調査報告:プロコフィエフのトッカータ 作品11の調性表記に関して

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2009/07/30

調査報告:岡田 安樹浩

一般にこの楽曲の調性は「ハ長調」と「ニ短調」という2通りの表記がなされており、混乱をきたしている。この楽曲の調性を「ハ長調」とする理由は、少なくとも楽譜の中には一切ない。楽曲の冒頭も終止も明らかにニ音であり、調号はフラットが1つ与えられているのみである。楽曲中にいかに半音階的な和声が取り入れられていようとも、この2つの事実が、この『トッカータ』を明確に「ニ短調」であると規定している。
にもかかわらず、CDや解説書において「ハ長調」という表記がなされているのは、おそらくそれらが典拠としている資料にそもそもの誤りがあるためである。
また、この誤った調性表記が広まった1つのきっかけは、この楽曲にたいして多くの録音を提供しているウラディーミル・ホロヴィッツの演奏によるCDに、「ハ長調」の誤記が多く見られることによると考えて間違いないだろう。
筆者は、この楽曲が収録されたCDをランダムに選び出し、14種類の音盤を調査した。このうちホロヴィッツの演奏は4つあり、そのうちの3音盤(EMI TOCE 6161-63/RCA BVCC 5148/RCA BVCC 8973-74)が「ハ長調」または「C major」と誤記していた(残り1盤[EMI CHS 7 63538 2]は調性表記なし)。その他の10音盤中、6音盤には調性の表記がなく、2音盤のみ「D minor」と表記されており、「C major」と表記されているのは1音盤のみ(Freddy Kempf BIS-CD-1260)であった。
海外の音盤における「C major」表記の典拠については、残念ながら明確ではないが、少なくとも筆者が参照した英語、ないしドイツ語の文献において、このような誤記は見当たらなかった。もっとも信頼し得る音楽事典として、現在『New Grove Dictionary of Music and Musisians. 2.nd Ed.』(NG2)と、『Die Musik in Geschichte und Gegenwart 2.Auflage.』(MGG2)の2種が存在するが、いずれのプロコフィエフの作品表においても、この楽曲の調性は「ニ短調」を示す表記がなされている。
それに対し、近年の日本語表記における誤りの連鎖を生んだ要因は、1981年に音楽之友社より刊行された『名曲解説全集』における(※1)解説であると考えて間違いない(※2)。この解説では、「シューマンのトッカータ「ハ長調」作品7(1832)に影響を受けて書かれた」(pp.209-210)と述べられているのであるが、ここで注目すべくは、「ハ長調」とわざわざかぎ括弧がつけられている点である。おそらくこれに引きずられる形で、楽曲の調性を「ハ長調」と誤記したものと考えられる。 さらにこの解説は、1995年に同じく音楽之友社より刊行された『名曲解説ライブラリー20 プロコフィエフ』にそのまま転載されている(p.191)。
なお、読者の方より頂いたコメントにてご指摘いただいた春秋社刊行の『ピアノレパートリー事典』(初版1986年/改訂版2006年)は、改訂版において上記2つの音楽事典(NG2とMGG2)とならんで『名曲解説全集』も挙げられていることから、「ハ長調」という誤記が残された理由はここにあると考えられる。
これらの事実は、後発の事典や解説書のなかに、楽譜そのものにあたらず、文献を無批判に参照して書かれているものが存在するということを物語っている。
ただし、日本語で書かれたピアノ曲の事典類すべてにこのような批判が当てはまるわけでは、勿論ない。プロコフィエフの『トッカータ』の件に限っても、例えば千蔵八郎による『名曲事典』(音楽之友社1971)、『ピアノ曲鑑賞辞典』(東京堂出版1992)、『ピアノ音楽史事典』(春秋社1996)は、いずれにおいても混乱を招くような調性表記はなく、『名曲事典』ではシューマンの『トッカータ』からの影響にも端的に触れている。

※1 7月30日付の記事おいて、執筆者を「間宮芳生による」としておりましたが、これが誤りである旨を読者の方よりご指摘頂きました。再度資料を確認したところ、正しくは伊藤恵子氏であったことが分かりました。心よりお詫び致しますとともに、訂正致します。

※2 《8月6日追加》
当記事掲載後、さらにさかのぼって文献を調査した結果、以下のことが判明しましたので、追記致します。
『名曲解説全集』以前のプロコフィエフにかんする日本語の文献は、『プロコフィエフ自伝・評論』(プロコフィエフ著、園部四郎・西牟田久雄共訳、1964)、『プロコフィエフ』(井上頼豊著、1968)、『プロコフィエフ』(ミシェル・R. ホフマン著、清水正和訳、1971)があり(いずれも音楽之友社刊行)、いずれの文献においても、本文中ではトッカータの調性にかんする表記は無いものの、巻末の作品表において、「ハ長調」の表記がなされている。
現在、各原書の調査を進めており、この件にかんしては追って追記致します。

今回の調性表記の混乱にかんする調査は、読者の方から頂いたコメントに端を発し、筆者が調査した結果です。調査のきっかけを与えてくださった読者の方に心より感謝いたします。


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