音楽における九星

第一部<第8回>相尅 I ― 金尅木

2017/12/13
◆ 第一部
<第8回> 相尅 Ⅰ ― 金尅木

かつて作曲家の松平頼則氏から聞いた話です。1950年代のことと思われますが、東京交響楽団の山田和男(一雄)氏が松平作品を指揮する機会がありました。そのリハーサルに立ち会った作曲者は、自分がもっとさりげなくやって欲しいところを、指揮者が思い入れたっぷりに振るのが気に入らず、「そこはそういう風にしないで」と何度も注意したところ、指揮者は怒りを爆発。
「うるさい!作曲家なんかさっさと死んじまえ!」

これが「相尅」です。七赤と三碧が演じた「金尅木」――でした。同じく山田耕筰(六白)が深井史郎(三碧)を殴りつけたパターンもこれに当ります。

自分が相手を責める五行関係(殺気)にある場合、人は不思議と狂暴になります。悪気はないのに、軽い冗談のつもりが、相手を傷つけたりしがちです。尅気で負かしてしまう五行の相手に対し、言動に注意して労りを心がけることは、人間関係で最も大切なことの一つです。この相手を鋭い口調で責めると、思っている何倍もの負荷が相手にかかっていることを知る必要があります。

ところが立場が逆転して自分が責められる側になりますと、この相手(死気)と折り合うのはかなりの気力を要します。何気なく痛いところを突かれますし、相手が穏やかな性格であっても、なぜか対応に振り回されたり、説明にくたびれたりするので、心からリラックスできる関係にはなりにくいのです。ただし、十二支など他の条件によって、尅気がほとんど気にならなくなるケースはあります。

しかし、先の松平氏に対する山田氏の暴言を改めて振り返ってみると、相尅現象を介して、作曲家と演奏家の立場が持つ、宿命的な意味を考えさせられます。

演奏家が作曲家の意図に忠実であることが、望ましいのは自明だとしても、指揮台から転落するほど情熱的な指揮が身上の山田氏には彼なりの美学があり、恐らくは経験上、そうしたアプローチが、より聴き手の共感を得るという勝算があったと思われます。単に一般受けが問題なのではありません。

結局、その作品をどう表現するのがベストなのか、このことを純粋に慮る時、作曲家とは別の、演奏現場における真実が生じます。この二つの真実は、音楽作品を社会に伝える上での"両親"と言うべきものです。

楽譜がそのまま、小説のように社会に受容されれば問題は無いのですが、やはり音楽は演奏家という"アダプター"が必要な以上、作曲家は「もう一つの真実」を受け入れざるを得なくなります。さもなければ自ら演奏すべきでしょう。

演奏家が「原典版」の楽譜さえ使用すれば、作曲家の意図に忠実だと考える程度のレベルでいいのかどうか。時には作曲家の向こうを張って、作品の"片親"としての気概を持つ表現者であって欲しいものです。
(2017.11.21)


◆この連載について
作曲家でピアニストの金澤攝氏は数千人におよぶ作曲家と、その作曲家たちが遺した作品を研究対象としています。氏はその膨大な作業に取り組むにあたって、「十二支」や、この連載で主にご紹介する「九星」を道しるべとしてきました。対人関係を読み解く助けとなる九星は、作曲家や、その人格を色濃く反映する音楽と関わるに際して、新たな視点を提供してくれるはずです。「次に何を弾こうか」と迷っている方、あるいは「なぜあの曲は弾きにくいのだろうか」と思っておられる方は、この連載をご参考にされてみてください。豊かな音楽生活へとつながる道筋を、見出せるかもしれません。 (ピティナ読み物・連載 編集長)
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