あこがれのピアノ指導者になるために~一般企業への就職という選択~

文字サイズ: |
2015/07/10
印刷用PDFを表示
憧れのピアノ指導者になるために

コンペ、ステップ、セミナー、コンサート、ピアノ曲事典・・・。ピティナの各事業で、そして毎日のレッスンで、優れたピアノ指導者が活躍されています。そんな先生の背中を見て、「将来ピアノの先生になりたい」、「音楽の楽しさを子供たちに伝える仕事をしたい」と憧れや志を持つ若者も少なくないでしょう。

ピアノを教える仕事につくための進路

ピアノ指導者という職業を選択する場合、多くの方は、音楽を専門に学ぶため、音楽大学(または音楽学部)に進学し、卒業後にすぐにピアノ指導者になる道を模索する方が多いと思います(図の①)。しかし、実際には、②のように、一般企業に就職する方も多く(※)、さらにその後に、改めてピアノ指導の仕事を選びなおしている方も多くいらっしゃることが分かっています。

例えば、大内孝夫氏の著作『「音大卒」は武器になる』(ヤマハミュージックメディア)によれば、音楽を専門的に学んだ学生は、以下のような能力に長けているようです。

(ア)
そもそも、鋭い発想力や創造力を持っている。
(イ)
特に年上の世代とのコミュニケーションが上手い。
(ウ)
マナーや礼節をわきまえている。
(エ)
目標に向かって自分の技術を完成させる訓練を積んでいる。

このように、総じて音大生は一般大学の学生よりも「プロフェッショナリズム」を体得しやすい環境に置かれている、と分析されています。音楽を専門に学ぶことで育まれるスキル・能力は、一般企業でも十分通用するどころか、一般大学の学生にはない「強み」を有しているとすら言えそうです。

今日、この記事では、さらに一歩進み、音大生のスキルが一般企業で生かされる、ということのみならず、企業での勤務といういわば「回り道」を経由したことで、ピアノ指導者としてより高い能力と基盤を得て、各方面で活躍中の六名の会員をご紹介いたします。


Case1
江夏 範明 先生 Noriaki Kouka
ピアノ指導者という職業に
誇りを持とう
神奈川県大和市在住、ピティナ正会員、さがみ大和ステーション代表、指導者育成委員、指導者賞20回受賞。2012年特級銀賞の江夏真理奈さんの父。

私は音楽大学を卒業してから数年間、一般企業にエンジニアとして勤務しました。
将来ピアノ教師として自立し活動することを目標としての事でした。

中学校でピアノを始めて、親の反対を押し切ってまでピアノの道に進みたかった私にとって、経済的に自立するのは当然のことでした。社会人経験を通じ、さまざまな苦労をし、世の常識というものを思い知らされたことによって、自分とは何なのか、どうあるべきか、をはっきり見出せたと思います。

生活の基盤ができピアノ教師としてスタートするにあたって、自分の演奏を見つめ直す必要がありました。
正統に修養を積むには再び大学に行くべきだと考えていて、英国王立音楽大学を受験し留学を決意しました。
会社を退職し自分の意志、費用で身の振りすべてを決意し、転換したのです。

自信を持って言いますが、ピアノ指導者というのは偉大なプロフェッションです。
男性であれ女性であれ、音楽教育への志に目覚めたのなら、少しでも高い目標に向かって邁進してほしいです。
世界には尊敬すべき優れた指導者がたくさんいます。
大学で学び、将来へのビジョンをもち、そこから逃げずに自分を磨き、頑張ってください。
もちろん、謙虚な心を決して忘れないように!

Case2
新野 ダリア 先生 Daria Niino
めまぐるしく変わる日々と、
教師としてのしなやかな資質
兵庫県西宮市在住、ピティナ正会員、神戸中央支部所属会員として複数のステーションの運営をサポート。指導者賞6回受賞、2015年からコンペティション審査員、ステップアドバイザー。

神戸女学院で就職活動中は、教員志望だったものの、音楽の教員採用枠が少なくて、泣く泣く諦めました。私は4人兄弟の2番目でしたので、経済的に実家から独立するべきだと考えていました。そこで、専門を生かすためメセナ活動(文化芸術を支援する活動)に熱心な企業の採用試験を受けました。

音楽学部なのになぜ企業に就職を?と面接でよく聞かれました。しかし私はピアノを通じて、「演奏は、決して消しゴムでは消せない」「人前に出ることは臆さない」と、主張を通して、田崎真珠(現:TASAKI)に就職し、女子にとっては狭き門だった広報部に配属されました。

その後、結婚し、長女を出産。育休の後、職場に復帰します。復帰後、半年は思っていたような仕事につけませんでしたが、新しい顧客サービスとしてのサロンコンサートの運営を任されることになったんです。プログラム作成や曲目解説、当日の運営まで、充実した日々を送りました。

そして長男の誕生と、社内保育所が廃止になったことを機に、退職。恩師の石井なをみ先生に報告したところ「ステップの手伝いをしてほしい」と連絡をいただきました。それからピティナにも入会したらどうか、と。あとはご想像いただける通りです(笑)

勤めたことで、パソコンの操作に慣れた、とか細かいことは色々です。でも、苦手な分野の仕事も引き受けなければならない毎日で、時間の管理術も求められますので、そこで培った姿勢や能力が、今、ピアノの先生として「親しみやすい」とか「任せて安心できる」という評価につながっているとすれば嬉しいです。

卒業以来、短いスパンで、めまぐるしく立場が変化し、3人目の次男の出産を経て、2013年からはコンペの審査員、今年からはステップのアドバイザーも務めることになりました。これも夫や家族が一言も反対をせず、いつも応援してきてくれたおかげです。

Case3
軽部 忍 先生 Shinobu Karube
人の役に立てていれば、
必ずうまくいくという真理
東京都足立区在住、ピティナ正会員、文京音の泉ステーション代表。母校である東邦音大の卒業生を中心にオーケストラを結成し、日本でもまだ数少ないコンチェルト体験のできるステップを運営している。

東邦音大で、教員になろうかどうしようか迷っていた頃、2年下の妹が、IT企業でバリバリに働き始めていました。何でも人に頼る子だったんですが、その姿を見て焦りを感じ、一般企業に入ろうと決めました。

まもなく、語学留学をきっかけに貿易、通関業務に転職。これがすごく面白くって。やがて、米国企業の物流システムを設計・企画する部署で働くことになっていました。

卒業して6~7年経ち、バブルが崩壊して、仕事にワクワク感を持てなくなり辞めてしまうのですが、部屋でピアノを弾いていたら、同じマンションの方から教えてほしいと頼まれたのがきっかけで、指導をするようになったんです。特にビジョンとか、決意があったわけではなく、目の前の面白いことを一生懸命やっていたら、自然にそこに流れてきた感じです(笑)

当初は、生徒が少なくて発表会もできなかったのですが、近隣の音楽院に「一緒に発表会に」と頼みにいったら、受け入れてくれて。少しずつ人脈が広がりました。何でも言ってみるものですよね。おかげさまで、今ではお休み無しの日々です(笑)

勤めたことで、電話の取り方、パソコンの使い方、お金の流れといったものがつかめたし、特定の文書を作成するのも苦ではないです。働く人の気持ちが想像できますので、保護者の皆様がどんなに大変か、ということが実感をもってわかるのも大きな違いです。

ピアノ教師は、音楽という分野ではどうしても優位になってしまう。そんな中、結局は相手を安心・納得させる「言葉」をどう紡ぐかですよね。そうした「言葉」は一般企業という「外」に出て初めて獲得できたのではと思います。

そして何と言っても、企業で学んだのは「人の役に立ちなさい」ということです。人が喜ぶことをやっていれば、必ずうまくいく、と心から信じられるようになりました。

Case4
長瀬 里子 先生 Satoko Nagase
実社会で身に付けた
<相手を好きになる>感覚
東京都小平市在住、ピティナ指導者ライセンス全級取得、小平ベリーズステーション代表。

私は中学から国立音大の附属校に通い、ピアノどっぷりの生活でした。大学のときに、このまま音楽一筋でよいのだろうか、とずっと悩んでいました。そこで、一度は社会の荒波にもまれてみよう、OLという立場になれるとしたら、大学を出たこの時期しかない、 と一念発起して電機メーカーの営業部に6年間、勤めました。

そこでは、尊敬するリーダーに出会えましたし、男性の多い職場ならではのルールを知りました。充実した日々でしたが、いつかは音楽の仕事に、ということはずっと心のどこかにありまして、余暇を使って音楽の勉強は継続していました。

そして結婚を機に、退職し、母校にピアノ指導の仕事を探しに行って、地元の楽器店に勤務しました。やがて、幼稚園のママ友経由で、「うちの子にピアノを教えてほしい」と声がかかり、自宅の生徒も増やせるようになりました。

企業で教えられた一番のことは、「相手を好きになること。そうすれば、うまくいく」ということでした。私は実社会に出たことでその感覚を身につけたと思っています。そのコツは、つまるところ、相手をよく観察することです。現在、生徒ひとりひとり、生徒のご家族と接するときに、日々実践していることです。

Case5
永井 美樹 先生 Miki Nagai
ピアノ指導とは、
一人一人との長年のお付き合い
兵庫県三田市在住、ピティナ正会員、新人指導者賞1回、指導者賞2回受賞。

小さい頃から、ピアノの先生に恵まれ、幼稚園のころから「将来はピアノの先生になりたい」と書いているような少女でした。大阪教育大学の小学校教員過程音楽科で学び、ピアノの出張レッスンを細々と続けながら、「子どもたちに音楽を好きになってもらう」仕事をしたい、というのが私の原点としてありました。

しかし、事情が生じまして、銀行に勤めることになったのですが、こちらも一年ほどで退職することになりました。私は、どうしても「教育の現場に携わる」ということにこだわりがありました。すると、大学の「教員補佐」という仕事に出会うことができました。夕方以降であれば副業を組むこともできたので、これがピアノ出張レッスンを再開したきっかけです。

このころ結婚し、ほどなくピティナに入会しました。最初、ピティナのコンペを見て「これは大変な世界だ」と、おののいてしまいましたが(笑)、その後、出産、育児も経験しながら、現在、生徒が35人。コンペやステップも教室として積極的に参加するように務めています。

私は勤務した経験を通じて、どんな人にも、オーダーメイドの対応が必要だということを学びました。ピアノ指導は、長年に及びますから、結局は人と人とのお付き合いです。音楽の専門家ではないことも多い保護者と、意思の疎通をスムーズに図るには、心を広く持ち、型にはめすぎないようにする。そして一人ひとり個性の違う子どもに合わせた指導を日々考える。こうしたことすべてに、過去の経験が役立っていると感謝しています。

Case6
田中 美帆 さん Miho Tanaka
音大卒の私に<経営>を
教えてくれたピティナと東音企画
武蔵野音楽大学卒、2008年にピティナ本部事務局に入局、2010年10月より東音企画楽譜事業部、現在は主にアプリ開発を担当。ピティナ指導会員。

ピティナに勤めてから社会人生活8年目に入りますが、私は自分のピアノの先生が大好きでしたし、いつかは指導者に、という気持ちを変わらず持っています。

ただ、卒業するころ、社会の大きな枠組みを知らずにピアノ指導の世界へ足を踏み入れる自信がなく、まずは自分の育った音楽畑の全体像を見てみたいと思いました。そこで、ピティナでピアノ指導者になりたい学生のための、2年間の勤務を経験できる枠で採用してもらい、コンペやステップの事務職に就きました。

その後、地元の福岡でピアノ指導者になるための準備を始めた時期もあったのですが、ご縁で東音企画に転籍して勤務を続けることになり、楽譜出版やイベント運営、システム開発など、今でも日々勉強させてもらっています。

社会人経験を経てよかったのは、「会社経営=教室運営」的な観点を得られたことです。もしあのままピアノ指導者になっていたら、企画、制作、事務、営業、経理に至るまで、そのノウハウを身につけることはできなかったと思います。コンピューターのこともまったく頓珍漢な音大生でしたが、今ではある程度のシステム構築もできるようになりました。

しかし、私より技術力のある専門のスタッフはたくさんいます。私は、もうしばらく力を蓄えてから、ここで得られた能力を、憧れのピアノ指導者という職業で生かせたらいいなと思います。そうなったら、一人の会員としてピティナにたくさんの提案や要望を出す側に回ろうと、今からワクワクしているところです。


<おわりに>

 ピアノ指導という仕事を始めるためには、ピアノレッスンを行う「仕事場」が必要であり、楽器、防音、楽譜などの設備投資が必要です。
 さらには、生徒と保護者、各家庭と長年渡り合っていく人間力が必要です。大学卒業したての若者に、それをすべて求めるのは難しいことです。
 ピティナは会員の皆様の指導力向上のサポートをすると同時に、未来の優秀な若い指導者を育てなければならない使命を持っています。
 指導者の皆様へ。ピアノ指導という職業を目指す若者がいたら、ぜひ長い目で見て、そのキャリアを一緒に考え、「一般企業の就職」という選択肢もあることを視野に入れてみてはいかがでしょうか。ここに登場した会員の活躍とその言葉の端々から、なんらかのヒントを見つけていただけたら幸いです。


【GoogleAdsense】
ホーム > 協会概要 > ニュース > > あこがれのピアノ指導...