バッハのいろは

第1回 ようこそ、バッハの世界へ!

2018/10/04
第1回 ようこそ、バッハの世界へ!

歴史上ある瞬間に立ち会えるとしたら、私はピアニストとしてではなく、一人の音楽愛好家として1722年のケーテンに降り立ちたいと思います。ここでの主人公となるヨハン・ゼバスティアン・バッハ[Johann Sebastian Bach, 1685-1750]は37歳。宗教的情熱を胸に、創作意欲はとどまることを知りませんでした。

名が知られるようになる前の若き日のバッハがそうであったように、評判の高い音楽家のオルガン演奏に触れることは、音楽を志す者たちにとって自らの将来を切り拓くきっかけになりました。そのために遠方まで赴くことを厭わず、まさに体をはって音楽を求めていた時代なのです。

バッハがアンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長に赴任したのは1718年のことでした。オルガニストとしての名声を高めたヴァイマールでの9年間(ザクセン=ヴァイマール公国の宮廷オルガニスト、後に楽師長)でしたが、最後はヴィルヘルム・エルンスト公の逆鱗に触れ、1か月間の投獄を余儀なくされるという散々な結末を迎えました。バッハがハレのような他の宮廷から引き抜かれないように、宮廷楽師長というポストを新設して、年俸も上げ、義務を与える一方で自由な演奏活動を認めていたエルンスト公からすると、宮廷楽長の地位をバッハに委ねようとしていた矢先での転職は、到底許すことのできないものでした。優秀な才能をわが手のうちに囲っておきたいという独占欲は、いつの時代でも変わらないものですが、一方のバッハも、事あるごとに「信念ゆえ」の職務違反やトラブルを重ねてきた経歴の持ち主なのです。

ヴァイマールとケーテンでは、バッハの仕事の内容は大きく異なりました。月1曲のカンタータの作曲と演奏をバッハに義務づけていたヴァイマールの宮廷(在任中20数曲を残しました)は敬虔なるルター派でしたが、ケーテンは改革派(カルヴァン派)が主だったため、宮廷でオルガンや教会カンタータの演奏はされませんでした。ケーテンのレオポルト公は大変な楽器愛好家で、チェンバロやヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバを嗜み、宮廷には18名の奏者が楽団を組んでいたといわれています。侯爵はバッハと共に演奏することもあり、バッハがヴァイマールを去った後も生涯にわたり交友を深めたのです。

ケーテン時代に多くの器楽曲が誕生したもう一つの背景として、バッハの子供たちの成長が挙げられます。ヴァイマールで亡くなった先妻マリア・バルバラとの子、長男ヴィルヘルム・フリーデマン[Wilhelm Friedemann Bach, 1710-1784]と次男カール・フィリップ・エマヌエル[Carl Philipp Emanuel Bach, 1714-1788]。近代科学が未発達だった中世にあって、音楽的才能を開花させて長寿を全うできたバッハ一族(半数ほどは生まれてまもなく亡くなった)は、まさに「小川(Bach)ではなく海(Meer)である」といったベートーヴェンの言葉どおりですし、一族に受け継がれてきた音楽教育の大きさを感じずにはいられません。


赤松林太郎
第44回全日本学生音楽コンクールで全国第1位、野村賞。第3回クララ・シューマン国際ピアノコンクールで日本初の上位入賞後、ヨーロッパ各国のコンクールで十指に及ぶ優勝や上位入賞。国内のみならずアジアやヨーロッパでの公演も多く、近年ではヨーロッパ各国での国際コンクール審査やマスタークラス講師も多数。ダヌビア・タレンツ国際音楽コンクール(ハンガリー)では第1回より審査員長を歴任。現在、一般社団法人全日本ピアノ指導者協会評議員・演奏研究委員、ブダペスト国際ピアノマスタークラス教授、洗足学園音楽大学客員教授、大阪音楽大学特任准教授、宇都宮短期大学客員教授、カシオ計算機株式会社アンバサダー。
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