ショパン物語

第059回 パシリのフォンタナ

2006/01/26
ショパン物語 第59回

1、ユリアン・フォンタナ高等学校からワルシャワ音楽院までショパンと一緒で同級生であった。1810年生まれ、1869年に没する。自殺であった。
ピアニスト・作曲家でもあったが、1831年11月蜂起のときは砲兵隊中尉として参加する。蜂起失敗後、ハンブルグへ逃れ、1832年にはパリの亡命者集団と一緒になり、ショパンと連絡をとり始め、パリにきてからは、ショパンの秘書兼雑用係になってしまう。ショパンの楽譜を写譜し清書し、出版商との交渉、アパート探し、家具探し、ベッドの修理の住居の管理や、家賃の支払いなど財政のマネージメント、郵便物の仲介や転送、召使の雇い入れ、服や小物の買い物など、かなりこき使われていたようである。ショパンから楽譜を写譜・聖書を頼まれた上「楽譜をシワにするなよ」と失礼なことまで書かれた手紙は1841年10月18日のものである。
「僕を愛してくれ」は1839年3月の手紙であるが、しかし「色々お使い頼んですみません」といいながら「僕の頼んだことを忘れないでくださいね」「君は喜んでやってくれると信じてます」などと、ちゃっかりしたことが書かれているらしい。
そしてとうとう我慢の限界がきたのか、自分も音楽家としてやり直そうと渡米するのであった。(渡米の時期は、小沼ますみ氏の「ショパンとサンド」によると1841年11月とあるが、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ氏の「決定版ショパンの生涯」と、最近の学会で発表されたフォンタナ最新資料では1844年となっている)
渡米したフォンタナは音楽活動だけでなく、貿易関係、両替商、語学書執筆などいろいろと仕事をしていたようである。
ショパンの死後は、アメリカから一時パリに戻り、ショパンの遺作を集め、整理し、1855年に作品66から74として出版した。(1855年は作品66から73まで、作品74は1859年に出版という説もある)フォンタナは結婚し、子供ももうけるが、晩年は妻にも子供にも先立たれ、病気になり、苦しい極貧生活であったらしく、絶望して自殺したという。

2、手紙の転送ショパンは、ワルシャワの家族に手紙を出すとき、サンドとのことを家族にあまり知られたくなく、マジョルカ島やノアンから手紙を出すとき、まずフォンタナに送り、パリから投函してもらっていた。


林 倫恵子(はやしりえこ)

漫画家・ピアノ指導

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