わたしたちのピアノ教育史

金子勝子 第3回 湧き上がる”教育者マインド”の源 その2

2017/11/08
金子勝子 第3回
湧き上がる”教育者マインド”の源 その2
属の音楽の源流 ウィーン留学時代

属澄江。漫画家の鮎沢まこと氏がピアノ教室を巡るという連載で、属を訪ねた際のもの。1961年8月号『muse』ヤマハ音楽教室、より

属を「ロシア人シャピロの高弟」とみる人がいる一方で、「リストの高弟エミール・フォン・ザウアーに学んだ先生」と金子は評する。

属は、コンクール入賞後すぐウィーンに渡り、ザウアーの門をたたいた。ザウアーは、ウィーン音楽院の教授として多くの優れたピアニストを育てたが、その中には井上園子、原智恵子ら日本人ピアニストの草分け的な面々もあった。彼女たちが受け継いだザウアーの教えは、どのようなものだったのだろうか。

属が訪れた頃、ザウアーは75歳過ぎで既に音楽院を退職し、演奏活動を中心に生活していた。属は「随分勉強したつもりだった」というが、ザウアーから指の弱さを指摘されたため、まず指の訓練に勤しんだ脚注1。“ウィーンでよく使われているザウアーの指の訓練法”があり、指を強くするのと同時に、腕を柔らかくするように指導を受けたという。属は、多くの課題曲の準備と、レッスンでの指摘の細かさに苦しめられたと話す一方で、ザウアーについては「厳しいですが、叱りませんですのよ」と語っている。

帰国後も属は、手紙のやりとりをしながらザウアーと交流を続けた。ザウアーは筆まめな性格で、属に届いた返信は18通に及ぶ。しかも、属が手紙を出すと返事が届く日を推定できるほど克明だったという。返信の中には「この間はお前たち二人の夢をみた」と、属夫婦がザウアーを訪れており家族ぐるみの交流を伺わせる内容もあり、ウィーンピアノ界の重鎮ザウアーの人間的な側面を伝えてくれる。

また属は、ザウアーの弟子パウル・ワインガルテンにも習い、指の練習からエチュードまで、時代も古いものから新しい曲まで細部にわたって指導を受けた。

 これらを鑑みて、この時期に吸収したことが属のピアノ指導の土台になっている可能性は大きいだろう。属の演奏についても、「清潔で、音が美しく、ツブが揃っている。ニュアンスの多い、ロマンティックな演奏というのではなく、むしろ古典的様相を感じさせる」脚注2と書かれており、その見方を後押しする。さらに金子も、「属先生は、リストの直系だったからリストの作品が多くて」と話していることから、個性豊かな師に習いキャリアを積んできた属だが、音楽性はウィーン仕込みだったとみるのがよさそうである。

「手が小さいから、駄目だわね」

属のレッスン室。ザウアーの写真が飾られていた。1961年8月号『muse』ヤマハ音楽教室、より

属の音楽的な背景と日本の黎明期の楽壇について触れてきたが、金子にとって属はどのような先生だったのだろうか。
金子は、手が小さい。リスト作品を弾くには、さぞ苦労したのではないだろうか。「指が届かないから、引きつったような音になっちゃうのよ。《リゴレット・パラフレーズ》を弾いた時は、属先生もわかっていらして『あなた手が小さいから、駄目だわね』っておっしゃった」。それは、若い金子の心に冷たく突き刺さっただろう。しかしそのことが、金子が新しい道を切り開くきっかけとなった。

新しい飛躍の時代に向かって

ここで日本のピアノ教育の背景について触れておきたい。
金子が大学を卒業した時期は、高度経済成長期を迎え、日本全体が物質的な豊かさを享受し始めた頃だった。日本経済を支える中産階級の生活が一変し、戦前手が届かなかったピアノも夢ではなくなっていた。戦前にピアノに憧れを抱いた少女たちは、その夢を子どもたちに託すようになり、1954年に日本楽器が「ヤマハ音楽実験教室」を開設すると、瞬く間に人気を集め、ピアノ学習者の拡大を後押しした。その様子を1959年『朝日新聞』が裏付け、『生産追いつかず 町はピアノブーム』と、都内でピアノがよく売れるという内容の記事を掲載している脚注3。ピアノ教育界全体が、新しい時代に向けて、力強く飛躍しようとしていた。金子のピアノ教育者としての活躍は、このようなピアノ教育全体の成長を背景としていたのである。

ピアノ指導者を照らす光となった、NHK『ピアノのおけいこ』

大学卒業後、金子は属のもとで研鑽を積みながら、積極的に勉強した。1962年から始まったNHK『ピアノのおけいこ』の、東京藝術大学教授だった田村宏脚注4のレッスンを記憶している。「田村先生のレッスンは、勉強になったのよ」と話す。この時代、まだピアノ教育界は手探り状態で、多くの指導者が情報を欲していた。番組の講師陣には、永井進、安川加壽子、伊達純ら、音楽大学の一流教授クラスの面々が名を連ね、彼らの優れた指導に触れ、ピアノ指導者は多くのことを吸収することができたのである。高まりつつあったピアノ学習熱脚注5と呼応するように、ピアノ指導の向上に向けたさまざまな芽が出始め、金子の学習を支えた。

東京音楽研究会に入会

そして1966年に今のピティナの前身である、東京音楽研究会がスタートすると、金子は田村宏や中山靖子といった第一線で活躍している講師のセミナーに通い、コツコツと勉強を重ねた。「ある日、福田先生脚注6に『あんたは、なんか弾けるものある?』って言われたの。ショパンのスケルツォを弾いたら、『会員になりなさいよ』っておっしゃって。しばらくして、バスティンの教材を英語から日本語に訳すっていうので手伝ったりしたわ」。
「靖子先生脚注7、あの頃、本当にすごくてね。大阪で楽器店がオープンするから、お祝いに弾きに行ってきてって言うの。ブリュグミュラー25番とショパンのエチュード足してって、3日前によ(笑)」。ピティナ創設時の勢いを感じるエピソードである。

「ピティナ ヤングピアニスト オーディション」が始動

課題曲紹介のためのコンサート。当時は、「ピティナ ヤングピアニスト オーディション」だった。

1977年の課題曲一覧。

そして、いよいよ金子の新しい活路を見いだす仕事が始まる。ピティナで「ヤングピアニスト オーディション」(現在のピティナ・ピアノコンペティション)が始まったのだ。「コンクールの課題曲を紹介する人間がいなかったの。それで、私に話が来てOKしたら、これがめちゃくちゃなのよ。1ヶ月に50曲くらい弾かなくちゃいけなくて、松﨑伶子先生、二宮裕子先生や他の先生も一緒でしたけど、もう大変でしたよ(笑)」。課題曲を弾く仕事はタフだったが、金子の血となり肉となっていった。

金子は、A~C、D級の一部の曲を担当した。「小さい曲を音楽的に弾くって、結構大変なのよ。二宮先生も、『大変でしょう』っておっしゃってくださったけど」。これまで真逆のリストの大曲を弾いてきた金子は、多くの学びを得ることになった。それは、金子の演奏に活路を見出すことになったが、その一方で、ピアノの指導においてはまだ突破口を見いだせずにいた。

脚注1
「せんせいこんにちは 属澄江先生」『月刊 レッスンの友』(1970)4月号
脚注2
「日本の音楽家」『音楽の友』(1968)
脚注3
ピアノは、1、2ヶ月待たないと購入することができなかったという。家庭でも情操教育に力を入れるようになり、数年来のピアノブームが来ていると楽器店が報告している。その楽器店では、20万円代のピアノが最も良く売れ、大体5万円クラスの家庭が購入していくという。
脚注4
東京藝術大学教授を務めた永井進の高弟で、東京音楽研究会時代にセミナーを担当し、コンクーなど、戦後のピアノ教育の土壌を作った重要な人物である。
脚注5
生徒は公募によって選ばれた、バイエル程度からチェリニー30番程度までピアノ初級者だったことから、親しみやすい曲が扱われ、番組の視聴者には多くのピアノ学習者も抱えた。
脚注6
ピティナ創設者の福田靖子
脚注7
福田靖子のこと。話し始めは、福田先生と呼んでいた金子だったが、次第に呼び慣れた靖子先生となった。

深水悠子
企業広報の仕事を経て、東京藝術大学大学院音楽文化学音楽音響創造に入学。電子音響音楽の作品制作、及び「日本におけるエリック・サティの受容」の研究を行う。現在、音楽ライター、東京藝術大学音楽学部教育研究助手。
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