音、釈迦如来といった諸仏であって、同世代の人たちが音大へ行っている頃、私は数珠と金剛杖を手に各地を巡拝していたのでした。

そうした中での自己研鑽が、一体どういうレベルにあるのか。私にとってコンクールは、自らの位置を確認するための場でした。

そして迎えた演奏当日、私は自分の直前の出場者の演奏すら耳に入りませんでした。

舞台袖の控室には思いがけず、ニコライ・ルビンシテインの写真が掲げられていて、これに力を得た私は、あがることなく出番を待ちました。こうした大舞台を前にして、過度のプレッシャーから発狂したピアニストの話を、カパルキナさんから聞いていました。国の威信を背負って出場する参加者は、入賞か落選かでその後の人生の明暗が分かれるわけで、音楽とは無関係の、コンクールが持つ本質的な残忍さには怒りを覚えます。

出番を前に私が考えたことは、これまでの練習を全部忘れて、今までやらなかった表現に思い切り挑んでみよう、というものでした。無謀なようでも、それがその時の思いの真実であり、それ以外にない、と感じました。

ついに出番となって扉が開き、ステージへ出ると、眼前にはむせ返るような満員の聴衆。今までここで何が起きていたのか、知らないのは私だけです。(続く)
(2018.11.23)

この連載について

金澤攝氏の連載記事「音楽と九星」第一部では、たびたびピアノ演奏のあり方に関わる提言がなされていました。このたび開始する連載「演奏とコンクール」は元々、同連載の第二部に入る前の「コラム」として構想していましたが、短期連載へと拡大して、掲載することになったものです。金澤氏は音楽家として長年にわたり、千人以上におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究し続けています。ピティナ・ピアノ曲事典は、氏が音楽史を通観する「ビジョン」を大いに頼ってきました。その金澤氏がコンクールに関わっていたのは約40年前、コンテスタントとしてでした。現在はピアノ指導には携わっておらず、続く本文でも言及されているように、昨今の音楽コンクールの隆盛ぶりに驚かれています。その金澤氏による「コンクール」論は、コンペティションにピティナ会員の方々には新鮮に感じられるかもしれません。共感されるかもしれませんし、あるいは異論・反論を述べたくなるかもしれません。この連載では、まずは氏の提言を連載しますが、「演奏とコンクール」は多くの音楽家にとって切実なテーマであるはずです。ゆくゆくは様々なコンクール関係者、ご利用される方々にも寄稿をお願いし、21世紀における「コンクール」ひいては「ピアノ演奏」のあり方を考えていく契機にしたいと考えています。(ピティナ「読み物・連載」編集部 実方 康介)