編曲と音楽、その歴史

【コラム】「編曲」との関わり方

2018/08/24
コラム 「編曲」との関わり方
編曲から見る「クラシック」音楽受容再考

今日、私たちが「クラシック」を鑑賞または演奏する時、次のような姿勢が第一に思い浮かぶのではないでしょうか。

  1. 全楽章通して演奏する/聴く
  2. 決まった楽器で演奏する/演奏されるのを聴く
  3. 楽譜に忠実に演奏する/演奏されるのを聴く(またはそうした「オリジナル」「原典)に忠実」な演奏を求める姿勢)

以上の三点は、作品に敬意を払い、真摯に音楽作品と向き合うために、とても大切で尊重したい姿勢です。オリジナルや原典資料をないがしろにしてはいけないし、作曲家のオリジナルに込めた意味や意図は無視するべきではないでしょう。繰り返しになりますが、作品のオーセンティシティやオリジナル資料、作曲家の意図は重要です。それをことさらに軽んじるのは良くないと筆者は考えます。

しかし、上にあげたような演奏や、そうした演奏を最優先とする聴き方から外れることは、果たして不誠実で誤ったものでしょうか?「唯一絶対の作曲家の意図」という理想を普遍の基準とする音楽の受容方法は、作品が作曲された当時の音楽の在り方を反映するものだと言えるのでしょうか?むしろ、「普遍的な作曲家の意図」に即した音楽の実現に最も重きをおく姿勢は、19世紀後半以降に盛んに行われた、作曲家の「作品全集版」の編纂や、伝記研究を通して優勢になった作品受容の形態です。、作曲家が生きた時代背景とは別個の、「独立した理想の作曲家像」が形成される中で、作品受容のあり方もまた、新たに作られてきたのです。現代の私たちは歴史的に固められた受容の枠組みを継承しているからこそ、「作曲家の意図」という理念と、作品と私たち受容者が繋がる現実的な側面をバランスよく意識する必要があるのではないでしょうか。

作曲者が作品に込めた意図やオリジナルの芸術性を尊重する姿勢を前提とした上で、ここでは、作品の「現実的な姿」のあり方として、これまで述べてきた編曲の役割や効果を次のようにまとめてみましょう。

  • 音楽の市場経済を回す(出版社、作曲家、編曲者の経済的要求を満たす)
  • 受容者・演奏者のニーズに応える(自分に合った作品の演奏形態の選択、レパートリーの拡大、新しい上演可能性、編曲を通した学習など)
  • 作曲家・編曲者の芸術活動の一端を担う(作曲時に断念したアイディアを再活用する、新たな創作意欲、様々な響きの探求を可能にする)

こうして18世紀から19世紀初期における「編曲」の在り方に目を向けると、編曲は、人々と音楽との付き合いにおいて、より現実的な位置にあるように思われます。
現在の演奏会において、声楽曲や器楽曲をオリジナルの編成から変えた「編曲」で演奏することは、演奏活動全体からすれば一般的ではないかもしれません。しかし「オリジナルの形を変えて演奏」する、という事柄自体は、実際は広く行われているように思います。例えばオーケストラを倍管編成で演奏する、歌曲の声部を変えるなどの実践は、現代の演奏会でも、編曲ほど珍しいことではありません。さらに言えば、クラシックとは対照的に、ポピュラー音楽の分野ではオリジナルがより自由に、多様にアレンジされ、広く受容されています。

オリジナルを唯一絶対の「閉じられた」完成形とみなしたら、このような演奏状況はあり得ない話でしょう。しかし、そもそも音楽は上演を必須とする再現芸術です。演奏とは、本質的に、たとえ楽譜が原典資料を調べつくした「オリジナル」に近い楽譜に基づくものであっても、絶対不変の上演というものはありえません。例えばバロック時代の通奏低音や協奏曲のカデンツァなど、その場その場で変わる不確定な要素、つまり再現芸術だからこそ演奏者に任されて変わる部分も多くあります。これが、音楽の実践的側面の本質なのです。

こんにちと比べると、18世紀や、少なくとも19世紀の初頭はもっと「クラシック」音楽も自由に受容されていたように思われます。例えば、交響曲も全楽章続けて演奏されないで、楽章ごとに切り離して演奏されることもありました。勿論、どんな作品でも楽章を分割して演奏して構わない、と言いたいのではありません。ベートーヴェンの《交響曲》第5番「運命」を一部の楽章だけ取り出してしまえば、最終楽章へ志向する楽章間の有機的関連が失われてしまいますし、シューベルトの弦楽五重奏曲D956も、楽章を切り離してしまうと第1楽章冒頭と第4楽章末尾の和声的繋がりが意味を成さなくなってしまいます。

しかし、時と場合によっては、複数の楽章から成る作品から一部の楽章を切り離す行為は、作曲家自身も認めていました。綿密な主題操作を行ったベートーヴェンでさえ、出版社アルタリアの求めがあったとはいえ、自分の弦楽四重奏曲から終楽章だけを取り出して、「大フーガ」として別個に出版しています。ピアノのための「アンダンテ・ファヴォリAndante favori」も単独で出版されていますが、これも元は「ヴァルトシュタイン・ソナタ」作品53の緩徐楽章でした(後者は新たに「イントロドゥツィオーネIntroduzione」という終楽章への、遅いテンポの導入部へ書き換えられました)。

このように作曲家自身が、少し乱暴な言葉で言えば「切り取り」を認めていたケースもあるのです。「序曲」などはどうでしょうか。本来なら劇音楽の冒頭にあり、劇の内容と密に関わるものも多い音楽です。しかし、序曲は頻繁に演奏会レパートリーとして単独で演奏されています。何故こうしたあり方は奇特に思われないのでしょうか?

音楽の受容様式については、どれが正しい、という答えはありません。しかし、「完成された作品」という理念がある一方で、演奏行為においては、楽曲の「オリジナル」の姿を固守しない緩やかな態度があるという事実は、作品の理念がそのつど異なる演奏を通して繰り返し実現されるという「再現芸術」としての音楽の本質に由来しているのではないでしょうか。音楽を聴き、演奏(解釈)をするということは、必然的に、作品の理想と現実の狭間で葛藤することを強いられる行為に他ならないのです。


丸山瑶子
慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史専攻後期博士課程入学後、ヴィーン大学に留学(博士論文分野音楽学)。2017年ヴィーン大学にてベートーヴェンの弦楽四重奏曲に関する研究により、博士号取得(哲学)。研究の関心領域は、ベートーヴェンを中心とする18世紀後半〜19世紀の音楽活動(主に現代では無名となった作曲家の様式研究)。これまでにオーストリア政府給費奨学金、ローム・ミュージックファンデーション奨学金、ヴィーン大学修了奨学金受給生。2018年4月より日本学術振興会特別研究員。慶応義塾大学ほか非常勤講師。
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