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【19世紀前半のイタリアとピアニスト・コンポーザーたち 5】
掲載日:2012年10月11日

 先日ご紹介したフマガッリ兄弟の中でピアニストとして名前が知られたのは第一にアドルフォ・フマガッリ (1828~1856)、第二にルーカ・フマガッリ (1837~1908)、そして第三にディスマ・フマガッリ(1826~1893)とポリービオ・フマガッリ (1830~1900)です。フマガッリ兄弟がミラノ音楽院に入ったのは1840年代後半から50年代前半のことです。フマガッリ家で最も著名なアドルフォは1837年から10年間、ピアノと対位法(伝統的な作曲書法)を学んだということなので、9歳前後での入学という計算になります。少なくとも年長の二人ディスマとアドルフォに関して、彼らはアントニオ・アンゲレーリという教授のクラスで学んだことが分かっています。それでは、今回は年長の二人のフマガッリ、ディスマとアドルフォについて見てみましょう。

ディスマ・フマガッリ (1826~1893)

・略歴
年長のディスマ・フマガッリについては、現段階では十分な情報が得られていなのですが、彼はミラノ音楽院でピアノと作曲を学んだ後、1857年にミラノ音楽院の教授、ローマのサンタ・チェチーリア・アカデミー教授、フィレンツェのフィルハーモニー協会会員としてイタリア・ピアノ界の重要なポストを歴任しています。

・作品
彼の作品は作品番号にして少なくとも334曲に上ります。初期はノクターンのほか、マズルカ、タランテラ、ギャロップといった舞曲を中心に書きましたが、作品番号30番台以降はヴェルディ、ロッシーニ、ドニゼッティらのオペラにもとづくパラフレーズで占められています。しかし、その中にも弦楽オーケストラとピアノのための《協奏曲》変イ長調作品83 (1856) 、《6つの旋律的大練習曲》作品107、《サロン演奏会用序曲》作品145、《4つのフーガと2つのカノン》作品248など是非とも楽譜を見た上で録音を検討したい作品が見受けられます。

アドルフォ・フマガッリ (1828~1856)


ディスマの弟、アドルフォ・フマガッリは類稀な国際的活躍のお陰で、比較的詳しい情報が残っています。「ピアノのパガニーニ」と称されたこのヴィルトゥオーゾは1826年、兄と同じミラノ近郊のインツァーゴに生まれ、37年、10歳に満たない年齢でミラノ音楽院入学します。ピアノと作曲を学んだ後、1848年にミラノでデビューします。翌年には北上してパリ、ベルギーの各都市を巡演し、一躍時の人となります。1850年、フランスの音楽雑誌『ル・メネストレル』の批評家は彼の演奏についてこう述べています。

フマガッリ氏は象牙の鍵盤の上で20本の指から[ベッリーニの]《清教徒》の四重唱の素晴らしい調べを放った。喝采の内に消えたベッリーニの最後の響きが消えるか消えないうちに、「踊りの精」、「スケルツォ」が楽しげに駆け出した[・・・]。それはまさに精彩あふれと著しく独創的な作品である。フマガッリ氏はフランスのディレッタント[愛好家]たちがこのイタリアのピアニストを理解したのが分かったに違いない。つまり音楽はあらゆる言語を含んでいるのだ。(1850/01/13)

フマガッリの特別な美点は、何と言ってもその歌唱的な演奏と左手の卓越したテクニックにありました。同じ雑誌の批評家は彼の演奏について次のように述べています。

フマガッリは、左手だけで、ピアニストたちが両手でやるよりもはるかに見事に演奏した。さらにメカニスム[手と指の技巧]の奇跡はこれ以上あり得ないということも申し添えておかねばならない。この点から見てフマガッリは新しい楽派の第一級のピアニストである。(1854/04/30)

実際、彼は数々の左手の為の作品を作曲しています。ざっとカタログに目を通すだけでも以下の作品が挙げられます。

-ドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」に基づく《2つの演奏会用練習曲》作品18
-ベッリーニのオペラ『ノルマ』の有名なアリア「カスタ・ディーヴァ」に基づく左手用の作品61
-フランスの交響曲作家フェリシアン・ダヴィッドのオラトリオに基づく《左手の為の超絶的練習曲》作品102
-フランツ・リストに献呈された《マイアベーア「悪魔ロベール」による左手のための幻想曲》作品106


図1 《マイアベーア「悪魔ロベール」による左手のための幻想曲》作品106の表紙(ミラノ、リコルディ社、1855)。リストに献呈。

彼の演奏技巧は非常に大胆でありながら、優美な歌唱的旋律を際立たせるもので、それは左手のみの場合においても探究されています。下の譜例は上に挙げた作品106の一節です。


図2 《マイアベーア「悪魔ロベール」による左手のための幻想曲》作品106の一節。分散和音の中に、メロディーラインを巧みに組み込む書法はジギスムント・タールベルクによって推し進められたが、アドルフォ・フマガッリはこれを左手だけで実現しようとした。

 この比類ない演奏技術とオペラの歌唱性を生かした彼の演奏によって、彼はベルギーで「ピアノのパガニーニ」という異名を勝ち得ました。この項目冒頭のカリカチュアは、彼の悪魔的な左手を戯画化しています。
 フマガッリはパリで結婚し、二人の子どもに恵まれていました。数々の演奏会で成功を収め、血気盛んな20代の後半に差し掛かった1856年5月、彼の訃報はフィレンツェから突然舞い込んできました。『メネストレル』紙が報じるところでは、炎症で悪化した手首の病が原因だとされています。記事の報じるところによれば、彼は4月28日と5月1日に演奏会を終えたばかりでしたから、突然の病の悪化が彼を襲ったと考えるしかありません。
 この年の音楽界は、イタリア出身のドイツ人ピアニスト兼作曲家テオドール・デーラー、フランスの著名なオペラ作曲家アドルフ・アダンが亡くなるという不幸に見舞われていたので、「フマガッリ、フィレンツェに死す」の報道は多くの音楽家と愛好家の心に暗い影を投げかけました。デーラーと言えばこの「19世紀前半のイタリアとピアニスト・コンポーザーたち」シリーズの第1回(http://www.piano.or.jp/enc/fb/view/55)でご紹介したイタリア・ピアノ音楽のパイオニアでした。デーラーとフマガッリが同じ年、同じフィレンツェの街で亡くなったことは、イタリアの音楽界にとっても大きな損失だったに違いありません。『メネストレル』紙の記者はアドルフォ・フマガッリの弔辞を次のように締めくくっています。

アルノ川のこだまは最後の愛の歌を繰り返し歌った。その竪琴はあのイタリアの大地で最後の調べを奏でた。彼[フマガッリ]を生み、同じくフィレンツェに没したデーラーの一月後に彼が没することとなったあのイタリアの地で。
そして天へと、道は拓ける
彼らは手を取り合い 旅立った

(1856/5/18 p.160)

 アルノ川はフィレンツェ市街を流れる川です。
 アドルフォ・フマガッリの作品は殆ど演奏される機会はありませんが、オペラの主題によるパラフレーズ以外にもノクターンやカプリス、スケルツォ、性格小品など様々なジャンルのオリジナル作品を残しており、大規模な作品では「鐘」と題された《大ピアノ協奏曲》作品21があります。まだ影の薄い「イタリア楽派」の中では、『ピアノ曲事典』に録音曲を増やしていきたい作曲家の一人です(上田)。

参考リンク:楽譜(IMSLPサイト内A. フマガッリのページ):http://imslp.org/wiki/Category:Fumagalli,_Adolfo

記事中、画像はWikipedia, 楽譜はIMSLPより転載。
執筆者:上田 泰史 
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